15-41 再会と
白い息を切らせて目標は走っていく。闇の中で彼の呼吸音だけがその必死の努力を物語る。こちらを撒こうとしているのだろうが体力は限界に近い。瓦礫と砂の稜線を縫うように逃げていくがワンとジュウゴの左目がその影を見失うことはない。仲間とも引き離した。もう背後は気にしなくていいだろう。ジュウゴは片膝をつき小銃を構えた。左右にぶれて消滅と点灯を繰り返す赤い粒子の集合体に焦点を合わせる。
―頭、狙えよ―
「頭」
イシガメの教えを口中で繰り返した。銃弾も残り少ない。短く息を吸って引き金を引いた。と、叫び声。外した、ジュウゴは両目を見開く。
「ワン!」
呼びかけるよりも早くワンは標的に向かって矢のように突進していた。ジュウゴも遅れて後を追う。追いついた先でワンは標的の頭に食らいついていた。二本の腕がワンの首の毛を掴んでいる。
「離れろ!」
ジュウゴは怒鳴ったがワンも必死だった。腕はまだ動いている。ワンも頭を左右に振りまわす。ジュウゴは小銃を投げ捨てて腰帯から短刀を抜いた。ワンの鼻先を抑えつけて開ききった胸の中央に切っ先を突き立てる。びくんという振動がジュウゴにも響いた。右の手首まで飲み込むように不快な液体が昇ってくる。何かが頬を掠った。まだだ。ジュウゴは左手で右手ごと短刀を押しこむ。止まれ、止まれ、止まってくれ。
無限にも思えた時間が終わり、手の下の者は動きを止めた。気がつくとワンも口を放していた。互いに息を切らせてしばし無言で見つめ合い、ワンの舌なめずりと同時にジュウゴは息を吐き出し地面に尻を下ろした。
シマヘビは一瞬だった。トカゲもリクガメも。仕留めるのにかかった時間はそれだけ苦しませたということだ。片目など比にならない痛みだろう。
それにしても、ジュウゴは動かなくなった小さな体を見遣る。もっと別の方法があったはずなのに。こんなに流してしまっては飲める量が減る。そもそも小銃で仕留めきれなかったのが悪い。わかっていたのに出来なかった。相変わらず彼の作業は酷い。
ワンが奇妙な動きを始めた。歯に衣服か何かの繊維が挟まったらしい。しきりに体ごと首を後ろに引いている。
「何してるんだよ、君は」
ため息を吐きながらジュウゴは立ち上がり、歩み寄ってワンの口から引いた糸を抜いてやった。
数日ぶりの食事にワンは興奮していた。小さな体の腹に食らいつき、ジュウゴの注意など聞く耳を持たない。もっともワンがジュウゴの言うことを聞くことなどいつだって無いのだが。
満足して仮眠を始めたワンをおいて砂丘のふもとの窪地にジュウゴは穴を掘る。使うのは小銃の柄だ。静かな体を穴の中に置くとジュウゴは上から砂をかけ、最後は少し盛り上げた。
「ありがとう」
生前の顔もまともに見ていない相手に向かって礼を言う。彼のお陰でまだ動き続けている。
ジュウゴは左腕の袖を捲り上げ、右手で短刀を手にした。腕の腹にはいくつかの歪な短い直線が刻まれている。
「君でちょうど十五だ」
言うとジュウゴは自分の腕に刃の先を突きたてた。一瞬顔を歪めた後で、表情を戻して短刀を抜く。細く裂けた皮膚から赤い筋が滴った。
白い息を大きく吐く。上着の裾で短刀を拭って鞘に納める。右手で患部を握りしめ、血液を滴らせながら地面を見下ろすと、無言でその場を後にした。
「こんなところで寝るなよ」
斜面を登りきり、完全に緊張を解いて寝そべるワンにジュウゴは声をかける。ワンは片方の耳を持ち上げただけで、それ以外の部分を動かそうとはしない。
「僕は行くよ」
荷物をまとめてワンに横目で促す。ワンは片目を開けてじっとりとジュウゴを見上げる。
「本当に行くからな!」
