00-145 ハツカネズミ【暴走】
過去編(その96)です。
「返せ、コージ」
アズミトガリネズミが生産隊を引き連れて現れた。深刻な状況のはずなのに、明かりの下にやってきたその顔を見たハツカネズミは子どもを抱えたまま噴き出す。
「………笑うな」
言われても無理だった。ヤチネズミも堪らず噴き出す。そもそも背後の生産隊の面々が既に笑っている。
治験体の子どもに両目を殴られたアズミトガリネズミは、左右対称に目の周りが青く縁取られ、眉間にはヤマネの拳によってつけられた三本線が走っていた。
「そこまでだ。お前ら全員連行する」
子どもを笑わせるための化粧を施したような顔で、アズミトガリネズミは任務を告げる。それから再び、「コージ」と言ってコジネズミに手の平を向けて見せた。渋るコジネズミを他の生産隊の面々が囲む。アズミトガリネズミは自らの力では手に負えない部下の御し方を変更したようだ。コジネズミは舌打ちすると黙って拳銃をその手に載せた。
「アズミさん、」
顔を見ると笑ってしまうから、ヤチネズミは下を向いたまま元上官に呼びかけたが、
「治験体は上階、それ以外はとりあえず独房だ」
アズミトガリネズミはヤチネズミを全く見ないで部隊員たちに指示を飛ばした。
「『連行』だってよ」
コジネズミが潰れた顔で言う。
「優しいよなぁ、アズミさんは」
部隊長の横顔を半目で見つめるその顔を、ヤチネズミは見つめる。
「ああ、あと、」
アズミトガリネズミが再び口を開いた。
「死刑囚はここに置いとけ」
ヤチネズミは今度こそ前の所属先の上官を正視する。
「アズミさん?」
「アイ、すぐに刑の執行を、」
「アズミさん!?」
「再開しろ」
見たこともない冷めた目で聞いたこともない静かな声で、アズミトガリネズミはアイに命じた。
「カヤさんに触るなぁ!」
ドブネズミが叫んでいる。カヤネズミを庇おうと生産隊相手に大立ち回りをしている。だが相手か悪い。分が悪い。数の力に圧倒されて頬から床に滑り込む。
「カヤさんに…!」
「もういい、ブッチー」
苦い顔のカヤネズミが後輩を慮る。
「カヤさん…」
仮面か素顔か、一瞬では判じ難い笑顔をドブネズミに向けた後で、カヤネズミは恨めしそうにアイを睨み上げた。
「やめ…やですよ、嫌がってるじゃないですか!」
ハツカネズミも四方を取り囲まれている。抱き上げた子どもを渡すまいと身体を大きく揺さぶるが、逃げ道はない。
「アズミさん!」
ヤチネズミは駆け寄ろうとする。不服を訴え正当性を主張しようと試みる、理解されることを期待する。がしかし、コジネズミに肩を握り締められた。あまりの痛みに身体を捩って歯を食いしばる。肩口からつま先までびりびりと痺れが走りまわる。それでもヤチネズミはあきらめ悪く、元上官の背中に向かって喚き立てる。
「アズミさん聞いてくださいッ! セージとカヤの刑をもう一回だけ審議し直し…」
「手伝いましょう」
場違いな耳障りのいい声に振り返り、ヤチネズミは固まった。嫌な記憶が全身の皮膚を引き締め悪寒が駆け抜ける。
「オリイジネズミ……」
呼ばれた男はヤチネズミに顔を向けると、嫌悪感を隠さずに顔をしかめた。
「目上の者には敬称を使う。そんなことも君は知らないのですか」
ご丁寧に厭味たっぷりな忠告をするオリイジネズミの背後には部隊員たち。よくよく見るとカワネズミやオオアシトガリネズミたちの顔も。別れた後に捕えられたか。ハツカネズミやカヤネズミも息を呑む。床に抑えつけられるドブネズミがカヤネズミに何かを伝えようとした時、
「ワタセ……?」
ハツカネズミが気付いた、全身黒こげのワタセジネズミに。煤だらけの顔が目を瞬かせ、
「ハツさん…」
「うちのワタセに何をしたああ!!!」
ヤチネズミはコジネズミと同時に振り返る。ハツカネズミが本日何度目かの沸点超えをしていた。取り囲む生産隊が取り押さえようと構えるも、生きる垣根は軽々と突破される。子どもを床に下ろすなり小銃を片手に握りしめた暴走者は、捕らわれの後輩たち目掛けて走り出した。
