終章 陽だまり 第1話
01
目が覚めると見慣れた天井が視界に飛び込んだ。
そう。ここは間違うはずもなく自分の部屋――『天城怪異相談所』の二階にある六畳一間の一室だった。
一匹の怪物に与えられた簡素な空間。
怪物が人間として生きることを許してくれる場所。
あれからどれくらい経ったのだろうと考えて、アラタはいまだに痛みを訴えてくる体に鞭打って起き上がる。壁に掛けられた時計を見ようとして、しかしそれよりもさきに瞳に映るものがあった。
ベッドの端に小さな頭を預けて、すうすうと寝息を立てている少女の姿だ。
時間の確認など頭から抜け落ちた。
洒落っ気のないラフな格好で眠っているミコトは、もうどこにも黒き鬼姫としての面影は残していない。
口うるさくて世話焼きな、やさしい女の子に戻っている。
ゆっくりと、おそるおそる手を伸ばし、その柔らかな髪を撫でる。
いままで撫でられるばかりだったが、なるほどこれは癖になるかもしれない。ミコトの髪はとても手触りが良かった。なにより、彼女がここにいることを確認できて、アラタはほっと安堵の息を吐き出す。
「ん……うぅん……あ、れ……あら、た?」
「うおわ⁉」
素っ頓狂な声を上げながら慌てて手を背に隠す。
ミコトの頭を撫でて安心していたなんて知られたら、きっとからかわれるに違いない。そんなふうに考えて落ち着かない様子のアラタを、撫でられていたことを知らない少女は微睡の抜けない目をパチクリさせて、
「アーラーターッ!」
「うおっと!?」
いきなり飛び掛かるように抱きついてきた。
もう眠気など吹き飛んだらしく、「アラタ、アラタ」と人の名前を口にしながら、首に腕を回してくる。
ぐっと引き寄せられてお互いの鼻頭が、あるいは額がくっつきそうで、当然アラタは目が回りそうになる。
「な、なな、なにすんだ、バカ!」
「えー、だって結局あれからアラタってばキスしてくれなかったし! っていうか、あのどさくさで好きとか言ってキスするのはズルいと思う! だからまた言ってほしいな! してほしいな!」
「だからってなんだ! 言わねえし、しねえし!」
「はあ……やっぱり、アラタはアラタだったか……」
「うぐ……だってな、あんなこと言うのは初めてだったし……いま言えって言われたって、オレにだっていろいろ心構えってもんが……」
露骨にがっくりするミコトになんだか申し訳ない気持ちが生まれる。
それにしても、
「なんつーか、ミコト……お前、随分と積極的だな……」
「えー、そうかな? うーん……そりゃ、男の子に好きって言われて、キスまでされて、結婚の約束までされたらテンション上がっちゃうもんだよ」
「いや、ちょっと待て! け、結婚ってなんだ!」
そんな約束をした覚えはない。
あまりにも将来的すぎる話にアラタは目眩がしそうだった。
「だって、好きって言ってキスまでしたら、そこまで含まれてるもんだと思うよ」
「そう、いうもんか? いやまあ、そうなのか? いやでもな、いくらなんでも、ちょい早過ぎるっつーか……」
アラタは真剣に悩んだ。
人間としてはまだ七年しか生きておらず、さらに色恋沙汰に疎すぎるアラタにとっては、ミコトの乙女チックな言い分がごく当然の常識であるかのように聞こえたのだ。
そうして数秒が過ぎたとき、
「ぷ、あはは……冗談だって、そんな真剣に悩まないでよ」
「なっ、お前な! ったく、なんだよ、オレがバカみたいじゃねえか!」
はあ、と安堵と不満の混じったため息を吐き出す。
そんなアラタに対して、ミコトは一転して真面目な声を掛けてきた。
「わたしはいつまでも待ってるからね。また好きって言ってキスしてくれたそのときは、本当にそういう意味だって考えるから」
「……お、おう。わかった」
こればかりはアラタも誤魔化さずに頷いた。
まだそこまでの勇気はないし、覚悟だって全然できていないけれど、それでもミコトが好きだという気持ちは嘘ではない。
偽りでもなく、紛い物でもなく――人間としての心が抱いている本物だ。
しばらくお互いになにも言えなくなった。
けれど、それは気まずい沈黙などではなく、どこまでも穏やかな静寂だった。