幕間1 第二次百鬼大戦 第6話
06
ぐっすりと眠りに落ちていたサクヤは、ようやく探しに来た教育係に抱きかかえられ、そのまま鴻上の部屋から去っていく。
幼き主の姿を見送った鴻上は、疲れたように目頭を押さえながら、部屋を眩しい光で満たしていた電灯を消した。
「……はは、いつだったか天城にコウモリ野郎などと言われたが、まさしくその通りだな」
あまりに暗闇で過ごしすぎた。
サクヤの存在は温かくもあったが、その眩さはいまの鴻上には堪える。
いま一度、どこか心地よくすら思える慣れ親しんだ闇に包まれた彼は、いつものように執務机に腰を落ち着ける。
「私は……ああ、まだ私のままだ……だから、いまのうちに手を打たねば……」
鴻上は懐から取り出した通信端末機を起動させる。
彼にとっては、通信端末で連絡を取り合うほどの悪縁を持った人間など、いまや一人だけだった。
『サクヤ様からの連絡を期待していたんだがな。こんなに残念な気持ちになったのは久しぶりだよ、まったく』
「応答するなり随分と言ってくれるものだ。久しぶりだというのにお前はなにも変わっていないな」
懐かしい声と、その手厳しい反応に、鴻上はしばしの安堵と懐かしさを得た。
「サクヤ様からの連絡はしばらくは無いと思うことだ。お前と電話しているところを侍女に見つかったらしい」
『なん、だと? なんてことだ、ウソだろ……っ⁉』
まるでこの世の終わりに出くわしたような声音が返ってきた。
人目を忍んだ密やかな会話を心待ちにしていたのは、どうやら八歳になったばかりの幼子だけではなかったらしい。
気持ちがわからないわけではない。
鴻上としても、ほんの数刻前まで此処にあった温かな時間が過ぎ去ったことが、少し惜しいような寂しいようなと感じているのが本音だ。
しばらくブツブツと呪詛じみた呟きを繰り返していた沙都美が、ようやく心に整理をつけたらしく「コホン!」と取り繕うように咳払いする。
『それで要件はなんだ? わざわざサクヤ様との連絡が途絶えることを伝えたかったわけじゃないだろ? 鴻上にそんな気の利いたことなんて、できるはずがないんだから』
「反論の余地もない。余計な一言は聞かんかったことにしてやろう」
では本題だ、と。
鴻上は一瞬迷うように言葉を詰まらせて、それから意を決したように端末越しの女に告げる。
「ミコト様を始末しろ。そうすれば御子室に呼び戻してやる」
はぁ? と訝しげな声が返る。
『ついに気でも狂ったのか? いまさら御子室に未練なんざありはしないよ。それに、ミコト様を始末しろ、だと?』
「この私が冗談など言えるとでも? そんな器用な人間でないことくらい知っているはずだ。ミコト様が生きていれば必ずや黒き鬼姫――あの忌まわしき災禍にして戦禍が無数の魑魅魍魎たちと共に蘇る。だから――」
『お前まで……ミコト様を生かすために一緒に手を尽くしたお前まで、そんなことを言いやがるってのか……ッ!』
姿が見えなくとも鴻上にはわかる。
怒りに滲んだ天城沙都美の表情がまざまざと脳裏に浮かぶ。
通信端末を握った手をきつく震わせながら、失望の行き先を探して彷徨った拳をしばし揺らめかせ、やがて机にでも叩きつけた気配を感じ取れる。
「この状況下で鬼姫の復活を阻止するためには、ミコト様を――」
『ふざけるな! それはカグヤ様のご命令を――あの御方が最後に我々に託した想いを踏みにじる行為になる!』
「もうあの御方はこの世にいない! 彼女の想いを踏みにじろうとも、彼女が護らんとした帝都を、国を、世界を――ようやく取り戻しつつある平穏を繋いでいくには手段など選んでいる余裕はない!」
『その平穏には、サクヤ様とミコト様、お二人が揃っていなければ意味が無いとわからんのか、お前は!』
「ああ、わからんな! 黒き鬼姫が蘇れば、どちらにせよ憑代たるミコト様の命はないも同然……だったらお前の手で引導を渡してやるほうがマシだろう!」
『クソ、どいつもこいつも……生まれてきただけで、なぜ命を狙われなきゃいけない……! ミコト様に――あの子に手出しすることは誰だろうと私が許さない。あの子の命を奪いたければ私なんぞ頼らずにお前が掛かって来ればいい。そのときはこの手でお前をブチ殺してやる!』