口調を荒らげて言いつけたがワンは一向に動かなかった。結局ジュウゴは屈みこみ、ワンの前方の脚の付け根に手を入れた。自分の体の半量以上の重さを持ち上げる。ワンは気持ちよさげに目を細めながらジュウゴの肩に顎を置いた。首筋にかかる吐息が臭いうえにワンの体毛がくすぐったい。ジュウゴは頭を極力ワンから離し、ほぼ斜めに曲げた体で歩き始めた。
空はどんよりと色の無いまま、いつまでも暗い。分厚い雲のせいで太陽がいるのかいないのかジュウゴにはわからない。ジュウゴが足を止めて息をついた時、辺りが一瞬光った。見上げた空はしばらくしてから、銅版を滅茶苦茶に折り曲げているような轟音をあげる。肩の上で暴れるワンを、腰を反ってかわしながらジュウゴは周囲を見回した。少し離れてはいるが砂に埋もれた廃屋がある。足早に屋根を目指した。
無数に穿たれた四角い穴から中を覗く。誰の臭いも気配もない。ワンが傍らをすり抜け、ちゃっかり先に潜り込んだのだから問題無いのだろう。ジュウゴはワンの姿にため息を吐くと自分も廃屋の中に屈みながら進んだ。
降り始めた雪はすぐに激しさを増し、やがて風の唸りを伴って体感温度を下げ続けた。当たり前のように何もせずに暖を急かすワンに小言をぼやきながら、ジュウゴは火を熾した。
*
ハチと会えた。ナナをチュウヒたちに託してから数日か数十日後のことだった。線路沿いに歩いていると何となく見覚えがある景色が広がって来て、ジュウゴはワンに事情を話して線路を離れた。
屋根が落ちた廃屋だった。ジュウイチとシュセキとサンとジュウシと、車座になってどうやって夜汽車に戻るかその方法を議論した場所だ。サンとジュウシが険悪で、ジュウイチが癇癪を起してばかりで、シュセキは相変わらず目付きが悪くてハツカネズミが優しくて。
階段を降りる。屋根がないとは言え、頭上からのまばらな星明かりでは足元が覚束なかった。あの時はもっと鮮明に見えていた気がして、ネズミたちが携帯用の電灯を点けていてくれていたんだと思い出す。動くものが何も無い暗闇の中では左目も役に立たなくて、ジュウゴは狭い視界の中で右目を凝らしてほの暗い通路を進んだ。
「ハチ……」
少し開けた小さな空間の、埃と砂に覆われた床の上に、自身も砂に半分以上埋もれた姿でハチはいた。多分ハチだ、多分。あの時のハチは出血で衣類が真っ黒だったし、服装から夜汽車かどうかを判断するのは難しいけれども靴が。薄っぺらくて地上を走るのには適していなくて夜汽車内の床の上を歩くことだけを目的とした靴が、その干乾びた足に引っ掛かっていた。
「ひさしぶり」
ジュウゴの呟きにワンが顔を上げる。
「ごめん、寒かっ…寂しかっただろう」
誰もいないこんなところであれからずっと。
「忘れてたわけじゃないん……ごめん。嘘ついた。割りと何度も忘れてた、君のこと」
ごめん、と繰り返してジュウゴは頭を下げた。
「そんなだから君はジュウゴなんだよ」
驚いて顔を上げた。背後を見てからワンを見下ろし、もう一度ハチを見る。早打ちする鼓動が静寂の中で響いている。
「今の君?」
ジュウゴはハチのもと歩み寄り、膝をついて顔を近付けた。剥き出しの機械の配線のような、枯れた植物の樹皮のような質感の顔は相変わらず、三つの穴と中央の窪みを天井に向けて開いているだけだ。
「ハチ、ハチ? ねえ、話せるの?」
ワンが虚ろな目でジュウゴの背中を見つめる。
「ハチ!」
興奮した自分の息使い以外は何も無い。
やがてジュウゴも息を吐いて項垂れた。そう言えば昔、アイに言われたのだと思い出す。脳は願望を採用するらしい。
ジュウゴは額を覆うようにして手の平を乗せ、そのまま頭を掻き毟った。天井に向かって息を吐き、再びハチを見下ろす。
