第四章 そして鬼が目覚める 第10話
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御子室宮廷。
荘厳なドレスに身を包んだ少女は、私室のバルコニーから帝都全域を眺めていた。
空も地上も数多の魑魅魍魎に覆い尽くされ、白亜の塔『アメノミハシラ』を中心に、帝都の至るところに阿鼻驚嘆が広がっているのが嫌でも伝わってくる。
二週間あまり。
御子・サクヤは厳重に警護のもとこの部屋に監禁されていた。
いま帝都を満たしている地獄。それがサクヤの不甲斐なさゆえに生まれてしまったものならば、こんなところで一人安全に護られていながら傍観しているなど許されない。
たとえ、万人がサクヤのことを許したとしても、なにより彼女自身がそんな己を許しはしないだろう。
そう思ってサクヤは何度も宮廷からの脱走を試みたが、御子室の過剰な保護体制のせいですべては失敗に終わった。いくら現行の御子とはいえ齢十六にも満たない少女が「外に行かせろ」と言ったところで、御子室に仕える爺婆どもはまるで聞く耳持たず、
「あなたになにかあれば帝都は終わりです。ご理解くだされ」
なんて形式化した言葉を吐くだけだ。
そして、近衛隊にしても侍女たちにしても、どいつもこいつも老害どもの言いなりである。
バルコニーの欄干を握る手に無意識に力が込められる。
「私は……このようなところで、ただ燻っているだけなんて、嫌なのです……!」
いまの自分にできることなどない。
けれど、血を分けた妹の危機を姉として黙って見過ごせはしないし、苦しむ民に寄り添いもせず眺めるだけなんて御子として正しい姿とは思えない。
少なくとも先代御子・カグヤ――母は戦場の真っ只中で最後まで戦い続けたのだ。
だから。
地上三〇メートルの高さから飛び降りて、彼女は宮廷を抜け出そうと考えていた。
眼下にはいくつかの植木が並んでおり、大地は芝生で覆われた土が広がっている。ならば、植木の枝で落下速度を軽減しつつ、霊力放出による衝撃をクッション代わりにすれば掠り傷程度で済むはず――と、そこまで考えたところで、自然と溢れる恐怖心にごくりと息を呑んでしまう。
頭のなかでは完璧にシミュレートできている。
しかし、そのシミュレート通りに体が動くとは限らないし、失敗すれば待ち受けるのは無駄死にだ。
数秒、深い呼吸をして心を落ち着ける。
サクヤが覚悟を決めて片膝を欄干に載せた――そのときだった。
「なっ、おやめください! いくら貴方でも御子殿下のお部屋に近づくことは許され――」
「ひっ、なんだこりゃ! か、影が伸びて――」
「霊子、術式……⁉」
部屋の前で警護という名の監視役を担っていた衛兵たちが騒ぎ出した。
しかし、その騒ぎも一瞬にして鎮火したようで、揺らぎもない静けさだけが後に訪れた。
がちゃり、と部屋の扉が開く。
なにが起きているのかわからない。しかし確実になにかが起きている。
宮廷に侵入した謎の襲撃者が、いままさに部屋に入ろうとしていると察して、サクヤは息を詰まらせた。
そうして。
開かれた扉の向こうから現れたのは、
「御子・サクヤ――遅くなりしましたが、お迎えにあがりました」
「こう、がみ……?」
ああ、彼の顔を見るのはいつ以来だろう、とサクヤには不思議な感覚が訪れていた。
幼少期はよく世話をしてもらった記憶があるのだが、あるときから鴻上はぱたりとサクヤの前に顔を見せなくなり、それからの彼はまるで別人のようにサクヤと関わることが無くなった。
そんな彼がいまさらやってきた。
サクヤはなにかを堪えるように歯を食い縛り、欄干に乗せた膝を戻して不健康な体躯の男のもとへと駆けていく。
ぽかん、と弱々しい拳でサクヤは鴻上の薄い胸板を叩く。
「……遅すぎるんですよ、あなたは⁉ ずっと一人でこの宮廷を生き抜いてきたんです! どいつもこいつも私なんて『権力があるだけの子供』みたいに扱って利用することしか考えない! 沙都美と会ったり連絡を取り合えばすぐさま『個別の民と関わるのはやめろ』と言うのです! なんなんですか、御子室ってバカなんですか⁉ 私は私――あなたたちのお人形じゃないってのに‼」
「申し訳ありません。長い間、御身に溜まっていた鬱憤を晴らすのは、もう少し後にしていただきたい」
鴻上は死相がより一層濃くなった顔を苦笑に歪めながら言った。
「この帝都に蔓延した地獄を終わらせるには御身が必要です。どうか私と共に戦場へと赴いていただきたい」
「あ……」
鴻上はサクヤの前に跪いてそっと細くごつごつした手を伸ばしてきた。
彼の言葉――それこそサクヤがいまこの瞬間まで待ち望んでいたものだった。
「は、はい! ですが、私があなたの供をするのではなく、あなたが私の――」
「っ……あの蛇め。ついに鬼姫を取り込んだか……⁉」
サクヤが鴻上の手を取ろうとした瞬間だった。
彼は空気も読まず、わけもわからぬ言葉を呟いて立ち上がると、バルコニーへと飛び出した。
直後、まるで世界の終焉を告げるような不吉な地響きが世界に鳴り響いて、御子室全体が大きく震え揺れ出した。
「な、なんですか、これ……⁉」
「御子・サクヤ……朗報と凶報がそれぞれあるのですが、どちらを先に告げるべきでしょうか?」
「な、なんなんですか、本当に! あなたはいつも自分だけわかったみたいな顔をして……ああもう、とりあえず良い報せから教えなさい!」
「では朗報から。詳しい状況はわかりませんが、忌まわしき鬼の忘れ形見が黒き鬼姫を打倒し、ミコト様の御体を取り戻したようです」
「それは、まことですか……?」
はい、と静かに頷いた鴻上の表情は、どこか確信に満ちた色があった。
故にサクヤはその言葉を信じ、妹の無事にホッと胸を撫で下ろす。
そうしてから、彼女は恐る恐る訊ねる。
「それで凶報とは一体……?」
「いまにわかります。ほら、あちらを御覧ください」
そう言って鴻上が示した方角――そこは、かつて鬼ヶ砦と呼ばれた山が厳かにそびえる場所だった。
そして。
「あれ、は……あんなの、どうしろと……?」
御子・サクヤは帝都最大の危機を予感した。