幕間2 再会と侵食 第2話
02
降りしきる雨の中。
北外周区に並んだ廃墟の一角に彼はいた。
雨音に負けじと途切れることなく悪態をつく少年だった。
「くそ、くそ、くそ! なんだってんだよ、なんで僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ、クソォ!」
相原は瞳に悔しげに涙を滲ませていた。
それは、廃ビル五階から飛び降りた際に着地に失敗し、右腕を骨折した痛みのせいでもある。しかし、それ以上に「こんなはずじゃなかった!」という想いのほうが原因だろう。
彼の当初の想定では、いつも見せ場を奪っていく目障りな『正義の怪物』に格の違いを見せつけ、周囲からの期待を盗んでいく天才剣士・花織桜香のことも見返しているはずだった。
そして御子室近衛隊に所属して、誰にも見下されない栄光の道を歩んでいく。
そのはずだったのに――。
「なんで、こんなことに……」
脳裏に蘇るのは、死相を浮かべた不健康そうな男が、怯える子供たちを一人ずつ惨殺する姿だった。
その凄惨たる光景に相原はなにもできなかった。あまりの恐怖に体は指一つとして動かせず、不甲斐なくも失禁して股間をジワリとした熱に濡らし、次は自分が殺されるのではないかと震え続けていたのだ。
対魔機動隊の一員として、市民を護るはずの立場にあったはずなのに、あの子供たちが死にゆくのを黙ってみていただけとは情けない。
「で、でも……僕のせいじゃ、ないよな……? そりゃ、あのオッサンに言われて子供たちを廃墟に連れてったのは、たしかに僕だけど……こ、こんなことになるなんて、思ってないし、思うはずないし……」
それは、自分に言い聞かせるように、あれからずっと相原が呟き続けていることだった。
御子室近衛隊三番隊隊長・鴻上光彰の指示だった。鴻上の従って行動していれば近衛隊に招かれると信じて、相原は子供たちを誘拐しただけなのだ。
ちょっとばかり怖い思いをさせてしまうことに罪悪感は多少あったが、まさかなんの罪もない幼子たちが殺されるなんて相原の想定には一ミリとて存在しなかった。
だから自分は悪くない、と相原は頭を抱えるように身を丸くして、零れる涙を拭いもせず垂れ流し続けた。
だが彼らは許さない。ぎゅっと瞼を閉じたいまでさえ、顔もろくに憶えていない子供たちが「どうして?」「なんで?」「助けてよ」「助けてくれないの?」「ねえ、助け――」
「う、うるさい! うるさい、うるさいうるさい、僕に期待するな! 僕は普通の人間でしかないんだよ! 怪物でも天才でもない僕になにをしろってんだよ、クソ!」
問いかけてくる幻聴。
その影を振り払うように相原は両腕を振り回して空気を掻き混ぜた。
だが、そうやって名前も知らない幼子たちを追い払えば、今度はあの怪物が怒りの咆哮をあげてやってくる。
「ひ、ああ、やめ、やめろ、僕は……僕は、死にたくないっ! ごめ、ごめんなさい、ごめなさいぃいい! もう全部僕のせいでいい! 僕が悪かったから、謝るからぁああ! ……ぁ、ああ、でも、違うんだよ、僕が悪かったけど……僕が殺したんじゃないのに……うううぅ、ひっく……」
『アア、ウルセェナア! ビービー喚くんジャ、ねェッてンダ』
「ひぃっ! あ、……え?」
突然、廃墟の片隅に響いた歪な声に、相原はおそるおそる顔を上げた。
そこに、うねうねとうごめく黒い影が、もやもやと浮かび上がっていた。
『チッ! ……コウガミの野郎、アイツの肉体はハナっから使い捨てのつもりだったけどヨ……アア、クソったれが、アッサリ死にやがってゴミクズが! コレじゃあゼンブ想定とチガウじゃねェか、アア!』
「な、なんなんだよ? なんなんだよ、お前!」
頭のなかに響いてくる声。
蛇のようにぬるぬると近づいてくる影。
それらから逃げるように相原は必死で後退りするが、やがてひび割れた壁に背を阻まれて逃げ場を失う。
『ったく! あのクソ鬼姫のガキを、死ニ損ナいの戦闘兵器がブッ殺してくれてりゃ、それでゼンブがウマく運んでたンだってのに! コウガミは役に立たネェ! オレ様は追い出される! クソ鬼姫のガキの肉体は、まだオレ様のモンになりゃしねェ!!』
「あ、あああ、やめろ来るな! 僕に、近づくなぁあ!」
不意に影がにやりと笑ったように相原は感じた。
『ハハッ、連れねェこと言うなヨォ! オレ様に肉体の所有権を預けりゃ、テメェはその悔悟の念から解放されんだ。アア、良かったナァ? もう無様にダラしなく泣き喚くヒツヨウもなくなるゼ?』
キヒヒヒ、と気味の悪い笑い声が脳内に木霊する。
『安心しろヨ。テメェは人間どもの言うところの「エリート」になりテェんだろォ? オレ様に任せときゃテメェは、最凶最悪の神としてこのクソったれなセカイに君臨できる』
「い、いやだ、もうたくさんだ!」
『約束したモンなァ、御子室近衛隊に入れてやるって。だが、もうそンなチッポケなもんじゃなく、テメェはスベテの人類から畏怖される神になるンだよ!』
「僕は、もう栄光なんていらない! こ、こんなことなら――」
『キッヒャヒャヒャ! よかったなァ、テメェの願望が叶ってェ!』
黒い影が、ずぶずぶと相原の肉体に重なって、溶けていく。
苦痛に歪んだ悲鳴を上げながら四肢を振り乱していた相原だったが、数秒ほどの時間が過ぎると動きが緩やかになり最後にはピタリと静止した。
そして、
「なんだよ、おい、このヘッポコな肉体は?」
相原は不満げに口にしながら自身の手足を確認した。
「ま、おかげで鴻上のときみてェに苦労することもなく、すんなり手に入って御の字だがよ」
瞼を上げた彼の瞳は深紅に歪んでいた。
彼は鷹揚に両腕を広げながら、どこか楽しげに廃墟ビルの外に躍り出る。
「ヒヒッ! 全部台無しになっちまったが、それならそれで方針を変えりゃいいだけじゃねえか! どっちにしたってクソ鬼姫が蘇るならわざわざガキのほうに拘ることもねェ」
激しい雨に叩かれ、まるでそれが心地よいと言うように、相原――否、相原の肉体を浸食した『蛇』は高らかに笑っていた。
「さぁて、せいぜい頑張れよ、人間ども」
不敵な笑みを浮かべながら、豪雨に包まれた廃墟の影へと、そのアヤカシは姿を消していくのだった