「上、行こう。埋めるよ。ここにいるよりいいだろう?」
言ってハチの体を持ち上げようとした。途端にハチの体が中央から折れ曲がってしまってジュウゴは慌てる。今度は慎重に、注意深く砂を払ってからその体を持ち上げた。
「軽いね」
大破した夜汽車の中でサンの提案を聞いて抱きしめた時よりもずっと。
「痩せた?」
干乾びた体を見下ろしながら言う。
「あ、そうだ。君に知らせなきゃと思ってたんだ。君と仲の良かったナナとサンのことなんだけどさ……」
語りかけながらジュウゴは地上に向かった。
*
ワンが起き上がった。欠伸をしてから体を前後に二度ほど伸ばしている。自分の準備体操が完了してからようやくジュウゴに視線を寄こす。
「おはよう。じゃあ僕は寝るよ」
成り行きの同伴者が臀部を下ろしたのを確認して、小銃を抱えたままジュウゴは横になった。
* * * *
三日三晩降り続けた雪は一瞬の朝日で完全に姿を消し、再び分厚い雲が空を覆い尽くしたのはおそらく昼過ぎだった。夜と変わらない安定した気温の中でジュウゴは廃屋から顔を出す。まだ日没までは時間がある。このまま夜を待つべきだろう。風は相変わらずで砂丘の稜線が形を崩し、景色を変えている。しかしジュウゴの計画を全く無視してワンが傍らをすり抜け這い出し、くすんだ色の中を歩きだした。
「ねえワン、ちょっと待って」
ワンはジュウゴの声など聞こえていないように、微妙な角度で斜め横を見つめたまま歩き続ける。
「ちょっと待ってって、ワン」
言ってジュウゴは彼の隣に歩み寄った。
「雲が晴れるかもしれない、もう少し待ってから移動した方がいいって」
ワンは長いまつ毛の間からまっすぐ前を向いている。ジュウゴは息を吐いた。諦めてワンの後ろを歩く。
「君も首巻きくらいした方がいいよ。風、凄いし砂が耳に入らない?」
自分の気遣いからの提案さえワンは聞く耳を持たない。ジュウゴは顔を背けて再びため息をつく。顔を戻すとワンは立ち止まり、耳をそばだてて前方を睨み上げていた。
「どうかしたのか?」
ジュウゴもワンの視線を追った。右目を凝らしてそして、息を呑んだ。
「……木だ」
木が歩いている。
ジュウゴは瞬きも忘れて奇怪な木を凝視した。
そんなはずないことをジュウゴは知っていた。木は動かない。でもあれは。ではあれは?
木が傾いた。砂丘の陰に落ちていく。ジュウゴは思わず声をあげた。それと同時にワンが飛び出す。一秒遅れでジュウゴもワンに続いた。木が姿を隠したところに点と化したワンが飛び込む。ジュウゴは息を切らせて走る。ワンの名を何度も呼ぶが、彼がジュウゴに返事をするはずもない。
ジュウゴは振り返った。風以外の何かが聞こえたのだ。確かに声だった、言葉だった。
そのすぐ後で銃声が鳴り響いた。数え切れないほどの連続音。一体何丁同時に撃っているのか。相手はどれほどいるのか。
悪寒が背筋を駆け抜ける。見えない部分が恐ろしい。視界の狭さが不安でならない。ジュウゴは回るように周囲を警戒しながらワンの後を追う。
ようやく砂丘をよじ登る。ワンの姿を探すジュウゴはそこでまた動きを止めた。
落ちくぼんだ地面に見覚えのある建造物があった。炎ではない光が眩しくてジュウゴは左目を覆い、義眼の電源を切る。銃口を向けていたそれもやがて顔を上げた。自前の視界では顔の判別がつかない。だが目を凝らさずともそれが何なのかジュウゴにはすぐにわかった。知らずに止めていた息を吐きだして無我夢中で斜面を滑り下りる。
