幕間1 第二次百鬼大戦 第4話
04
「ありがとう、光彰……貴方は、このように朽ちゆく私の姿なんて見たくはないと、そう願ってくれたのでしょう? だから本当はあなたの気持ちを尊重したいとも思いました。このような無様を晒して貴方を失望させるのは私としても本意ではないのです」
けれど、と。
カグヤは、いつかのように同じ場所に揃った忠臣の姿を、それぞれ交互に一瞥しながら告げる。
「私が幼き頃から傍にいてくれた、誰よりも信頼できるお二人にしか、これからのことは頼めないのです」
「ご息女――特に、忌まわしき鬼の呪縛を刻まれてしまったミコト様のこと、でしょうか?」
天蓋付きのベッドの前で膝をつき、深く頭を垂れながら、鴻上が静かに問うた。
その姿は、先ほどまでの現実逃避に没頭した男のものではなく、たしかに御子に仕える騎士の姿に見えた。
カグヤはこくんと小さく頷いて、
「あの子は、黒き鬼姫と、そして彼女と共に眠りに就いた魑魅魍魎たちを目覚めさせる鍵です。故に魑魅魍魎は反旗を翻すために、御子室や統合政府は鬼姫復活という恐怖を絶つために――必ずミコトの命を狙うでしょう」
「…………っ」
鴻上は、息が詰まるような感覚に襲われ、きつく唇を噛んだ。
術式という技法を失ったいまでも思い出す。
黒き鬼姫の嘲笑うような声が脳裏に響く。
この状況は、カグヤを苦しめるためだけに黒き鬼姫が作り上げたものであり、鴻上が鬼姫の呪いを阻止できなかったが故の過酷な運命だ。
鬼姫が打ち込んだ忌まわしき呪いが、自分ではなく娘に刻まれたと知った際には、流石のカグヤも気が動転していた。
珍しく声を荒ぶらせ暴れ回ったカグヤの姿と、そんな姿を晒させてしまった己の不甲斐なさと責任は、きっと鴻上に一生付き纏うものだろう。
それでも、カグヤは鬼姫が敷いた運命に抗い続けると決意し、忌み子として生まれたミコトの誕生を純粋に祝福したのだった。
彼女がそう選択したのなら、その選択を彼女は絶対に曲げないと、鴻上も沙都美もよく理解していた。
「本当は、あの子たちには二人手を取り合って、仲睦まじく、たまに喧嘩もしながら、この御子室の土台となる御子になってほしかった」
決して叶わぬ願いに手を伸ばすように、カグヤは窓の外に広がる曇天の空――その先を見つめていた。
しばらくそうして、涙を振り払うように一度瞼を伏せてから、彼女は揺らめく瞳に沙都美の姿を映した。
「……沙都美、貴女を御子室から追放します。その理由は、そうですね――御子・カグヤは鬼の烙印を刻まれている。いまの病はその影響であり娘の体に浮かぶ痣はフェイクである。だから、鬼姫復活を阻止するという名目で、この私に刃を向けた――というところでしょうか」
「……そのような偽報では、残念ながら御子室の連中が、すぐに見破るでしょう」
でしょうね、とカグヤは頷いた。
「しかし、ほんの一時の攪乱くらいにはなるはず……ええ、貴女がミコトを連れて逃げる時間くらいは、作れます」
「私は、子育てなんてできませんし、もしかしたらミコト様がグレて悪い子になってしまうかもしれませんよ? ……それでも本当に私にその役目を任せて下さるのですか?」
「ふふっ、心配はありません、沙都美。なんたってミコトはこの私の娘なのですから! いかなる間違いが起ころうと沙都美みたいに『こっそり面倒ごとを部下に放り投げて仕事をサボる』悪い子にはなりません!」
「うぐっ……なんで、そんなこと……」
「御子ですから。なんでもお見通しなのです!」
えへん! と誇らしげにカグヤが胸を張った。
もう母親になったというのに、まだ子供っぽさを残した彼女の姿に、沙都美はくすりと笑みを零していた。
