第一章 怪物か、ヒーローか 第2話
02
東の空から世界を煌々と照らす陽射し。
それを全身に浴びながら、花織桜香は一度大きく深呼吸をした。
「……よし!」
その一声で活力が湧き上がる。
彼女の前には、これから突入するべき要塞が構えていた。
その名を『天城怪異相談所』。二階建ての一軒家を改装して事務所にしたらしいのだが、お世辞にも綺麗とは言えない古びた建物だった。
人気の少ない郊外にポツンとあるせいで、お化け屋敷と言われたら信じてしまいそうだ。
少なくとも桜香は警戒していた。
(幽霊だろうと、魔獣だろうと、出てきたら斬り伏せるだけだ)
左手に持った日本刀の鞘の感触を確かめて、いつなにがあっても抜刀できるように心の構えを引き締める。
一歩歩みを進めて、そして手を伸ばす。
ドアノブをゆっくり回して扉を開けると――
「ほれほれ、どうした! 逃げてばかりとは情けない!」
「だあああ! やめ、やめろ! 箒振り回すんじゃねえよ! アンタそれでも大人か!? つか反撃して箒壊したら絶対怒るだろうが! そういう反則やめろよ! 一方的なイジメ反対だくそったれ!」
そこには異様な光景が広がっていた。
子供のケンカとしか思えない。箒をブンブン振り回しながら追いかける女と、それから必死になって逃げている少年と――ついでに、そんな状況に置かれていながら、のんびりお茶を飲んでテレビを見る少女。
(え、なにこれ……)
呆然と桜香は立ち尽くすしかなかった。
それゆえに、あれだけ心を引き締めていたはずなのに、己に迫る危険に気付けなかった。
「うわあっと! ちょ、なんだアンタ、そこどいてくれ!」
「へ……?」
勢いよくすっ飛んだ少年。
どうやらなにかに躓いたらしい。止まることはおろか、もはや体勢の立て直しも利かず、桜香に向かって一直線に倒れ込んでくる。勢い余って抜刀してしまいそうになるが、その判断が下されるより先に衝撃が襲い掛かった。
◇
視界が暗転する。
頭の中がくらくらと揺れるのを感じながら、どうにか立ち上がろうとアラタが手に力を込めると、
むにゅり。
不思議な感触が五指を包み込んできた。
とても柔らかい。そして、ふわふわと反発してくる弾力が、妙に手に馴染むというか、率直な感想としては非常に心地よかった。なんとなくマシュマロに似ている気がしたが、しかしどこか違っているような気もする。
しばらく、他では味わえないその感触を確かめていると、やがて視界に色が戻ってきた。
そしてアラタは驚愕に息が詰まりかけた。
「ッ…………!?」
女の子がいた。
茹でダコのように顔を真っ赤にしながら、瞳にきらきらとした雫を浮かばせている。
アラタが咄嗟に理解して手元を見てみれば、案の定少女の緩やかな膨らみを掴んでいた。さらに付け加えるのなら、つい先ほどまで揉みしだいていたことになるのだが――それを意識した途端にアラタも爆発した。
(なんだ、こりゃ……えーっと、だから、どうすりゃいい……どうすれば、どうすれば、どうすれば……っ!)
プツリ、と思考の糸が途切れた。
完全沈黙して身動きが取れなくなったアラタに、
「この、ヘンタイ! ヘンタイ、ヘンタイ――ッ!!」
平手打ちが炸裂した。
しかも三発。乾いた音が早朝の青空に響き渡るなかで小鳥が囀る。
思考がオーバーヒートしていたアラタはゆっくりと意識を落とすのだった。
◇
数十分後。
天城怪異相談所の応接間には、妙な気まずさと沈黙が満ちていた。
ビンタの手痕が刻まれた頬を涙目でさすりながら、アラタはミコトに頭を掴まれて半ば強制的に頭を下げていた。
「ごめんね。うちのアラタがあんなことしちゃって。……ほら、アラタも黙ってないで、ちゃんと謝らなきゃダメだよ!」
ぐっぐっと後頭部を押さえつけられる。
オマエはオレの母親か! と声を大にしたいところだが、この罪人扱いの空気の中では余計なことを言えるはずもなかった。そもそも原因を辿れば沙都弥だって共犯と言えるし、なにより事務所の前で突っ立っているほうにも非があると思うのだが――どういうわけかアラタだけ責められている。
正直、納得できない。
納得はできないのだが、
「……さっきは、その、悪かった」
いまは謝罪するしかなかった。
そうしなければミコトが許してくれないというのもあるが、なにより女の子を泣かせた事実は間違いないからだ。
どんな言い訳があったとしても、女の子を泣かせるのはヒーローじゃない。
そんなアラタの誠意が伝わったのか、件の被害者はふっと息を吐き出した。
「まあいいわ。むしろ、さっきのことは忘れましょう、お互いに」
