理想的かつ擬似的なアイドル
不愉快な振動が腕から伝わり、私の意識を夢から覚醒させた。意識レベル低下時に起こる腕時計からの警告のようだった。私は自分の腕に目をやって時刻を確認した。約束の時刻までまだ一分もある。皮膚の筋電場を動力にする生体腕時計は、私の脈拍と体温も勝手に盗み取るドイツ製の寄生虫だった。
一分後、洗浄液でフレームが変色してしまったディスプレイに、アジア系の中年男の顔が映る。このご時世にネクタイを首に巻き付け、チョッキからネクタイピンを覗かせる男の黒いスーツ姿に、私は呆れて一瞬、言葉を失った。こんな(悪い意味で)生真面目なアバターを使うのは日本人に違いない。
「この度はミラージュ・ペルソナ・サービスをご利用いただき誠にありがとうございます。ご用件をどうぞ」
私はヘッドセットマイクに向かっていつものように極めて事務的に、しかし営業用の明るいトーンで話しかけた。
客の要望に合わせて自分自身もカメラに顔を映してはいるが、それは巧妙に偽装したアバターだった。ディスプレイ越しの客の下には、容姿端麗な架空の女の姿が届いているはずだ。
ただし、そのアバターも客が警戒心を抱かない程度にあえて整形されている。そして、音声も愛想が良いだけの没個性的な声に調律されていた。
今の私はカメラの前で肘掛け付きのゲーミングチェアに腰掛け、だらしなく脚を伸ばしていた。こんな業務態度でもアバターは自動的に畏まったOLを演じてくれる。体勢だけは気楽なオフィスだ。
「リー・アンド・ホワイト・クリエイティブ・パートナーズInc.のCEO、ミスター・リーからご紹介いただきました。エイ・ティ・アイ・プロダクション株式会社、第一エンターテイメント事業部のマシュー高橋と申します。市民IDと紹介状のパスコードをお送りいたしますので、ご確認ください」
ミスター・サラリーマンが頭を下げた後、男の市民IDと紹介状のパスコードが送られてきた。今回の客はやはり日本人だった。市民IDの問い合わせの結果、模範的で善良な市民の証である星印が名前の横に並んでいる。
「ありがとうございます。高橋様。本日の担当は春日・琴葉・夕莉です。早速、ご用件をお伺いいたします」
「失礼ですが、もしかしてブラジル系ですか?」
「あ、ええ、そうです。父方がブラジル出身なんですよ」
名乗る時は必ず営業用の偽名だった。私は咄嗟に嘘をついて話を合わせた。
「珍しいお名前だと思いました。私も母方がイギリス出身でして……おっと。すいません、なんとお呼びすれば?」
「春日で結構です」
「春日さん。現在、弊社で扱っている一部案件について御社のセキュリティ・ポリシーが適合いたしましたので、是非とも当該案件におけるペルソナ関連業務につきまして御社と何点かご相談させていただきたく、ご連絡を申し上げました次第です」
ミスター・サラリーマンが薄気味悪いほど完璧な愛想笑いを浮かべた。長ったらしく仰々しい話だが、要するにいつもの仕事だ。
しかし油断はできない。会社の中間層に属する日本人の判断力は信用できなかった。相談や見積もりの時間だけを取らせて、取引がお流れになることも少なくない。
うちは老舗でも大手でもない、ボスを含めて3人のしがないペルソナ・ディーラーだ。顧客の要望に合わせてAIの人格を仕入れて売り捌くだけに過ぎない。AIよりまともな人格の客が金を落としてくれれば有り難いが、往々にしてこの手の商売は詐欺師と軽犯罪と面倒事のオンパレードだった。
客から信用を得るため、ボスがでっち上げたミラージュの会社案内には、これでもかというほど多数の国際規格がリストアップされていた。ボスはすべての規格を満たしていると胸を張っていたが、単なるジョークだろう。
こうした実態を悟られないように紹介制にして秘密主義を貫いているのに、この芸能マネージャーを紹介してきた会社の社長は、この『魔窟』を頼れるビジネス・パートナーと勘違いしてしまったらしい。私はミスター・サラリーマンと今すぐお別れしたかったが、仕方なく仕事の前口上を述べた。
「どのようなペルソナをご希望ですか?」
「まずは資料をお送りいたしますので、そちらをご確認ください」
