幕間1 第二次百鬼大戦 第1話
01
周囲には魑魅魍魎の群れ。
ぎっしりと際限なく集った多種多様の異形たち。
まるで山岳のように巨大な威容を誇るものもいれば、外見だけなら兎のように愛らしいもの、さらには長い首を持った人面の鳥という奇妙なものまで、その形貌はまさしくよりどりみどりの妖怪博覧会といったところだ。
それらは円を描くように包囲陣を張っていた。
密集した群れの様相は、外から見れば真っ黒な壁が四方と天上を隅から隅までを囲んで、ドーム状になっているようにも見えるだろう。
その黒いドームの内側には四つの影があった。
正確には、この空間を作り上げた一匹の鬼の姿と、それと相対する三人の人間の姿だった。
「ほう? 妾は一人で来いと告げたはずだが……ふむ、もしや人間の言葉が間違っていたか?」
「御子カグヤ一人をお前の前に立たせるわけがないだろうが! 実際、終戦の申し出と謳っておきながら、貴様という卑しい鬼はこうして私たちを包囲しやがった!」
「妾は『一人で来い』とは言われておらなんでな。それに、妾たちの敗北、というカタチで戦を終わらせるためには、この場に妾が認知している限りの怪異どもを集める必要があった」
いまにも噛みつきそうな猛犬のごとく吠える少女に対して、鮮血の彼岸花を散りばめた漆黒の着物で身を飾った鬼は肩を竦める身振りで返した。
それから、額から伸びる二本の角を揺らして、その視線をべつの女へと向ける。
無機質な赤い瞳に見据えられたのは、着物の上から陣羽織を着用した女性だった。
ふわりと流れるような髪を一本結びに縛り、蒼空のように澄んだ瞳を携えた美麗な容貌は淑やかな印象を与えるが、しかしどこか芯にある剛胆さを感じずにはいられない雰囲気を漂わせている。
それは、この極東の国において、なによりも尊い命である。
彼女――二代目御子・カグヤは、傍らで呪符に手を伸ばさんとする少女の肩に手を添えて、その行動を抑えた。
「沙都美、あんまり怒ってばかりいると、あなたの綺麗なお顔が台無しになってしまうわ」
「カグヤ様……しかし、こいつはあなたを……ッ」
あくまでも漆黒の鬼を討たんとする少女。
カグヤは彼女に向けてもう一度かぶりを振った。それから一歩踏み出して、魑魅魍魎をその一身で束ねた鬼姫へと、柔らかな笑顔と共に白く透き通った手を差し伸べた。
「それでは、貴女の選択に無上の感謝と敬意を込めて、ここに人と鬼との盟約を交わしましょう」
「その前に、待て……貴様、身籠っておるのか……?」
唐突に鬼姫に問われたカグヤは、淡く微笑んで、それから照れくさそうに下腹部を撫でた。
「まだお腹はそんなに大きくなっていない、と思ったのですが……いえ、貴女ほどの御方であれば、霊力の反応だけでわかってしまうのでしょうか……?」
「ふむ、それも小さな霊子の塊が、二つ……はは、そうかそうか、ククク……ああ、これはめでたいことだ」
どこか含みのある言い方で鬼姫はそう呟いた。
そうして彼女は、ゆっくりと手を伸ばして、その感触を確かめるようにカグヤの手に絡めた。
「さて、めでたいところで、こちらもめでたく戦に終わりをもたらそうぞ」
「はい。私の愛では貴女たちを救えないことを許してください。……こんな不甲斐ない私と手を取り合ってくれることを重ねて感謝します」
「愛、か……それがなにかは妾にはわからん。だがな、感謝など気味が悪くて、怖気立つぞ」
鬼姫は眉根を寄せた渋い表情を浮かべた。
忌々しいと言わんばかりに射抜くような視線をカグヤに向ける。
しかし、そんなふうに睨まれてもカグヤは、あくまで微笑みを絶やさなかった。
それが腹立たしかったのだろう。
さらに鬼姫の面が強張った。
「せいぜい後悔することぞ、カグヤ」
「では、光彰……儀式を始めてください」
カグヤの言葉を受けて、いままで静観していた長身痩躯の男が、静かな足取りで手を結んだ両者の間に立った。
沙都美は、本当にこれでよかったのか? と脳裏で自問自答をしていたが、他でもないカグヤ自身が決定した行動を止める術などいまの彼女にはなかった。
ゆえに、少女はただ黙して見守ることしか出来なかった。
その儀式――ここに集ったすべての魑魅魍魎を、時間の停止した次元の狭間『境界』に封じるための大術式――が、なんの問題もなく無事に執り行われてくれることを。
人類と魑魅魍魎。
それぞれの頂点に君臨していた両者が深く瞼を下ろした。
静寂に満たされた世界。
やがて、その静寂に溶けるような声音で、両者の間に立った男――古代の神秘を術式というカタチで現世に蘇らせた稀代の天才霊子力研究者――鴻上光彰が世界に干渉する言霊を紡いでいく。
その言霊に呼応するように、カグヤと鬼姫を中心点に霊力光が溢れだし、いくつもの線を引いていく。
それらは幾重にも重なり合って、やがて広大な幾何学模様を大地に描き、この場に集った幾千幾万の魑魅魍魎たちを取り囲んでいく。