徐々に距離が狭まる。顔が判別できるほど近くなる。表情はわからない。ごつい保護眼鏡の下に隠れている。だが口元はらしくなく、だらしなく開いていた。片手で握りしめるいかつい小銃を斜め下の地面に向けて、視線は確かにジュウゴを捉えている。何も言わない。何も聞こえない。瞬きをしている間に見えなくなってしまいそうで、乾き始めた右目を必死に開き続けた。
右手を伸ばして触れようとした。びくりと動いて身を引かれた。動く。動いている! ジュウゴは両手で彼の腕を握った。手の平から感触が伝わってくる。視覚情報だけじゃない。ある。ここにいる。
「シュセキぃ!!」
ジュウゴは両腕を開いて飛び込んだ。が、避けられつんのめり顔から砂に突っ込む。痛みの中で上げた顔のこめかみに銃口が突き付けられる。
「ネズミか」
「え?」
「答えろ! 君はネズミか!」
「何言ってるんだよ。僕だよ、ジュウゴだ! 同じ夜汽車の…」
「そんなことは見ればわかる。それよりも君はネズミか違うのか。どっちだ、答えろ!」
「ええっ!?」
シュセキは歯を食いしばって小銃を構え直した。引き金にかかる指が動く。
「ちょちょ、ちょ待っしゅ…、ええっ!?」
何なんだよ、シュセキだろ? トカゲ? イシガメとクサガメみたいな同じ顔の別もの!?
混乱するジュウゴの耳に聞き慣れた怒鳴り声が響いた。叱責にも似たその声の主は研究所の入口からジュウゴとシュセキを軽蔑したように見つめている。
「ワン!」
「『わん』?」
ジュウゴはシュセキを見上げる。
「あれが『わん』か」
「え?」
「ならば君が『こう』か」
「はい?」
「……良かった」
呟くとシュセキはようやく銃口を下ろした。
「何が? 何の話? おかしいよ、君、壊れてる?」
「その発想に行き着く君の思考回路の方が断然おかしい」
その早口があまりによく知る聞き慣れたもので、ジュウゴは口を開けたままシュセキを見つめた。見つめたまま腰を持ち上げ目線を同じくする。
「シュセキだ」
この態度、不遜な視線、感じの悪さ、言葉遣いに腹立たしいところも全部丸ごと間違いなく、
「シュセキぃ!!」
もう一度試みたイシガメ仕込みの接触は、やはり拒否されジュウゴは空振り膝をつく。
「臭い、不快だ、近寄るな」
「……ごめん」
「接触の方法と強度によっては他者および自分も傷つけないということは検証済みだ。だが君の接触は僕に吐き気をもよおさせ肌も粟立つ。よって君による僕への接触は…」
「ごめん」
言葉を遮られたシュセキが唇を閉じる。
「ごめん、ごめんシュセキ、ごめ…」
「……全ての接触が危険なわけではない」
シュセキは横を向いて小声で呟く。ジュウゴの謝罪が何についてなのか気付いていない。
「じゃなぐて、ぐぉ…」
「文章はきちんと構築してから口にしろ」
ジュウゴはシュセキを見上げた。眼鏡越しにこちらを見下ろしていた目玉は、それと同時に顔を背けた。口調の単調さも健在だ。何も変わらない、何一つ変わっていない。
「その顔はどうした」
明後日の方を向いたままシュセキが言った。ジュウゴは右目を左に寄せて鼻を啜りあげ、
「持ってかれた」
シュセキの頭が微かに揺れた。
「前のやつはね。でも新しいこっちの目もかなり使えるんだ。イシガメが作ってくれてヤマカガシが取りつけてくれて動くものなら動きが赤く点滅して見えて…」
「暗視鏡が接合しているのか」
「そう、それ!」
頷きながら袖口で顔を滅茶苦茶に拭う。しかしそれよりも、
「君は? ずっとここに?」
「君だけか」
ジュウゴの質問に答えずにシュセキが尋ねてきた。ジュウゴは鼻水を啜りあげながら同意なのか否定なのか判別し難い頭の動かし方をした。
「サンは無事だった。新しい仲間のもとにいる。ナナも笑ってた」
「『ぶじ』?」
「変わらず動いてたってことだよ。ウミになってた、サンの方ね。ナナはその…、でもちゃんと生きてて確か、ええと、なぎ? な…」
