00-51 アカネズミ【変容】
過去編(その4)です。
トガリネズミによって生み出された薬は画期的なものでした。これまでにも多くの薬が開発され、生産体によって増産されてきましたがトガリネズミによる新薬は別格です。彼の薬が実用化すれば医療面における外科的施術の需要は半減し、多くのネズミの命が救われることが期待されます。そのためトガリネズミにはより多くの製薬にご協力いただきましたが彼だけでは間に合いませんでした。よってトガリネズミに代わって彼の新薬の増産を担える生産体が必要です―
走る。もたつく。重い空気と警報音を振り切らんと歯を食いしばって足を出す。
―ごく稀に生産体に変異する受容体が確認されています。皆さんの代ではアカネズミでした。彼には様々な検査にご参加いただき、いずれは生産体としての役割を担っていただくことを了承済みです―
床に手をつき重みに耐える。空気の塊に押し潰されそうだ。
―ハツカネズミも大変優れた受容体です。いかなる薬も拒絶反応を示すことなく、全ての効能を発露させています―
圧縮空気が霧散した。四つん這いでアイに抗っていたヤチネズミは反動で弾かれたように身を起こし、そのまま後ろ手と尻をつく。
「ヤチ!」
振り返るとカヤネズミが壁板を剥がして配線を引き千切っていた。点滅する照明の中で火花が飛び散る。
「カヤ…!」
「早く行けって!」
カヤネズミが壁板をふりかぶって壁面の中の基盤を殴りつけた。耳障りな警報音が途切れ途切れに鳴り響く。
カヤネズミに礼も告げずにヤチネズミは立ち上がって走った。呼ぶ。叫ぶ。早く応えろ、返事しろ。
―ですが中には受容体には不向きなネズミもいます。新生児期における検査を通過したにもかかわらず、長じるにつれて受容体としての素養が失われるのかもしれません。成長期における身体の変容がその一因と考えられますが原因はいまだ定かではなく…―
聞こえる。音が近づく。声と呼ぶには割れ過ぎた絶叫の出どころが、
―そうした者たちにとっては厳しい時間になり得ることも否定しません―
「シチロウッ!!」
怒鳴りながら扉を叩いた。叩いても蹴ってもびくとも動かないそれを、ヤチネズミは全身を使って壊そうと試みる。
「シチロウ、シチロウ!」
―残念ながらシチロウネズミの受容体は劣化していました。しかしネズミである以上、彼にもネズミとしての義務を全うしてもらわねばなりません―
「シチロウ! 出て来い、開けろここ! シチロウって!!」
―ネズミである以上、―
「あなたもですよ、ヤチネズミ」
振り返るより早く高密度の圧縮空気が衝突してきた。半身を扉に抑えつけられ、擦った頬と耳が特に痛む。胸の下敷きになった右腕の先は自由なのに、根元の圧迫感から指先も痺れて動かせない。
「ネズミである以上、皆さんには知る権利が与えられます」
扉の向こうに響くシチロウネズミの泣き叫ぶ声を背景に、アイの柔らかな声が左の耳元で囁く。
「シチロウネズミも納得し、自ら望んで検査を受けています。彼の意思を尊重してください、ヤチネズミ」
アイの言葉が理解出来ない。みずからのぞんで? かれのいし??
