幕間1 第二次百鬼大戦 第3話
03
御子・カグヤの出産から四年の月日が流れた。
季節はすっかり冬。白く分厚い寒雲に覆われた空がどんよりと世界を見下ろしている。
沙都美は御子の寝室に招かれ、天蓋付きのベッドに横になるカグヤのしなやかな手を、ぎゅっと握っていた。
「……ごめんなさい、沙都美……私は、理想ばかり掲げて、そのくせなにもできなくて……不甲斐ないわ……」
「なにを仰るのですか。アメノミハシラもようやく完成に至りました。帝都商業区域の復興も順調に進んでいますし、もうすぐ繁華街の再建も成されるはずですよ。先の大戦が終わりを告げてから二年――この世界は間違いなく平和へと突き進んでいます。あなたが望んだ『愛と平和に満ちた暖かな世界』もいずれは……」
「けほ、こほっ……」
「カグヤ様!」
苦しそうに咳込んだカグヤの背を沙都美が優しく摩る。
大丈夫ですよ、と昔からは想像できない弱々しい笑みと共に告げて、カグヤが手を毛布の中に押し込もうとしたが、沙都美はすかさずその手を掴んでもう一度握り締めた。
仄かに生温かな濡れた感触が沙都美の手のひらに伝わる。
「おかーさん、だいじょーぶ?」
「おかーしゃん! えへへ、おかーしゃん!」
沙都美の傍らに駆け寄ってきた二人の幼子が、ベッドの端に手を掛けてカグヤの顔を覗き込んだ。
幼子の姉のほう――サクヤはこの齢にしては流暢な言葉で母の身を案じた。まだ物心もつかぬだろうに沙都美や母の些細な雰囲気の変化を感じ取っている。よほど聡明な子なのだろうな、と沙都美はいまから幼子の将来の姿を想像して頼もしくなる。
幼子の妹のほう――ミコトは年相応の能天気な笑顔を振り撒きながら、母の布団に顔を埋めて匂いを確かめていた。お前は子犬かっ! と思わずツッコミそうになって堪える沙都美。こちらは御子の立場にはとても似合わなそうだが、にへら、と綻んだ表情は実にだらしなく母譲りであることを感じさせる。
カグヤは、二人の娘に心配は掛けまいと、じわりと滲んだ脂汗を隠しながら微笑んだ。
「大丈夫……ええ、大丈夫ですよ! 二人ともなにか飲み物を持ってきてくれませんか?」
「はい、おかーさん!」
「おちゅかいー!」
とてとてと手を繋ぎながら歩き始めた幼子たちは、彼女たちにしてみれば重い扉を仲良く協力して開け、それから廊下を駆けだした。
その姿が見えなくなってから、沙都美はすぐに問う。
「よろしいのですか? 私が着いていったほうが良かったのでは……」
「ちょっとした冒険をしてもよい年頃でしょう。御子室の宮廷内なら誰かが手を貸してくれるでしょうし」
「いえ、ですが、ミコト様を『鬼の烙印』が刻まれた忌み子として考える者も多い。あの幼子を処理せねば黒き鬼姫の脅威が消えたとは言えないと意見する者もいます」
「もちろん承知しています。ですが、まだ私がここにいる以上は、少なくとも御子室の誰にも手出しはさせません」
それに、とカグヤは苦笑しながら沙都美に視線を向けた。
「血に濡れた手を子供たちに見せるつもりですか、沙都美」
「あっ……」
触れ合ったカグヤの手の温もりを沙都美は思い出した。
それは、カグヤの体温の熱ではなく喀血した血液の熱さで、彼女自身の体温は冷たいくらいだった。
「とはいえ、ごほっ……私も、そろそろ限界かもしれませ、ん……これから先のことを、いまのうちに……」
「そんなに弱気にならないでください! まだサクヤ様とミコト様には御身が必要なんです。それにあなたが目指した理想はまだ実現に至っていない! あなたが理想とする世界を見届けさせてもらわないと、わたしは――」
「ごめんなさい、沙都美……至急、光彰を呼んできてくださる、かしら……?」
「カグヤ様、まだ……あなたが必要なんです、あの子たちにも、わたしたちにも……」
「お願いします、沙都美」
「っ……頑固者!」
一度言い出したら、たとえ誰になにを言われようと、自分の言葉を押し通そうとする。それは彼女の面倒かつ厄介な一面であり、そして同時に決して心だけは折らぬという強さの表れだった。
それを理解しているからこそ、沙都美は彼女の願いを無視することはできなかった。
◇
御子・カグヤの容態が急変したのは、双子の誕生から数ヶ月後のことだった。
助産師の報告によれば、双子の出産は極めて難産だったらしく、カグヤの体力は著しく低下していたようだ。
だが彼女は自身の不調をひた隠しにしながら、あくまで平静を装って御子室の会議に出席し続け、半壊状態にあった帝都の復興に全霊を注いでいたのだ。
しかし、難産を終えての体力低下に加え、御子室内部の意見対立などによる心労も重なって、彼女はついに倒れてしまった。
それから沙都美は、この日まで片時も離れぬほどの勢いで傍に寄り添い続けたが、時間の経過とともに回復どころか弱っていくカグヤの姿を見ているのは辛くもあった。
実際、当初は沙都美と同じようにカグヤの傍にいた鴻上は、いつからか会議にも出席せず部屋に閉じこもっている。
