第四章 そして鬼が目覚める 第8話
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「『そう驚くでない。妾の魂は神の恩寵を受けておるのでな。天上の神々に言霊を奉納し、その承認を以って発現する霊子術式ならまだしも……たかが霊力放出ごときでは、この肉体に傷などつけられるはずもあるまいよ』」
「…………ッ」
たかが、とこの鬼は言った。
あらゆる障壁を打ち破ってきた絶対の一撃を、たかが霊力放出と簡単に切り捨てたのだ。
絶句したアラタの脇腹に強烈な蹴りが炸裂する。
刃で斬られても立ち続けるはずの体があっさりと崩折れる。
奥底にまで響いてくる痛みと、『刹牙・清姫』と打ち合った影響か、嫌な感覚が這い上がってくる。
(だめだ……オレは……オレ、だ!)
怪物になどならない。
破壊衝動という本能に蝕まれるわけにはいかない。
「『つまらんのう。ではこれは返してもらうぞ』」
「あ……っ」
黒き鬼姫はアラタの手から機械式の大剣を奪い取った。
彼女がそれを無造作に一振りすると、円茉莉によって取り付けられた外装パーツは砕け、一瞬のうちに機械的なシルエットを失った。
そこにあるのは紅の大太刀――だが、半ばから折れて、刃こぼれもしている。
黒き鬼姫が胎より産んだ子に預けていた『絶爪・紅葉』の本当の姿だ。
黒き鬼姫がふうっと紅の太刀に息を吹きかける。するとその息吹が炎となって刃を包み込んだ。やがて刀身を呑み込んだ炎が弾ければ、そこには美しい血のような紅に染められた大太刀が復活していた。
かつて振るった爪と牙。
二刀をその手に取り戻した鬼姫は満足げに笑みを浮かべていた。
「『よくぞ戻った。これで妾に不備はない』」
「ま、て……オレは、まだ戦えんぞ……!」
ふらふらと己の衝動に抗いながら立ち上がったアラタに、黒き鬼姫はもう興味もないと鋭い双眸をさらに細めて、
「『慈悲だ。愛情などわからぬが……このまま我が手足となるなら、この小娘との戯れを許してやろうぞ。でなければ疾く失せるがよい。さもなくば妾は主を殺さなくてはいけなくなる』」
「ふざ、けんな……!」
いまの言葉は聞き捨てならないとアラタは敵意をぶつける。
ミコトと手を繋ぐのも、話をするのも、抱き合うのも、それは黒き鬼姫なんぞの許可を得てすることではない。
ミコトを取り戻していないのに帰れるわけがないし、まして己の子に向ける愛情すらわからぬ親になど、殺されてたまるものか。
彼女の口から出てくるすべての言葉が腹立たしくて仕方がない。
「待ってろ、ミコト……いま、助けるから……!」
アラタは再度地を蹴って一直線に駆け出した。
武器は失った。だがこの身一つあれば、まだいくらだって戦える。
「『愚か者めが』」
「ぐ、あッ!?」
無防備に飛び込んだアラタの腹部が、二刀の凶刃によって十字に斬り裂かれる。
構わない。
アラタが求めるものはすぐそこだ。どんな壁に阻まれていようと――たとえその壁が越えられない母親だろうと知ったことか。
さらに肩を穿たれ、太腿の肉を抉られ、それでも手を伸ばす。
そして触れた。
黒き鬼姫が鬱陶しそうに身を翻すが、無理やりその腕を掴んで一気に抱き寄せる。
「ミコト……オレは、お前に側にいてほしい!」
「あら、た……?」
紅き爪に腹部を突き刺される。
白き牙に肩から腰まで袈裟斬りにされ、鮮血が飛沫となって辺りに散っていく。
それでも離さない。
抱き寄せたこの体は、他の誰でもなく、天城ミコトのものだ。
この体に宿るべきは天城ミコトの魂だけだ。
それ以外なんていらない。
アラタが抱きしめ、声を掛けるべきは、一人の少女だけなのだ。
