第二章 刻まれた呪縛 第2話
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思い切りぶち当たろう。
ケンカになるならなったで、そのときはそのときだと心を構えて、アラタは事務所へと帰還した。
つまるところ、アラタの筋肉の詰まった脳みそでは、もっともらしい言い訳は一つも思いつかなかったわけだ。
意を決して扉を開けると、
「あ、おかえりー」
ミコトがソファからいつものように手を振ってくれる。
なんとなく気恥ずかしいので「おう」とだけ返事をして、そこでアラタに違和感が襲い掛かった。
ろくに客の入らない事務所(先日のあれは除外)の応接間で、沙都弥が珍しく誰かと話しているのだった。
「……なあ、ありゃ誰だ? まさかマジもんの客なのか?」
アラタが小声でミコトに訊ねると、
「そうよ。私もよくわからないけど、この事務所にしか相談できない相談がある、とかなんとか言ってたわ」
「へえ……って、おわああ!?」
傍らからの声を自然と受け入れそうになって、けれどそれが予想になかった声だと気付いたアラタは、反射的に飛び退いてしまった。
事務所の扉を開けたすぐ右側で、腕組しながら壁に背を預ける少女がそこにいた。
対魔機動隊の制服でもなければ、先日のような決闘仕様の和装でもない、桃色のラフなジャージを着こなしている。だが、その細くてしなやかな腰に、花弁のごとき鍔を持った日本刀を携えるのは変わらない。
花織桜香だ。
「な、なんで、アンタがここにいるんだ?」
「知らないわよ。誰かさんに勝負にもなってない敗北をした腹いせに走り込みしてたら、あのお客に声を掛けられて『天城怪相談所』に案内してほしいって。まったく、私がなんでこんな……」
桜香は喉の奥でなにかブツブツ呟いている。
気持ちはわかる。アラタだってあんな理不尽な判定負けをしようものなら、二度とその相手となんて顔を合わせたくない。
それなのに、なんの因果があってか、昨日の今日でまた会うことになったのだ。
そんな少女の胸中は、怪物にも怪物なりに、ある程度は察することができる。
「なんつーか、その……昨日は、ミコトやガキどもを助けてくれて、ありがとな……」
「べ、べつに、感謝されるようなことじゃ、ないわよ! 民間人を護るのは対魔機動隊の隊員として至極当然なことで大事な役目だし!」
「そ、そっか……そりゃ、そうだよな……えと、いつでも挑戦は受ける……」
つい口から吐き出された言葉にアラタは後悔した。
これでは完全に上から目線だ。もちろん挑戦を受けるというのは本心であったが、それが桜香の気に障ったかもしれない。
おそるおそるアラタが視線を揺らして、ちらりと横目で少女の様子を窺っていると、
「……無駄よ。いくらやっても、私の力じゃアンタに勝てない……それが、私とアンタの力量の差ってやつでしょ?」
どこか遠くを見つめるような瞳で彼女は言った。
違う。アラタはそんな答えを求めていたのではない。
たとえば「次は勝つ!」だとか、あるいは「調子に乗るな!」とか――そんな言葉で反抗してほしかった。
まだ諦めていない少女の気高い姿を見たかった。
むしろ怒って騒ぎ立てるくらいの反応がよかった。
「なんだよ、それ……たしかにオレは『最強』だ。黒き鬼姫ってヤツの血を受け継いだ怪物だけど……」
それでも挑んできてほしかった。
昨日のように真正面から「お前を超える」と言ってほしかった。
いますぐじゃなくてもいい。いつか、誰よりも強くなって、その果てでもう一度戦いを挑むと言ってほしかった。
(ああ、くそ……自分でもよくわかんねぇけど、なんかムカつく……!)