「ハツ!!」
ヤチネズミは叫んだだけだ。コジネズミに動きを封じられている。なんとか逃れようと身体の自由な部分を捻ったり揺すったりしてみるが、文字通り無駄な足掻き。カヤネズミは動けないか? ドブネズミは、と託せそうな相手を探す視界の外からコジネズミに、
「ちょっと黙って見てようぜ」
ぞっとするほどの至近距離で耳打ちされた。
ヤチネズミは元上官に振り返る。怒号の背中を見つめるコジネズミの目は興奮に輝き、口元は笑っていた。
* * * *
「彼には忍耐力というものがないのでしょうか」
オリイジネズミが冷めた口調で息を吐く。カワネズミは「すみません」と自分事のように項垂れた。
「ハツカネズミを止めてください。オリイジネズミは直ちに退避してください」
アイが悲鳴のように警報音を狂い鳴らして警告を繰り返す。アズミトガリネズミが生産隊の面々に指示を出す。ドブネズミの拘束が手薄になってカヤネズミは後ろ手を縛られただけで放置され、無害と認識されたのかヤマネは自由の身で床に座っている。
「オリイジネズミは退避してください」
命の危険さえあるはずなのにオリイジネズミはアイの警告を無視して佇んでいる。
「あの!」と身を乗り出したカワネズミを引き止めたのは、オリイジネズミ隊の部隊員の手だ。
「心配ない」
言われたカワネズミは全身で否定する。
「ありあり! ありです! ハツさん目ぇ行っちゃってます! 単身で十体近く地下掃除しちゃうんです。出来ちゃうんです、ハツさんは! 早く逃げないと…」
「カワさぁん、俺ら多分、黙ってた方がいい感じじゃないっすかあ?」
ハツカネズミの猛進が迫っているのに、オオアシトガリネズミはまた癪に触る横槍を入れてきた。「ねえ?」などと首を傾げて、カワネズミの背中に括りつけられた治験体の子どもに同意を求めたりしている。こいつには緊張感というものがないのか? ムクゲが生きてた時にその減らず口を叩いておけよ、とカワネズミは真っ赤な顔をオオアシトガリネズミに向けたが、
「彼に柔法の心得は?」
オリイジネズミが静かに尋ねてきた。「はい?」と鈍い反応しか返せなかったカワネズミの脇から、
「ないです! ハツカネズミは剛法一本です!」
ワタセジネズミが首を伸ばしてきて早口に答える。オリイジネズミは微かに頬を持ち上げてワタセジネズミに、
「わかりました。ありがとう」
簡潔に礼を述べた。ワタセジネズミは胸を膨らませて唇を固く結ぶ。
オリイジネズミは上衣を脱ぐ。脇に控えていた部隊員がすかさずそれを受け取る。
「ナンヨウ君、」
オリイジネズミが背中を向けたまま部隊員を呼ぶと、呼ばれた隊員は「はい!」と背筋を伸ばして敬礼並みの返事をした。
「いつでも出られる準備を」
「はい!」
「エゾ君」
「はい」
「わかっていますね?」
「……はい」
指名された隊員は、察するにおそらく副部隊長は、覚悟を匂わせる声で頷く。
部隊員たちと必要最低限の短い会話を終えると、オリイジネズミはカワネズミの横に来て屈んだ。カワネズミは限界まで首を回して背後を覗きこむ。自分の背中に括りつけられた子どもの目を見るオリイジネズミはアイのような穏やかさだ。その穏やかさのままオリイジネズミは、
「お口に?」
と、子どもに尋ねた。子どもは嬉しそうに、
「ちゃっく!」
「手は、」
「おひざ!」
「言われるまでは、」
「うごきません!」
カワネズミは改めて感心する。
「よくできました」
言って立ち上がったオリイジネズミは最後に部隊員たちに振り返る。カワネズミたちが揃って間抜け面を持ち上げた先で、
「では。行ってきます」
思わず見惚れる笑みで告げると正面を向き、迫り来るハツカネズミを鋭い視線で見据えた。
「いってらっしゃい、部隊長!」
オリイジネズミ隊の面々が直立で合唱する。カワネズミがびくりとし、オオアシトガリネズミが耳をふさいだその横で、
「部隊長ぉ!!」
遅れてワタセジネズミが声を張った。