第四章 そして鬼が目覚める 第9話
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ミコトの肉体から追い出された禍々しい赤黒の霊子。ゆらゆらと漂うその無機質なエネルギーは、やがて一つに収束を始めてカタチを為していく。
漆黒の霊力は四肢を持ったヒトの姿を模して世界に顕現する。糸の切れた人形のように崩れていくミコトの体を慌てて抱きとめながら、アラタは警戒の念を込めて霊力の塊を睥睨した。
肉体を失ってなお現世に留まり続けるその質量に圧倒されそうになる。
しばらくの沈黙を経てソレは声を響かせた。
「『なるほど、愛情などに妾は敗れたのか……くく、力で打ち負けたのであれば、それを超える力を以って返せるだがのう』」
残念ながら、とソレが肩を竦めた……ような気がする。
「『妾には愛情などわからんゆえ、愛情で対抗することは叶わぬ』」
それが最後の言葉だった。
黒き鬼姫の意識体とも魂とも呼べるソレは、ヒトのようなカタチを歪め崩れて、突風にさらわれる靄のようにどこかに消えていった。
それを見届けて――はふうぅ、と情けなく息を吐き出して、アラタはミコト共々に膝をついた。
全身が痛くていまにも泣き出したいくらいだ。
さすがの怪物も斬り刻まれ、貫き穿たれ、血を流しまくればガタがくる。
こんなのは生まれて初めてだ。
けれど、その甲斐あって、いまこの腕の中にはなによりも代えがたい少女がいる。
「アラタ……わたしもアラタのこと、すき」
「……そっか……うん、そっか……」
気の利いた言葉を返すような余裕はない。
それどころか先ほど自分がなにをしたのか、それを脳裏に呼び起こすだけで体が熱くなる。いまのミコトの言葉を噛みしめるだけで、頭が沸騰して溶けてしまいそうなほどなのだ。
それを知ってか知らずか、
「ねえ、もう一回……キス、してほしいな……」
「はぐ――っ!?」
心臓が止まった。
冗談でも比喩でもなく、たしかに一瞬停止したような気がする。
「ば、ばば、バカ言ってんじゃねえよ! そんな何回もするようなことじゃねえっつの。つか、あれだほら、はやく帰ろう! みんな待ってる! だから、はやくしたほうがいい、そうしよう!」
「むう……」
拗ねた子供のように頬を膨らませるミコト。
非常にまずい。なにがまずいって、それがかわいいからだ。おまけにボロボロの和装のあちこちから白い肌が露出している。
いまにも見えちゃいけないアレとかソレとかコレがポロッとしてしまいそうなほどにだ。
「あ、いま目逸らしたでしょ! なんで逸らすの!」
「ちけぇ、顔がちけえって! ……というか、逸らすだろそりゃ……」
ようやくミコトは己の惨状に気付いたらしい。
和装の引き裂かれた布を手繰り寄せて、どうにかこうにか可能な限り肌を隠したものの、そうすれば必然的に体のラインが浮かびやすくなる。
小柄なくせに胸はなかなかに豊かで煽情的でもあるラインが。
途端、妙な気まずさに揃って言葉を失った。
だが、そのおかげで、緩んでいた気持ちが引き締まった。
「ミコト……わりぃ、まだ安心するには、ちょっとはえーみたいだ」
「へ……?」
突然、アラタが表情を厳しいものへと変えて立ち上がった。
「アラタ……?」
◇
かつての根城。
鬼ヶ砦と蔑称される山の高台。
そこに、黒き鬼姫の本体とも言えるヒトガタの霊子集合体が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめいていた。
彼女の意識が見据えるのは、十五年もの間封印されていた白亜の搭だった。
鬼姫は思いを馳せるように呟く。
『く、はは……結局、妾は最後までカグヤに勝てなんだ、というわけか……』
愛、などという理解不能なモノを、かつての御子は常々口にしていた。
故に、かの御子が信じる『愛』を打ち砕けるならば、たとえ封印されていたとしても鬼姫の勝ちだったのだ。
しかし。
カグヤは愚かにも『愛』のために、呪われた娘を殺さなかった。
それが一度目の敗北だ。
御子としての合理的な判断よりも母親としての『愛』を優先した彼女は、計り知れぬ苦悩こそしただろうが、その選択にはさぞ満足したことだろう。
そして。
この霊子集合体の憑代たる少女――カグヤが殺さなかった忌み子は、たしかに母親の『愛』を受け継いでいたのだろう。
カタチこそ違えど、あの娘は怪物への『愛』により、よもや黒き鬼姫を追い払ったのだ。
それが二度目の敗北だった。
『ああ、この妾がくだらぬ敗北をするなど……』
だが、と。
霊子集合体では表情を浮かべることも叶わないが、たしかに柔らかな笑みを作るような気配があった。
『なぜだろうな? 悪い気分ではない。むしろ――』
「清々しい、とでも仰りますか?」
飄々とした声だった。
直後、黒き鬼姫は自らの意識にノイズが走り、正常な在り方を保てなくなる不快感に支配された。
『なっ、貴様……ッ!』
「テメェはいつもそうだ! 十五年前だってテメェがおかしな気紛れを起こさなきゃ、オレたちが人間どもに負けることなんざなかったはずなのによォ!」
いつの間にか背後を陣取っていた少年が、黒き鬼姫の意識集合体を腕で貫いていた。
その少年の歪んだ赤い瞳に鬼姫は鼻を鳴らした。
『ハッ……どこのアヤカシかと思ったが、貴様「オロチ」か……? 相も変わらず人間の肉体を乗っ取るしか芸がない、ようだな……?』
「キッヒ、ヒャハハハハ! テメェ、状況わかってんのかよ、オイ?」
少年・相原――否、アヤカシ『オロチ』は高らかに下品極まる笑い声を山中に響かせた。
「ああ、オレはテメェみたいな絶対的な力に恵まれたアヤカシじゃねえサ。だけどよォ――」
『ぐ、ぬぅ……き、さま……』
黒き鬼姫が苦悶の音色を溢した。
意識が揺さぶられる。存在が曖昧に薄れていく感覚だけが鬼姫を塗り潰していく。
「テメェにオレたちの戦争の指揮を任せちゃいられねェンだよ! 本当はテメェのガキの肉体を奪ってテメェを殺すつもりだった」
だが、と。
「それが失敗に終わった以上、オレ様に残された手はテメェそのものの力を奪うことだけだった。とはいえ――この雑魚の肉体じゃあテメェに正面から挑んでも無意味なのは目に見えてたしなァ」
オロチは、鬼姫の意識集合体を貫いた手を、ぐっと握り締めた。
『ぅ、あ……⁉』
「しっかし、こうして存在の維持だけで精一杯なほど弱りきったテメェなら、ちょっと不意討ちしてやるだけでどうにだってできる。ああ、つまり――オレ様はこんときを待ってたんだよォオ‼」
やがて、黒き鬼姫のか細い呻き声さえ、すっかり消失してしまっていた。霊子集合体を構築していた霊力がオロチの腕に取り込まれていく。
『キヒャ、ヒヒ、ヒャッハハハ! キッヒ、ヒヒヒヒ、ヒャーッハッハッハッハ‼』
激しい激闘の末。
最後に嗤っていたのは卑しき蛇だった。