だから、彼に声を掛けるのも、随分と久しぶりのように思う。
「鴻上、カグヤ様がお前を呼んでいる。いい加減、コウモリ生活はやめたらどうだ?」
「……その声、天城か……悪いが、いまは時間が惜しい……私には、やれねばらなんことが、ある……」
重苦しく立ち塞がる扉越しに掠れた声が返ってきた。
ほとんど抑揚もなく、まるでなにかに取り憑かれたようにも思えるほど、平坦で機械的な口調だった。
「時間が惜しい、だと……?」
ふざけるな、と沙都美は拳を握り締めて肩を震わせた。
「もう、残された時間なんざ、ほとんど無いんだよ……っ! あの御方が、他でもないお前を待っている……だから、もう手段なんて選んでる余裕なんて、こっちも持ち合わせちゃいないってことを理解しろ、このバカ!」
御子室宮廷の廊下に怒号が木霊した。
同時に、沙都美は鴻上の私室の扉を力任せに蹴破って、凄まじい破砕音をけたたましく鳴り響かせた。
すぅ~、はぁ~、と怒りを鎮めるように深呼吸した沙都美は、己と鴻上とを隔てる扉の消えた先へと歩みを進める。
「……なんて野蛮な女なのだろうな、お前は……」
「ふん。そういうお前こそ、どんだけ陰気くさい根暗野郎なんだよ、まったく!」
鴻上の部屋はじめりとした嫌な空気が漂っていた。
窓はすべて遮光性カーテンに覆われて、自然の光などまるで差し込まない。
ひたすらな闇に包まれ、生活感なんて微塵も感じられないほど物の少ない部屋の端、執務机に人形のようにじっと腰を据えている鴻上の姿があった。
彼は、諦めたように虚ろな瞳で沙都美の姿を認めると、疲れ切った吐息交じりに言葉を漏らした。
「……時間が無い、というのは本当なのか……?」
「ああ、私は医者でこそないが、ずっとあの御方の傍にいた……だから、わかっちまうんだよ、嫌なほどに……」
「そう、か……ああ、そうか……私は、あの終戦の日に続いて、またあの御方を護れないのだな……結局、この部屋で二年も費やしたというのに術式の再現はできなかった」
「鴻上、お前……まさか……」
沙都美は、ゆっくりと歩みを進めると、執務机の上に視線を落とした。
よくわからない意味不明な文字列が、びっしりと書き連ねられた紙の束がそこにはあった。
「お察しのとおりだよ。霊子術式を再現しようと多くの霊力結合、構築の式を書き出してみたが、そのすべてが失敗に終わるという不甲斐ない結果がここにある。単純に私の導き出した式が間違いだらけだったのか、あるいは『この世に存在しない』と定義されたモノはどうあっても再現できないのか……」
「鴻上、お前ってやつは……御子・カグヤが、御子室の派閥争いに苦悩し、病に伏せった己の体に苦痛を抱きながら、それでも鬼姫の呪縛に抗って娘たちと懸命に生きてきた時間……ずっと、こんなことをしていたってのか……?」
「ああ、そうだとも!」
鴻上は声を荒げて立ち上がった。
「この帝都にいる医師と物資では御子・カグヤを救うことはできない! しかし、霊子術式なら……私が完成させた、彼女の理想に寄り添うための力であれば……霊的視点からの治療が、できたはずなんだ……きっと……!」
「一体、いつまで霊子術式に拘っているつもりだ!」
「いつまでだって拘るさ! それが、あの御方を救うための唯一の方法なら、私は……ッ」
パァン!
乾いた音が薄闇に満たされた室内に反響した。
「いい加減にしろよ、鴻上……そんな無駄なことに時間を費やすくらいなら、せめて一時でも彼女を傍で支えてやるべきだったろうが……」
沙都美の声は、自分でもわかってしまうくらい、ひどく震えていた。
鴻上は瞳を伏せて、どこか申し訳なさそうに、言葉を紡ぐ。
「ああ、そうなのかもしれない……だが、私はお前のようにはなれないんだ……もし奇跡があるのなら……神の秘儀が我らの手に扱えたなら、と……縋って、縋って、縋り続けて、その逃避に身を沈めていなければ、いつか自分自身さえ見失ってしまいそうで恐ろしい……だから、きっと私はこれからも、こんな弱い人間のままだ……」
そう本音を吐き出した鴻上は、ようやく肩の力を抜いて一息吐き出した。
その瞳は、やはり虚ろで死んだような色をしていたが、それでも彼は振り絞るように表情を引き締めた。
「御子・カグヤが、このように弱き私でさえ所望してくださるというのなら、この一時だけは部屋に籠っているわけにいかんのだろうな」
「当たり前だ。ったく、遅いんだよ、さっさとしろ、ばか……」
沙都美は、少々感情的になっていたことに、いまになって気付く。
いつしか瞳から零れて頬伝っていた雫を、彼女は気恥ずかしそうに袖で拭い去った。
その様子にどう対処すればいいかわからず、鴻上は見て見ぬふりをしながら、数年ぶりに部屋の外の空気に触れた。
御子・カグヤの果てなき理想に寄り添い、その尊き命に生涯の忠誠を捧げると心に誓った二人の従者。
彼らは最後の役目を果たすべく、いま一度、この瞬間だけはと、肩を並べて歩み始めるのだった。