ほんの少しだけ、緊張感が薄れてしまったところだが、その和やかになりかけた空気を正すように鴻上が開口する。
「では、私はその偽報に可能な限りの信憑性を添え、御子室の動きを制するために動けばよろしいですか?」
「ええ、お願いしますね、光彰」
それから、と。
カグヤはベッドから弱々しく手を伸ばして、その手を握るようにと視線で鴻上を促した。
「封却書庫の鍵を貴方に託します。正確には、忘却の性質を有した次元境界への接触権限――即ち神霊の代行を示すための言霊を光彰に教えます」
「んな、カグヤ様……!」
「む、ぐっ……!?」
沙都美はカグヤの言葉に目を剥いた。
鴻上も驚きを隠せぬ様子だったが、ほとんど力の入っていないカグヤの小さな手に強く、強く強く、握られていて、逃げようにも逃げられなかった。
ぼう、っと淡く輝いた霊光が、繋がれた両者の手を優しく包み込んだ。
「御子・カグヤ、私などにそのような……いけません、それは……たった一つの神言であったとしても、その神の代行たる力を行使していいのはこの世に唯一人、御子にのみ許されるべき……」
「ええ、ですから、御子の名において――この世で神言を紡ぐことを唯一許された私が、貴方にそれを受け取ることを許すと言っているのです。ほら、なにも問題なんて、ないでしょう?」
ああ、そうだった、と沙都美と鴻上は全く同じことを思っていた。
御子・カグヤに常識など通用しない。
だからこそ、常識的に無理難題、実現不可能な理想も彼女ならばあるいは――と、微かな期待を抱いて二人は傍に寄り添い続けていたのだ。
カグヤと鴻上の繋がれた手を包んだ霊光が、溶けるように鴻上の体へと吸い込まれていく。
「霊子術式は人に過ぎたる力。しかし、万が一にも霊子術式の技法が必要であると判断したときは、他でもない貴方が封却書庫から記録を取り出しなさい」
「私、が……?」
「はい。生みの親である貴方であれば霊子術式を正しく扱うことができるでしょう?」
「……御意のままに」
やがて、淡い輝きの霊光は一片も残らず鴻上に溶け、しばしの静寂が御子・カグヤの寝室を満たした。
ふぅ、と疲れを外に逃がすように息を吐いたカグヤ。
彼女は窓から見える半壊した――けれど再興に向けて着実に歩みを進める――帝都の姿を眺めながら、小さくぽつりと呟きを漏らした。
「雪、ですね」
「はい。今頃、サクヤ様とミコト様はおつかいも忘れ、姉妹仲良くはしゃいでいることでしょう」
沙都美がそう告げると、不意に鴻上が鼻で笑った。
「フン、そういう天城も遊びたくて身体が疼いているのではないか?」
「はっ、バカ言うんじゃないっての! 私はもう身体も心も立派な大人だってんだ。お前こそ、一人寂しく作った雪だるまを壊されたときを思い出して、いまにも泣きそうになってるんじゃないのか?」
「なっ……」
思わね反撃に鴻上は息を詰まらせていた。
その様子を見ていたカグヤの表情に、ほわんと優しい笑みが浮かび上がる。
「ふふ、懐かしいですね。あのときの光彰はいつまでも泣いていて、宥めるのに苦労したのを昨日のことのように思い出せます! ……ふふっ、いつもしっかりしてる光彰があのときは弟みたいで……」
「御子・カグヤまで……ぬうぅ、そんな昔の思い出などいまはどうでもいいでしょう、まったく……」
ふわり、ふわり、と雪が舞う。
曇天の空から柔らかな軌道で地上に落ちていく様は、まるで天使の羽根が降り注いでいるようにも見えた。
そんな光景を眺めながら、三人はいつまでも――いつか子供だった頃のように――心からの笑顔を咲かせて、他愛のないことを語り合っていた。
それが、三人揃って言葉を交わした、最後の時間だった。
――二週間後。
二代目御子・カグヤは、安らかにこの世を旅立った。