「『ぐうっ……なんだ、この乱れ……これは妾の憑代……小娘、貴様……この期に及んで妾を拒絶する、つもりか……ッ!』」
「うるせえ! テメェは黙ってろ、クソババア!」
お前に掛ける言葉なんてない。お前の声を聞くつもりもない。
アラタはただミコトだけを求める。
「ミコト! オレはお前がいなくちゃなにもできねえ! お前がいないとつまんねえ! お前がいないとどうやって生きればいいかわかんねえ! オレを人間にしてくれるのは他の誰でもない――お前だけなんだ!」
誰よりも愛おしい少女の体をとにかく精一杯に抱きしめる。
ハダカを見ただけで気絶するような男ではあるが、せめていまだけは気力を振り絞って彼女という存在を確かめたい。
その温もりを、その熱とやさしさに満ちた心を、体と体で感じたいと願う。
「ミコト、お前が好きだ! 俺はお前のことが大好きなんだ!」
あらん限りの力を振り絞ってアラタは叫んだ。
「だから帰ってこい、このバカ!」
「――――ッ!?」
桃色の可憐な唇に、アラタは自らの唇を重ねる。
うまくやれている自信はない。
胸が張り裂けそうなほど鼓動を打っていて、唇を重ねた本人が一番動揺しているかもしれない。
それでも逃げないし、逃がさない――一度したならば簡単には忘れさせない。
たっぷり数十秒もそうしていた。
それだけやればアラタの想いは伝わったはずだ。
あとはミコトがそれを受け入れるか、あるいは拒絶するか――、
「『おのれ……このようなことに、なんの意味が……っ!?』」
「きっとあなたにはわからないよ」
黒き鬼姫の疑問に答えたのはミコトだった。
少女は己の内に巣食ったその鬼に対して、黒き鬼姫とアラタの決定的な違いを告げる。
「アラタはわたしを求めてくれた。余計なこと全部取り払った……たった一つの愛情で」
「『愛情、だと? たわけたことを抜かすな! ありえるものか! そやつの愛情なんぞ紛い物だろうに!』」
そうだ。
人外たる怪物に愛情などわからない。
人間の愚かさを愛おしいと口にした鬼姫は、しかして『愛おしい』という感情がわからない。ただ苦しみを与えるためだけに先代御子・カグヤと盟約を交わし、ミコトという少女を忌まわしき子として世界に生み出したのだ。
そして、カグヤは母としての愛情のせいで、ミコトを殺せなかったのだ。
黒き鬼姫はまさしく『最強』だったが、最後まで愛情というものを理解できなかった。
だからありえない。
その黒き鬼姫の胎より生まれた怪物が、愛情を得ることなど絶対に認められない。
「本物だよ。紛い物の愛情はわたしのほうだった」
静かに、その麗しき瞳に一筋の涙を浮かべて、ミコトは言う。
「自分がひとりぼっちだったから、そんな自分とアラタを重ねて愛してる振りをしてた。そうすることでしか、愛情の与えかたなんてわらなかった。……だけど、アラタはなにも考えずに真っ直ぐにわたしを求めてくれた。自分にはわたしが必要だから帰ってこいって言ってくれた」
それが紛い物であるはずがない。
黒き鬼姫にはわからないだろうが、天城アラタはたとえ怪物だとしても心はどこまでも人間なのだ。
そして彼は、その心で天城ミコトを欲しいと、そう言ったのだ。
「出ていけ! わた、しは……黒き鬼姫、なんかじゃない!」
「『バカな……なぜだ、なぜ抗う! 妾の力があれば、貴様はすべてを手に入れ――』」
「いらないよ! わたしはアラタがいてくれればそれでいい! アラタの側にいられれば他になにもいらない!」
空気が震えた。
ミコトが叫んだ瞬間、その体から禍々しいほどの霊力が外部へと放出され、塔内部に蔓延するのだった。




