第一章 怪物か、ヒーローか 第5話
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カラスだった。
正確には黒い羽毛に覆われた鳥型の魔獣。
それは先日の大型魔獣に比べればあまりにも小さい。それこそ、本物のカラスより僅かばかり大きい程度だったが、その鋭利なクチバシは人間の肉を抉るには十分すぎる凶器だ。
なにより一羽ではなく群れでの襲撃である。
とても一般人の手には負えないだろう。
観戦に来ていた対魔機動隊の隊員たちも、あまりに突然のことで統制が取れていない。
「おい、加賀美! この結界解除しろよ、はやく!」
「うるさい、やってる! 急かすな!」
アラタが真っ先に視線を向けたのは、当然ながらミコトたちのいる場所だった。
沙都弥がどうにか迎撃している様子が見て取れるが、それでもミコトと近所の子供たちを護りながらでは、彼女とて本領を発揮できないだろう。
まだ消えない半透明の霊子障壁に苛立ちながら、いっそ『粉砕炸裂』でブチ破るかと考えた瞬間――、
「ッ……!?」
ぷつり、と障壁が消えた。
しかし、アラタはすぐに客席の救援に向かうことが、できなかった。
頭上から迫りくる殺気を無視できるはずもない。
唐突に――あまりに突然に頭上から振り下ろされた凶刃に対して、アラタは右腕ごと機械式大剣『絶爪・紅葉(改)』を打ち上げた。
空気を断ち切るような衝撃が、腕全体にずんと響き渡ってくる。
魔獣とは違う。
これは明確な意思を持った攻撃だった。
「ほう。気配は消したつもりだったのだがな」
「テメェ……んな殺す気満々で、なんのつもりだクソッたれ!」
空からの襲撃者は、アラタに弾かれながらも宙で受け身を取って、まるで亡霊のように音も立てずに着地した。
どこか軍服を思わせる装束に、白の外套を羽織った長身の男――彼の手には抜き身の大太刀が携えられている。
まるで張り付いた仮面のような無表情で、その男は値踏みでもするようにアラタを見る。
「チッ、このヤロウ……ッ」
こんな男に構っていられない。
だが背中を見せれば確実に斬られるという恐怖があった。
恐怖など怪物には相応しくない感覚だが、このときアラタは生まれて初めて、気を抜けば殺られるという直感に胸を衝かれたのだった。
だから、アラタは襲撃者の背後――彼が意識に留めていない少女に目を配る。
彼女はこの状況に戸惑いを隠せない様子であったが、それでもいま頼れるのは彼女だけだった。
それに、加賀美の言っていたように彼女には欠点こそあるが、実力そのものは人間の範疇で測ればかなりのものだと思われる。
「ミコトとガキどもを頼む!」
「え……? だ、だけど……」
「いいから、はやく行け! こっちはテメェの力量を信じて任せてんだ!」
「なっ!? 偉そうに……ええ、わかった、わかりました! アンタの応援団は私が助けてやるわよ!」
やることが決まってしまえば、和装の少女の姿が消えるのは、一瞬のことだった。
加賀美はこちらの様子を終始気に掛けていたようだが、すでに己の役割を果たすべく客席の部下たちのもとに向かっている。
それでいい。
この襲撃者はただの人間ではないと本能が告げている。
アラタとしても手を抜くことはできないかもしれない。ならば、いまこの怪物の近くに誰かがいたとして、かえって邪魔になるだけだろう。
二人きりになったところで、改めて純粋な問いを投げかけた。
「テメェ、一体なんだ? あのカラスどもはテメェが従えてるってわけじゃねえよな?」
「答える義理はない。俺は貴様という『鬼』を討つだけだ」
男の背後に無数の光が迸る。
瞬いた薄青の燐光は、やがて形を成して、エネルギーの剣と化した。
それは数にすれば五〇は超えている。一つ一つが確かな致命傷を与えるであろうものが、それだけの数として展開されている。
これほどの霊力を一度に行使できる人間はそうはいない。
いや、そもそも、この男は人間なのか……それが、いまになっても、判別がつかない。
人間には人間の、魑魅魍魎には魑魅魍魎の、それぞれ特有の気配があるはずなのだが、この男に関してはなにも読み取れない。