たぶん、彼女が真っ向から挑んできてくれたことが、思ったよりも嬉しかったのだと思う。
ミコトを除いた誰もがアラタを怪物として見ている。自分たちでは到底敵うはずのない『最強』として考えている。だけど、花織桜香はそんなことは無視して、アラタのことを越えるべき敵と認識してくれた。
彼女は、怪物でも『最強』でもなく――天城アラタを見てくれたと、そう思ったのだ。
それをうまく伝えられないアラタは不器用に言葉を紡ぐ。
「また、戦えよ。それで、次はもっといい勝負しろよ。そんで……何度も戦って、互いに競い合って……いつかオレを超えてみせろよ……」
「…………」
返答はなかった。
どこか戸惑いと迷いを孕んだ表情を浮かべながら、けれど桜香は少年の言葉にはなにも答えてやれなかった。
どこまでも続いていく沈黙が、ひたすらに気まずい空気を蔓延させていく。
助け舟を差し向けてくれたのは、アラタの帰還にいま気付いたらしい沙都弥だった。
応接間の戸から体半分を覗かせながら、彼女は「こっちに来い」と手招きしている。
「……ったく、戦うのはともかく、話し合いはテメェの仕事だろうが」
聞こえぬように愚痴を漏らしながら、アラタは肩に担いだ機械式大剣を壁に寄り添わせ、重さが減っても軽くならない足取りで応接間へと向かう。
それを待つ沙都弥はアラタから視線を外して、
「花織桜香、だったか? 君も一応来てもらえると嬉しいんだが」
「えっ? わたし、ですか? ええーっと、まあいいですけど……」
突然の呼び出しに瞼をぱちくりさせながら、ジャージ姿の桜香はアラタの後に続いた。
彼女の表情には明らかな戸惑いの色が浮かんでいる。この事務所の人間ではない桜香はなぜ自分が呼ばれたかわからない。
もちろん、アラタとミコトにも、なぜ桜香までという疑問はある。
むしろ、ミコトはこの状況に、
「あの、沙都弥さん! わたし、わたしは?」
食いかかるようにソファから身を乗り出して、自分は呼ばなくていいのか? と必死に挙手までして訴えていた。
この事務所創立からのメンバーとしては、部外者が呼ばれて自分が呼ばれないのは、なかなか不服だったらしい。
だが、健気に腕を天へと伸ばし続けるミコトに、沙都弥は素っ気なかった。
「お前はいい。くれぐれも仕事の話だ。邪魔はせずに大人しくしていろ」
「じゃあ、邪魔はしませんから、お茶の用意くらいは!」
「それもいい。こっちでやる」
やはり素っ気ない。
こんな沙都弥の様子は、珍しい、と思った。
(いつもなら、即答でお茶係を頼むっつーか……押し付けてるっつーか、なんだけどな)
こんな『怪異相談所』の一員であるわりには、ミコトは魑魅魍魎には詳しくない。
当然ながら戦闘技術を磨いているわけでもない彼女の役割は、だらしない所長と脳筋の怪物の代わりに家事をすることだった。
だから、そういった雑務はミコトに任せるのが、本来の在り方なのだが――。
「むぅ……」
不満げに頬をぱんぱんに腫らして呻くミコト。
それを傍目にアラタと桜香は応接間へと突入した。ちらり、といつもとは様子の違った沙都弥を窺うと、
(……やっぱ、ちげぇよなあ……)
その女の違和感はより一層濃いものになった。
ごく稀にこの事務所に相談者が来たとしても、彼女は着崩れたスーツを正そうとはせず、相手の話を聞きに入る。
本人が自由奔放で外聞を気にしない性格なのもあるが、なにより自然体のほうが相談者も警戒を解くという考えからだ――と、ミコトは沙都弥のやり方を論じていたことがある。
しかし、いまはどうだろう?
まるで、やり手の女社長かと思えるくらい、きっちりスーツを纏っていた。
「よかったのですか、沙都弥さん? あの娘はすっかり拗ねているようですけれど……」
しっとりと滑らかな声音が響く。
「いいんですよ。貴方だってこのほうが気楽に話ができるでしょう」
いつになく丁寧な口調で返事をする沙都弥の視線の先――、
胸元にレースをあしらった、純白のワンピースでその身を飾った少女が、そこにいた。
彼女の腰かけたすぐ側には同じく純白のつば広帽子が置かれている。艶やかで流麗で夜を映したような黒髪は腰のあたりまで伸びている。
きらきらとした真鍮色の瞳はぱっちりしていて、まるで吸い込まれそうになる。
肌はきめ細やかに白く透き通っていて、それがより一層に黒髪を映えさせているようだった。
どこかのお嬢様然とした少女だ。
外見からの推測ではあるが、おそらくはアラタたちとそう歳は変わらないだろう。
沙都弥が彼女の対面に座ったのを見て、アラタたちも各々その隣に腰を下ろした。