第四章 そして鬼が目覚める 第4話
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沙都弥は飛び出した。
握られた拳は輝かしいほどの霊力光を帯びていて、その一撃を喰らえばアラタでも膝を折るかもしれないほどの力を感じる。
だが、ミコト――黒き鬼姫は一歩も動かず、それを片手で受け止めていた。
「『なんだ、これは? ああ、そうか、霊子術式はカグヤが封じたのだったか? すなわち神秘の祈りとなる言霊を人類は忘れたか。まったく、つくづく愚かよのう。いずれは妾が復活すると理解しながら対抗の手だ――』」
「そいつはどうかな?」
黒きの鬼姫と成り果てたミコトを睨みつけながら、沙都美は不敵な笑みを表情に浮かべて見せた。
「我が霊命に応えよ。其は荒れる風神となりて鬼を討て!」
「『な、に……?』」
鬼姫が訝しげに眉を顰めた。
次の瞬間、どこからともなく荒ぶる風が螺旋を描き、まるで回転する槍のように鬼姫の側面に叩きつけられた。
「『チッ……霊子術式は失われたと聞いておったのだがな』」
黒き鬼姫は身を翻して渦巻く風の刃から逃れんとする。
だが、渦巻く風の刃はそれ自体が生きているかのように、うねりながら後退する鬼姫を追い掛けていく。
沙都美が繰り出したその攻撃は、ただの霊子の放出とは明らかに違っていて、例えるならば自然現象を自在に操っているかのようだった。
それこそが神秘の再現。
神のごとき権能を具現化する霊子術式の技法。
人間の領域を超えた霊子技術。
それを行使する沙都美の姿を前にして、桜香はもちろんアラタでさえ目を剥いていた。
だが、その力を真っ向からぶつけられている張本人は、先ほどまでの訝しげな表情をすっかり潜め、いまは不敵な笑みを浮かべているのだった。
彼女は迫りくる巨大な風の回転槍に対して、まるで埃を払うように右手を振るうだけだった。
直後、禍々しい赤黒の霊気が大気を震わせなが閃いて、ソレに触れた暴風は霧散するように砕け散った。
「『しかし、この程度とは衰えたものだな、カグヤの片腕よ』」
「くそ、やはりまだ馴染まんか。……技術がこの手に戻ったとはいえ、かつて扱っていたときの記憶は曖昧なままでは構築が上手くいかんな……」
「『く、くははっ! もっと霊子と元素の結び目を固くせんと妾には届かぬぞ! いやはや妾を一度は死の恐怖にまで追い詰めた貴様がここまで落ちぶれるとは! 平和ボケしてこの世も随分と落ちぶれ――』」
唐突に、頭に響き渡っていた鬼姫の高笑いが、ぷつりと途切れた。
ノイズのような音が彼女の言葉を阻んだのだ。
そして、
「もう、沙都弥さんもお母様もうるさいなあ。わたしはアラタと話をしたいの。年寄りの昔話はあとにしてもらえるかな?」
「ミコト、おま――」
慣れ親しんでいた声音に沙都美は動揺してしまった。
その隙にあっさり手首を掴まれ、まるで人形を放り投げるように、軽々と手近な樹木へと叩きつけられた。
「ミコト、目を覚ましなさい――!」
沙都美に気を取られていた黒き鬼姫へと桜香が無音で接敵していた。
零距離にまで潜り込んだ彼女は、日本刀『神楽桜』を呼吸に合わせて抜刀し――、
「だめだよ、桜香ちゃん……わたし桜香ちゃんのことは好き。だけどね? 桜香ちゃんがわたしのアラタと仲良くしてるともやもやするの」
「な、そんな……」
ミコトは和服の袖で桜香の刃を絡め取っていた。
そのまま日本刀を奪い取って適当に捨てる。武器を失った少女の鳩尾に、突き抜けるような蹴りが食い込んだ。
「が、は……っ」
為す術もなく桜香は膝をついて、その場でせき込みながらうずくまる。
これで邪魔はいなくなったと言うように、ミコトは鷹揚に手を広げながら、一歩一歩踏みしめるように、アラタへと近づいてくる。
「ああ……会いたかったよ、アラタ……わたし、もうなにもわかんなくて、痛くて苦しくて辛かったけど……ずっと、ずっとずっとアラタのことを考えて、耐えてたんだよ? さあ、一緒に行こう? わたしがずっと一緒にいてあげる。アラタを一人になんてしないよ? いまのわたしならアラタを護ってあげられるんだから」
「…………」
差し伸ばされた手のひらが、やさしくアラタのことを誘う。
ゆっくりと、その少女らしい手に手を重ねようとして――しかし、アラタは震えながらそれを払い除けた。
「あら、た? なんで、どうして? わたしはアラタがいてくれればいいの! アラタを怪物扱いするヤツらなんて死んじゃえばいいの! ……ねえ、わかる? わかるよね? わたしはアラタの味方――」
「……怪物扱いするヤツばっかりじゃ、ないだろ……」
少なくとも、ミコトが傷つけた沙都弥や桜香は、怪物としての側面など関係なくアラタを人間として扱ってくれていたはずだ。
そうでなければ、一緒に七年も生活したり、一時とはいえ一緒に遊んだりなんて、できるわけがないだろう。
加賀美や茉莉、響たちだって、きっとそうだ。
もちろん相原のようなヤツもいる。
きっと多くの人間は、アラタの正体を知ったとき、彼のように恐れと侮蔑を向けてくるのだろう。
――それでも、人間すべてが敵というわけでは、きっとないはずだ。
だからアラタはミコトの言葉を認めない。
認めてしまえば、アラタが助けられなかった子供たちを――アラタを友達としてくれた彼らを否定することになる。
「あら、た……いや、いやだよ……わたしはアラタのことを、こんなに想ってるのに……どうして? なんでわかってくれないの!?」
ミコトは癇癪を起こした子供のように声を荒げた。
「この世でアラタを一番理解できるのはわたしなの! そう、わたし……わたし、だけなのに……っ!」
「ミコト……ったく、このバカが!」
本当に最悪だ。
もうヒーローなんて諦めたのに。
もう壊すだけの戦いなんてしたくないのに。
いつもいつもミコトはこうやってアラタに目的を与えてくれる。
また誰かを傷つけて、なにかを壊すのはこわい。
しかし、もしそれ以外のことを怪物にできるのならば。
「オレが助けてやる、ミコト」
「っ……ちが、う……わたし、わたしが……アラタを、たすけ……」
ミコトがふらふらとよろめいて、唸るような声を漏らしながら両腕で頭を抱えた。
それに一歩近付きながら告げる。
「オレはなにもかもを護って戦うヒーローにはなれないのかもしれない」
だけど、とアラタは真っ直ぐにミコトの赤く歪んだ瞳を見据えた。
「ミコト。お前だけはオレが助けてやる。みんなのヒーローになれなくても、お前だけのヒーローにくらいなってやる!」
より激しくミコトが身悶えていた。
やがて、彼女のその痛みが黒き鬼姫へと伝達される。
「『ぐっ……拒絶反応? やはり我が絶爪を揃えねば、完全なる目覚めとはいかぬというわけか』」
黒き鬼姫は忌々しげにアラタを睨んだ。
「『よかろう。此度は退いてやる! 妾を――この小娘を助けるなどとほざくのならば、妾の半身たる紅葉の太刀を携えてアメノミハシラまで来るがよい。そこで……たっぷりと躾をしてやろうぞ』」
ばっ、と和装を翻してミコト/黒き鬼姫はその姿を消した。
まるで、最初からいなかったように、あとには静寂に包まれた風が吹くのみだった。