いくつもの霊力光が柱となって天を衝いた。
美しい光景だ。
無意識に沙都美が見惚れていたのも束の間――突然、大地が激しく揺れ始め、世界が眩いほどに輝かしい白光に呑み込まれていく。
その瞬間、沙都美は視覚も聴覚も奪われる。
しかし、
『く、くはははははっ! なにやら封印術式にいくつもの防壁を周到に張り巡らせていたようじゃが、その程度で妾の呪詛を止められるとでも思っておったか、小僧!』
「――――」
高らかに響き渡った鬼姫の声が脳内に木霊する。
それは、まるでなにもかもを嘲笑うかのようであり、とても敗北を受け入れた者が発するものではなかった。
『ここに盟約は交わされた! 妾の影に怯え震えながら苦しみ喘ぐがいい、カグヤ! 貴様の願いが――貴様が語る「愛」とやらが砕け散ったそのときが楽しみだ! ああ、そのときこそ、いま一度相見えようぞ!』
最後に彼女はこう言った。
まるで、いつか訪れる未来を見据えるように、鷹揚な笑いを交えながら。
『貴様が絶望したそのときこそ、その憎悪と嘆きと引き換えに、妾は現世に舞い戻らん!』
最後まで、不快極まるその声が、沙都美の頭に叩きつけられた。
その声が完全に消え入ったとき、ようやく世界に色が戻っていた。
鬼姫の姿はどこにもない。
この場に集っていた幾千幾万の魑魅魍魎たちも一匹残らず消失している。
不気味に蠕動していた群れが消え、頭上には澄みきった空が広がっていた。
すべてが終わったのだ。
「……これで、ようやく争いが終わる、のですね……」
よかった、と呟いてカグヤの身体がふらりと揺れた。
「カグヤ様……っ!」
沙都美が慌てて駆ける。
幾何学模様の霊力光が、トクンと鼓動のように脈打つ大地の上で、カグヤはまるで安堵したように穏やか顔で寝息を立てていた。
「はぁ……まったく、いつも心配させるのですから……」
カグヤの容態を隅の隅から隅まで徹底的に確認して、それから沙都美は胸を撫でてホッと一息吐き出した。
一方で痩せぎすの男は拳を地面に打ち付けた。
「クソッ! 術式に仕込んだ防壁は完璧だった。いくつもの壁を複雑に組み合わせていたはずなのに――なぜ、こうも容易く破られた……ッ⁉」
「……あまり、自分を責めないでください、光彰……」
鴻上の叫びで目が覚めたのだろう。
カグヤは、震える鴻上の握り拳にそっと触れながら、疲労を含んだか細い声音で宥めるように告げる。
「彼女――黒き鬼姫に私たちの常識は通用しませんよ。それに……彼女からの呪詛をこの身で受け取ることは、もとより私と彼女が交わした盟約の条件、ですから……だから、これでよかった、のです……」
「ッ……なにが、天才だ……なにが、神秘の再現者だ! ……私は御身を御守りすることができなかった! 私は御身が呪縛に苦しむことを、ただ黙って見ていることしか出来ない己が不甲斐なく……!」
「よいのです。貴方や沙都美が傍にいてくれるだけで、鬼姫から授かった呪詛とも向き合って生きていける」
カグヤは柔らかに微笑んだ。
自分を案じてくれる二人の従者の顔を交互に一瞥し、それから取り戻した青空へと小さな手を伸ばした。
「まだ、やることは沢山あります……私と貴方たちで、これからの未来を……少しでも愛に溢れた、優しくて、平和な世界を作って――」
そこで限界が訪れたらしい。
カグヤはいま一度瞼を下ろして、すぅすぅと穏やかな寝息を奏で始めた。
世界改変規模の大術式の中核を担ったばかりだ。
神域封印術式の起動に必要な霊力は、その大半を黒き鬼姫から絞り出しているが、それでも足り得ない霊力はカグヤから捻り出して賄った。
「……鴻上、お前が憤るのはわかる。しかしカグヤ様は誰よりも強くあろうとする御方だ。ご自身に降りかかる火の粉に焼かれるほど弱くはない。私たちはそんな強いお姫様の支えとなるべく――」
「……天城、お前はなにも……なにも、わかっていない」
あくまでも前向きに考えようとする沙都美の言葉を、鴻上光彰は低く呻くように唇から漏らした声で遮った。
「ああ、確かに……御子・カグヤならば己に襲いかかる災厄などものともしないだろうさ」
だが、と鴻上はきつく唇を噛み締めた。
「黒き鬼姫……ヤツが呪詛を刻んだのは御子・カグヤの霊核ではない……」
「……それは、どういう……」
困惑の表情を浮かべた沙都美。
憎々しげに鴻上は虚空を睨み付ける。
「御子・カグヤが身籠っている双子――あの頭のイッた忌々しい腐れた鬼は、あろうことか生まれる前の胎児に刻印を埋め込んだのだ!」
「な、に……?」
「御子・カグヤを苦しめ、追い詰めて、弄ぶ――たったそれだけのためにヤツは自らの敗北を受け入れたッ! いずれ必ずカグヤ様の心が折れると確信してなァ!」
「そん、な……ことって……」
全身から力が抜け落ちた沙都美はへたり込んだ。
鴻上は血が滲んだ拳をいつまでも戦慄かせ続けた。
そんな御子の従者二人を嘲笑うかのように、遥か高い青空は晴れやかに世界を照らし続けていた。