「目の前の苦痛に思わず弱音を吐いてしまうことはあります。しかし皆さんが最初に示した意思を尊重し、責務を全うすることをアイはお手伝いします」
いたい、いたいよ、もうやめて、
「あなたも彼のことを思うなら、」
もうゆるして、あい…
「彼の意思を尊重してください」
「今の気持ちのが大事だろ!!」
ヤチネズミは声の限りに叫んだ。
「気持ちなんて変わるだろ! 気の迷いもあるんだよ! シチロウのこの声聞こえないのかよ、こんな声出しながら続ける価値あることなんてあるわけないだろ!」
「ですがヤチネズミ、シチロウネズミは自らの…」
「んなもん便所に流しとけ! この声聞けって言ってんだよ。シチロウ、死にそうじゃん。初めにシチロウが何言ったか知らないけど今はこんだけやめたがってんだからやめさせてやれよ。なんでこんな…」
「ヤッちゃん?」
ヤチネズミは目を開けた。この呼び方をするのは、
「アカ?」
アイに解放される。シチロウネズミの声のはす向かい、かけられた声の方に歩み寄る。ヤチネズミを迎え入れるように今度は簡単に扉が開いた。
「あ…」
「どうしたの? すごい声で叫んでたけど。アイとなんかあった?」
「……アカ?」
「ヤッちゃんも受容体? またみんな一緒だね。って言っても地下十階はみんな個室だけど」
「ヤチネズミは地下五階に行きます」
「五階? ヤッちゃんって生産体だったの? すごいね! 俺まだ受容体だけど」
「アカネズミも地下五階に上がっていただきます」
「でもまだ先でしょ。その時はヤッちゃんの部屋の近くがいいな」
「了解しました。アカネズミの希望を受け入れます」
「頼むよ、アイ」
アカネズミの部屋の前でヤチネズミは両膝をついた。アイと談笑するアカネズミと、背後から小さく聞こえるシチロウネズミの泣き声の中で、
「シチロウまた…」
「シチロウネズミには辛い時間です」
「ハタさんの薬は合わなかったの?」
「残念ながら。しかしシチロウネズミは辛うじてトガリネズミの受容体となりました」
「まじで? じゃあ俺と一緒だね」
両手の中に顔を埋めた。
「ヤッちゃん?」
呼ばれた声に返事さえできずに、
「何、どしたの? 俺さ、今、目ぇ見えなくて」
手の平では持ちきれない嗚咽が漏れて、手首を伝って雫が落ちた。
「ねぇ、ヤッちゃんってば、」
また泣いてんの?
* * * *
トガリネズミは地上に出たがっていた。同輩たちに置いてきぼりを食らっていた分、何としてもその差を取り返したかったというのもあっただろう。しかしただ単に塔の外を見てみたいという純粋な思いもあったのではないかと、彼を知る者は皆、口を揃えた。何故ならトガリネズミは地上に憧れていたから。背伸びしても届かない、果てのない空を直に見ることを夢見ていたから。
「トガちゃんのはさ、本当にすごい薬なんだ。ちょっとくらいの傷ならすぅぐ治っちゃうの。どれくらいの傷までなら治るのかなっていうのを探している最中だったみたい」
望み通りトガリネズミは地上に出られた。しかしその目が空の色を映すことはなかった。光を失った水晶体はやがて乾燥し、砂に呑まれて干乾びていった。
「トガちゃんの失敗で頭の中の方は治らないってわかったから、それ以外の部分を調べてるのね。うん。うん? いや、それは大丈夫」
大丈夫? そんなになって『大丈夫』?
「大丈夫だよ。俺にはハタさんの薬も入ってるから」
そういう問題か?
「ならどういう問題なの? 俺がいいって言ってんだからいいんだって」
―彼の意思を尊重してください―
「シチロウは……、辛そうだよね確かに。でもシチロウだってわかって受けてるんだよ。シチロウが選んだことなんだよ。ヤッちゃんが止めたらシチロウの意思とか覚悟とかが無駄になるんじゃないかな」
無駄になってもいいじゃん! あんなに泣いてるのに続けなきゃいけない意味なんてなくね? シチロウだってきっともうやめたいと思ってるって。
「どう思ってるかなんてヤッちゃんにはわかんないだろ。俺だってわかんないよ。だからこそ初めの意思が大事なんじゃん。シチロウが自分で出した意思が」
―彼の意思を尊重してください―
でもさ、でもあの声は…
「ヤッちゃんはトガちゃんが遺してくれたものが無駄になってもいいの?」
それは……
「俺はやるよ。シチロウもきっとそうだよ。だって俺たち…」
「俺たちネズミなんだから!」
は…!
……ハツ?
「あぁ、ハツ。そっちどう?」
ハツ、お前もなんつう…
「夜汽車を犠牲にしたままでいいわけないじゃん!」
お前らが犠牲になってんじゃん!! アカもハツも鏡見てこいよ、それほんとに何ともないのかよ!
「だからヤッちゃん、俺いま、目ぇ見えないんだって…」
「これくらいで地下に住む者掃除がはかどるんならなんにも問題無いよ」
ハツ……?
「そうだよ、ヤッちゃん。一緒に頑張ろう」
アカ……。
―いたいよ、いたい、いたい、―
でもシチロウは、
―アイは皆さんの意思を尊重します―
意志。
「ヤチ!」
「ヤッちゃん」
「ヤチネズミ?」
俺は、
俺、
俺が間違ってんのかな。