「いい気迫だ、天城。ならば黒き鬼姫の忘れ形見をブチ殺せ。鬼ヶ砦で獣どもを残虐に殺し回っている怪物が発見された」
『な、に……?』
プツリ、と。
鴻上はそれだけ告げると、沙都美の返事も待たず、通話を断ち切った。
「……はぁ、まったく世話が焼けるところも、まるで変わらんな」
ため息と共に鴻上は安心したような笑みを浮かべていた。
あの様子ならば問題ない。
天城沙都美はいまも正しく御子・カグヤの想いを受け継いでいる。
そうであるのなら、彼女がこれからどう動くかは鴻上の脳内でシミュレート可能――未来を逆算して訪れるであろう危機に対して最善の策を講じることができる。
しばし思考に没頭していた鴻上。
そんな彼の脳内に不意に雑音が走って、慌てて没頭する思考を外へと追いやった。。
『ヨォ? ゲンキにシしてるかヨ、コウガミ?』
「いや最悪の気分だ。貴様さえいなければ元気だったのだろうが」
キヒヒヒ! と気色悪い笑い声が深い闇のなかに反響する。
それは鴻上の私室に鳴ったのではなく、彼の頭のなかで直接響いていた。
いつしか気付いたときには視界の端に影がいた。
どこまでも黒に染まり、明かりのない部屋にいても、異様なまでに目立つ影だ。
『ナァ、そろそろテメェのカラダをくれヨ、モウ待ちくたびレてんダ』
「そう急くことはない。お互いに黒き鬼姫に復讐したいという利害は一致している。いずれ時が来たときは――」
『アア、ウゼェ、ウゼェウゼェ! オレは、いい加減影だけっテのにも飽きてンだヨォ! さっさとテメェのカラダをオレ様にアケ渡せってンだ!』
「ぐ、ぬぅ……う、ああ……」
ぬらり、と影が鴻上の肉体と溶け合おうと迫りくる。
鴻上は、自分の中に入り込んでくる異物を追い出そうと抗うが、その度に割れるような頭痛が激しく襲い掛かってくる。
だらだらと嫌な汗で全身が濡れる。
びっしょりと汗で滲んだ御子室の制服が気持ち悪い。うまく呼吸ができなくなり激痛に支配された肉体が吐き気を催す。
机に全身を預けながら、痺れる指先で鴻上は筆を執った。
(……この体が奪われる前に、必ず……必ず、我らが勝つための一手を、作り上げる……ッ!)
鴻上は気を紛らわせるように筆を走らせる。
そうしていると、やがて割れるような頭痛と、肉体を裂くような激痛が急速に薄れ、影が離れていく。
『チッ……相変わらず、シぶてェったらネェよなア、テメェ……ヒヒ、だからこそ、オレ様のカリソメの肉体に相応シいってモンだがナ』
「……貴様ごとき低俗なアヤカシが私の肉体を欲するのは、私が霊子術式を取り出すための鍵を有しているから、だろう?」
『ン? リョウシ、ジュツ……ああ、そう、そうだナ……オレ様なら、ニンゲンなんぞより、もっとウマく、テメェが生み出したジュツシキってヤツをツカってやるヨ』
鴻上は影の発した声ならぬ声に満足げに頷いた。
「ああ、私としても、霊子術式の有用性を理解できず、封却書庫送りにしたことは遺憾でな……私が完成させた術式をより有効に扱ってくれるならば望むところだ。その時が訪れたなら、貴様に適したモノを厳選して、書庫に収められた記録を取り出してやろう」
『キヒヒ、誰がテメェなんぞ信用するかヨ。持ちダすべきジュツシキは、オレ様が選ぶのサ』
「術式を誰より理解している私からの贈り物のつもりだったのだが。まあ、自分で選ぶと言うなら、好きにすればいいさ」
『ハッ! テメェに言われるまでもねェヨ……さァて、あと何年、あと何ヶ月、あと何日……テメェがそのウザッてェ自我を保ってられるかタノしみダナァ、キヒヒャハハハハ!』
気色の悪い高笑いを響かせながら、影は風に吹かれたように揺らぎ、そして消え去った。
「……そう簡単に、渡しはしないさ……まだ、やるべきことが終わっていない、からな……」
ふぅ、と緊張の糸が途切れたように吐息を漏らし、鴻上は走らせた筆が描いた文字列を指先で撫でる。
痛みに耐えながら、とにかく震える手で懸命に書いたその字は、まるで落書きのようにぐちゃぐちゃに歪んでいて、ミミズが這ったような汚いものだった。
思わず吹き出してしまうほどにひどい。
それでも、自分で書いた字であるなら、自分だけは読めるものだ。
――魂が尽きぬ限り、私は現世に舞い戻らん。