「はあ~よかったあ。そう言ってもらえると助かるよ。わたしだってアラタを性犯罪者にしたくないし」
(……性犯罪者って……ひどい言われようだな、オイ)
とにかくいまは胸中で愚痴るだけに留めておく。
これ以上ややこしいことになるのは、誰よりもアラタが勘弁願いたいのである。
しばしの沈黙を経て、素知らぬ顔で罪から逃げた女がパン! と両手を合わせた。
「ま、これで一件落着! というわけで、まずはお嬢さんの話を聞こうか。ウチの前にいたなら相談があるんだろ? 魑魅魍魎退治の依頼ならなんでも引き受けよう。もちろん、それに見合う対価は払ってもらうがね」
「……なんでも引き受けるって、基本的に肉体労働すんのはオレじゃんか……」
そのくせ小遣いナシ宣言をされているのだ。
まったくもってやる気など湧いてこないが、そんなアラタの意思に反して話は進んでいく。
「そうですね。私が依頼したいのは――」
スッと少女は立ち上がる。
そして、あろうことか日本刀を鞘から抜き放つと、その鋭い切っ先をアラタへと向けてくるのだった。
対してアラタは身じろぎすらせず少女を睨む。
「おいアンタ、なんのつもりだ?」
「あ、あれ? もしかして、まだ怒ってるのかな? あはは、そりゃ、あんな豪快にがっつりおっぱいを揉まれたら、それくらい怒って当然、なのかな?」
おろおろしながら状況に納得を得ようとしているミコトだったが、いくらなんでも胸を揉んだだけで凶器を突きつけられるのはおかしい。
いや、揉んでしまったことは重罪だが、それに対する怒りならばあまりにやり過ぎだ。
少女はほんのり朱色に頬を染めて、
「おっぱいのことはもういいの! あれはお互いに忘れるって決めたでしょ!」
「ひ、ひゃい!」
怒鳴られたミコトが勢いで抱きついてくる。
その、この状況でどうかと思うが、ぷにゅっと腕に当たってくる柔らかさは、さきほど意図せず揉んでしまったソレとはまた違った感触だった。
頭が沸騰しそうになったが、なんとか堪えて平静を装う。
コホン、と少女が改めるように咳払いをした。
「私の依頼は単純で明快よ。天城アラタ――いいえ、黒き鬼姫の血を継いだ最強の怪物に決闘を申し込みます!」
「は? 決闘、だと……?」
「ぷ、くく、ははははは! なんだなんだ、これは面白いことになってきたじゃないか。どうやらこの小娘はお前が『最強』と知りながら、そのうえで決闘をしたいと言っているらしいぞ」
いや、それはもう、話を聞けばわかっている。
だいたいこの女はなに笑っているのだろうか? この流れで笑えることなどアラタには微塵もありはしないのだが。
「受けてもらえますか、天城アラタ」
「まあ待て。まずはなぜ決闘などしたいのか、その理由を聞かせてもらおうじゃないか、なあアラタくん?」
沙都弥の言葉にこくんと頷きを返す。
売られた決闘は受けて立つと言いたいところだが、ヒーローとしては無益な戦いなどはするべきではないのだ。
市街地の被害を考慮できないアラタにだって、必要な争いなのか否かの分別くらいはできる。
「わかりました。では率直に――私はあなたという怪物が『最強』であることを認めない。いままで努力を積み重ねてきた私が、生まれながら力を持っていただけの怪物なんかに、劣っているなんて認めない!」
「怪物怪物って、そんなバケモノみたいに――」
他でもないアラタのために憤ってくれたミコトを片手で制止する。
「アラタ……」
「ありがとよ。でも、怒らなくていいんだ」
怪物と呼ばれることには慣れている。
だが、こうも真正面から『最強』を否定してきた人間は初めてだった。
どいつもこいつもアラタの正体を知れば、自分たちより優れていて当然のような顔をする。
しかし、この少女はそうではなかった。
己の力を信じて、己の努力を信じて――最強の怪物を否定しようとしている。
ああ、これはたしかに、沙都弥の言うとおり面白くなってきたかもしれないと、思わず口許がほころんでしまいそうだった。
「ほう。こっちもやる気になったらしいな」
「おう。努力しただかなんだか知らねぇけど、だからってオレに与えられた『最強』の呼び名はそう簡単に譲れねぇ。それでも――アンタはオレを打ち負かして、己の強さを証明しようってんだろ?」
躊躇いなく肯定の頷きが返ってくる。
その一切の迷いのない瞳はとても美しいと思った。
「その覚悟は嫌いじゃない。もちろん決闘の場に立てば、人間だろうが女の子だろうが、手を抜くつもりはねぇけど」
「当然よ。私の全力を以って、あなたという存在を超えてやる……!」