シュセキがいかつい銃を肩に乗せた。反対の手で握りしめる棒を器用に操って、一本の脚で移動を始める。頭を掻いていたジュウゴは思い出して背中のずだ袋を腹前に回し、その中をまさぐった。
「ちょっと待ってシュセキ! 君に渡さないとと思って作ってもらったこれ…」
「彼も交えよう。君の顔を見れば驚くだろう」
シュセキの言葉にジュウゴは手を止め顔を上げる。
「彼って?」
「来ないのか」
振り返ったシュセキの顔を見つめ、ジュウゴは唇を結んだ。
砂が風に転がされて本来あるがままの地面になっている。でもその場所には覚えがある。
シュセキはおそらく晴れた夜には毎日そうしてきたように、かつては盛られていた砂の前に腰を下ろした。途切れた脚を投げ出してもう一本だけを折り畳み、左右非対称な胡坐をかく。ジュウゴも逡巡した後、シュセキの右手に腰を下ろした。
「ああ」
シュセキがぼそりと呟いた。ジュウゴはまじまじとその横顔を凝視する。
「君のその臭いだ。植物など比にもならない」
言われて右腕を持ち上げて鼻先に近付けると、突然シュセキが端から息を吐いた。ジュウゴはぎくりとして顔を上げる。
「僕も驚いた」
「何を?」
「確かに」
微かに笑みを覗かせるシュセキの横顔に困惑し、その視線の先に目を細める。
「誰と話してるんだ?」
突如シュセキが振り向いた。ジュウゴはびくりとする。
「何を言っているんだ、君は」
「……え?」
「ここにいるだろう」
「『いる』って…」
「ジュウシだ。君が言ったのだろう、『彼は砂の下だ』と」
ジュウゴはシュセキを見つめて固まった。胸の音が頭の中にまで響く。嫌な予感が胸のあたりをぞわぞわと這いあがって来る。それらを振り切るように首を横に振った。
「いないよ? ジュウシは死んだ。いないんだ。君は眠っていたから知らないかもしれないけれども埋めたんだ、皆で。だって死んだから」
シュセキが怪訝そうに顔を顰めた。ジュウゴは説明を試みる。
「動かないってことだよ。話せないし何も無い、なくなるんだ。だって腐るから」
「確かに変質していた」
「見たの!?」
シュセキの呟きにジュウゴは腰を浮かし、戸惑い、地面とシュセキを交互に見遣る。
「みっ、ど、え? ……掘り返したのか?」
「彼は砂の下だと言ったのは君だろう」
「言ったよ。うん、言った。覚えてるんだそれは。でもならなんで…」
「変質していたことは確かだ。だがだからと言って彼が彼であることに変わりはない」
「変わるよ。だって彼はもう動かない」
「動きたくないから動かないのだ。例え外部から如何なる使役の圧力をかけようとも自身が意図しなければ体躯は動かせない」
「意図しても動かせないんだ。そもそもそこのジュウシに意図は無い」
「その者に意図があるか否かなど目に見えることではないだろう。それとも君のその目ならば誰の意図も見えるというのか」
ジュウゴは苛立ちを覚えた。
「見えないものは無いも同然だと君はいつも言っていたじゃないか!」
「見てもいないのに決めつけるなと言ったのは君だ」
どこまで行っても平行線だ。
「……彼は死んだんだ」
ジュウゴは言い含める。
「死んだんだよ。もういないんだ。そこにあるのは彼の体だけだ」
ジュウゴは地面を見遣る。
「その証拠に彼は動かないし笑わないし話せないだろう」
「植物もそうだろう」
シュセキが言う。
「彼らも動かないし笑わないし話すこともない。だが彼らは土に根を下ろし立ち続ける。何が違う」
「僕たちは彼らとは違うよ」
「同じだ」
ジュウゴは真正面から見つめてくるシュセキを見つめ、息を吐きだすとともに顔を背けた。頭髪を掻き毟る。両手で頭を抱える。