まるで、この世界の理から外れたような、異質な存在感だけがそこにある。
「さあ、朽ち果てろ」
「やっぱそうくるよな、クソ!」
彼の背後に展開されていた霊力の剣たちが一斉に射出された。
降り注ぐ雨のように、あるいは爆撃のように、それらはアラタの頭から爪先まですべて穿とうとしている。
瞬時に最初に着弾するのはどれか野生の勘で推測して叩き伏せるが、二撃目と三撃目が右肩と左太腿を貫いていく。
「ちっ……!?」
捌けないものは無視しろ。
最速の迎撃で落とせるものだけを、一つも漏らすことなく斬り払え。
僅か二秒。だが、その思った以上に長い時間、アラタは『絶爪・紅葉(改)』を正確に暴れさせるのだった。
肉体で受けたのは二十四、大剣で捌いたのが三十二、そこでやっと凶刃の雨が止んだ。
アラタの全身が自らの血液に濡れて朱に染まっていた。
それでもまだ立ち続けているのは、ただひたすらに怪物だからだ。
標的が倒れないことに男は――むしろ満足げに目を細めた。ここにきて初めて浮かべた表情の違和感にゾッとした。
「気味わりぃな、テメェ……!」
「いいぞ。さすがは『最強』と呼ばれている鬼だ。そうでなくてはならない。貴様こそが俺の相手には相応しいと胸の奥底が叫んでいる!」
男は大太刀を腰溜めに構えると、有無を言わさぬ速度で斬り込んできた。
傷だらけの体でアラタはそれに応じる。ぶつかり合った刃の衝撃音が、激しく耳の奥を揺さぶってくる。
どちらともなく鍔迫り合いに移行して、そこでアラタは己の勝ちを確信した。
力比べならば負けるつもりはない。そう思ったときだった、
「ぐ、う……ッ!?」
鼓動が弾けるように高鳴った。
全身から力が抜け落ちていくような感覚に蝕まれる。
それに比例するように意識もまた希薄なものに変わっていく。
「なんだ、これ……ッ」
「む……? いや、そうか……随分と大振りだったがゆえに気付かなかったが、なるほど……貴様の得物はやはり鬼の紅爪であったか」
「くそ……なにしやがった、テメェ!」
膝が震えてうまく力が入らない。
まるで体の中を無数の虫が這いずり回っているようだ。
いくら怪物であっても圧倒的な力を封じられてしまえば、やれることなど普通の人間と変わらない。
体の芯から力が吸い出されるような不快感に、アラタは敵が霊力を吸い上げる能力でも使っていると考えたが、
「俺はなにもしていない。ああ、特別な能力など一切使っていないと、断言しよう」
「ふざ、けんな! だったら、これは……っ!?」
「ふざけてなどいない。貴様がそうなった原因――その最大の理由は貴様自身だろうに」
そして彼は口にする。
「黒き鬼姫が振るった二刀と一剣。そのひとつが、貴様の得物――その中核に存在している『絶爪・紅葉』だろう? そして、もう一振りの一刀が俺の手にする『刹牙・清姫』だ。かつて黒き鬼姫の手で振るわれた二刀が揃ったことで、貴様の体内に流れる血が共鳴反応でも起こしたのだろうよ」
「なん、だと……?」
その話はいつだったか沙都弥にも聞かされたことがあった。
アラタの『絶爪・紅葉』は本来は太刀だったが、あまりに破損が激しかったため、いまの機械式に改修されたのだ。そして『刹牙・清姫』は、『絶爪・紅葉』と対を為して黒き鬼姫――アラタの母親の手で戦い抜いたのだと。
なぜ、アラタの母親の遺物を、この男が持っている?
いや、そんなことは、いまはどうでもいい。
(……そうか、力が吸われてるんじゃねえ……これは、そういうことかよ……!)
相対する男はこの現象のことを共鳴反応と言った。
それでようやく理解した。かつて母が振るった力同士が衝突したことで、アラタは体の内側を乱されているのだ。
すなわち、鬼としての本能が刺激されて、理性を喰い破ろうと暴れだした。その結果としてアラタの内側はめちゃくちゃに掻き回されている。
やがて、アラタは耐え切れず膝をついた。
その結果に襲撃者の男がつまらなそうに吐き捨てる。
「フン。興が削がれた。次は正真正銘の鬼となれ」
「待て、この……!」
男はそれだけ言い残して、虚空に融けるように姿を消した。
逃がすまいと立ち上がるが、しかしすぐに崩れ落ちて、アラタはその場に倒れ伏した。