ナナほどではない。シュセキはシュセキのままだ。記憶も平常通りに引き出せているしジュウゴの話も大部分は理解したのだろう。だがジュウシに話が及ぶと途端に脱線する。線路は無いとどんなに叫んでも何もない地面を走行し続ける。
「そうだな」
シュセキが呟いた。
「何がだよ」
ジュウゴは苛立ちを隠さずに尋ねる。
「君はすぐに声を荒らげる。少しは冷静になることを学べ」
「彼は話さないよ。君は君自身に相槌を打っているだけだ。それが彼の声に聞こえるというならば君の気のせいだ」
吐き捨ててからジュウゴは口を噤んだ。いくらなんでも言葉が過ぎたと反省する。
しかしシュセキは表情を変えなかった。相変わらず汲み取れない視線をよこした後、ゆっくりとジュウシの眠る地面を見下ろす。
「情報過多がもたらすのは注意力の低下だ。許容量を超える情報の前では矮小な情報を見落としがちになる。君のその目が何をどれほど見ているのか僕にはわからないがもう少し的を狭めて一点に集中すべきだ」
シュセキは立ちあがった。建物の壁を縫うように歩きだす。
「来ないのか」
「どこに」
酷く無愛想に返事をしたが、覗き見た背後の空の色でシュセキの言わんとしていることを理解した。空が明るい。いつのまにか風も凪いでいる。
「早く洗った方がいい。元々芳しい訳でもないが今の君は凄まじい。悪臭の塊だ」
言うとシュセキはジュウゴを待たずに角を曲がった。
「そんな言い方しなくたって……」
ジュウゴは首巻きをほどいて地面に叩きつけた。冷たい空気が途端に項を撫でて身震いする。少しは頭も冷えれば良いが。
「持ってかれたっていうのは理解するんだ」
左目を指先で掻く。
「君も教室に残った皆みたいに持っていかれれば良かったのかな」
ジュウゴは鼻で笑った。
「冗談だよ」
顔を出した太陽がジュウゴを照らした。空気はまだ冷たいのに光線は肌を刺す。後ろに投げ出した手の甲を引いて、反対の手で擦る。
「冗談だって、本気にするなよ」
静寂に歯ぎしりする。
「何とか言えよ! 巻き鼻毛!」
反対の手で擦りながら、ちくちくと痛む手の平で額を覆った。
ワンは脚の高い長椅子の下にすっぽりと収まって休んでいた。まるで自分のためだけにこしらえた場所だと言わんばかりにその姿はそこに合致している。彼がこれほど熟睡するのも珍しい。ジュウゴは屈んでワンを見つめた。
通路の奥の扉が開いてシュセキが出てきた。保護眼鏡を額の上にかけ、目元には壊れかけの、正式に言えばジュウゴが壊した曲がった眼鏡をかけて、手には大量の植物を抱えている。ジュウゴはちらりとシュセキを見遣ったが、洗いたての頭髪の水滴を拭う素振りで顔を背けた。
「じきに彼が来る。君たちを探していた」
厨房の中から声がする。ジュウシとの会話は距離さえも超越するようになってしまったのだろうか。
「勝手に物色したことは謝罪する。だが残されていた記録からおおよそのことは把握した。凄いことを考える者もいたものだ。叶うならば僕も直接会って話がしてみたい」
シュセキは居間の方に歩み出てきていた。
「『こう』の世話を焼くのは大変だっただろう。迷惑と騒音の権化だ。君が一度も怒りを覚えなかったのだとしたら尊敬に値する」
ジュウゴは屈んだままシュセキに場所を譲る。シュセキは一本の脚と棒で立ったままワンを見下ろし、
「ところで聞きたい。君たちは何なんだ」
「君こそ何なんだ」
ジュウゴは眉をひん曲げ口を開けてシュセキを見上げた。吐き出す言葉一つひとつが意味不明だ。
シュセキはジュウゴをまるでいない者と捉えてさらに話を続ける。
「眠ったふりなどするな。聞こえているのだろう、黒色一号」
ワンの両耳がぴくりと立った。