「申し訳ございませんが、お客様からのご要望でのファイルの送信は受け付けておりません。ご了承ください」
「なるほど。それもセキュリティのご都合ですね。失礼いたしました」
勝手に感心されても困るのだが、まあいい。相手が気分を害さなかったのは幸いだ。
「それではこちらで資料を映して口頭でご説明いたします。本案件の情報はくれぐれも内密にお願いいたします。よろしいですか?」
よくない。が、断ることもできない。私は渋々、楽しい説明を受けることになった。資料はすべてのページが大量の文字で埋まっていた。ジャパニーズ・ビジネス・スタイルだ。ペルソナとは無関係だからと言って突然ページを飛ばすので、全体像は掴めない。
私が理解できたのは、Rabbits12というアイドルグループに所属するアイドル、種座梨世を、パフォーマンス可能な状態に保ちたいということだけだった。
Rabbits12といえば、芸能界に疎い同僚ですら知っている現役の超有名アイドルグループだ。名前の通り十二姉妹という設定を持つ子兎のように愛らしい彼女たちはあらゆる年代を魅了する。そして、種座梨世と言えばグループの中でも特にコアな人気を集める個性派アイドルだった。
彼女はライブでは仮想、現実の垣根を超え、歌、楽器、ダンス、ゲーム、トーク、あらゆるパフォーマンスをこなす。さらに舞台やドラマでも高い演技力を発揮していた。その原動力が民生品のパーツではなく、軍用アンドロイドの違法転用だからという噂もあったが、圧倒的パフォーマンスの前では些末な事だ。もし彼女が男装してくれれば、私だって抱きしめてみたいと思う。
その種座梨世をペルソナで助けなければならないとは、一体どうなっているのだろうか。
「ご理解いただけましたか? 春日さん」
「え? あ、はい」
私はしどろもどろになって答えた。ミスター・サラリーマンはわざと咳払いしてから説明を付け加えた。
「うちの種座は現在、スランプ状態と申しますか。平時のパフォーマンスを発揮できないようなのです。種座のボディの自己診断プログラムは異常を検知していませんが、お客様の反応は顕著です」
「具体的には?」
「メンバー全体のファンクラブ登録者数は増加していますが、種座は女性ファンの増加とともに男性ファンが微減少しました。グッズの売上も同様。これは彼女特有の傾向です」
「ご本人とのご相談は? 彼女自身はどのような意見を?」
「種座には伝えておりません。自分がグループの足を引っ張っているという誤解を与えかねませんから」
「御社のアナリストはどのようにお考えですか?」
「それはここではお答えできません。グループ全体のプロデュース、ひいては弊社のマーケティング戦略に関わる情報になりますので」
何がしたいんだ、こいつは。こちらが必要としている情報を出せないなんて、どうかしている。
「それでは、こちらとしてもご助力できかねます。高橋=サン。申し訳ございませんが、お引取りください」
私は苛立ちながらアバターの席を立つモーションを実行した。話にならない。この仕事はお流れだ。
「恐れ入りますが、もう少しお付き合い願えませんか?」
ミスター・サラリーマンは目を見開いて怒りにも似た表情を見せたものの、すぐに大きく頭を下げて顔を伏せた。誠意を見せているつもりのようだが、相手もアバターに謝罪のモーションをさせているだけに過ぎない。
雲をつかむような話だ。私も種座梨世のファンだが、彼女を助けるには情報が少なすぎる。ペルソナが助けになる必然性もない。あるとすれば、それは先程の資料の作成を命じた芸能事務所の連中の頭の中だけだろう。
「遅れて申し訳ございません」
その時、私のアバターの横にボスの姿が現れた。眩いピンクに染めた巻き毛と、あどけない少女のような表情からは、ペルソナ・ディーラーの社長どころか堅気の人間の雰囲気すら感じさせない。場違いにもほどがある登場だった。
ボスは適当に自己紹介を済ませると、勝手に話を取り次ぎ始めた。
「高橋様。この度は担当者が配慮の欠いた対応を行ってしまい、誠に申し訳ございません。代表取締役社長である私からも直に、本案件にご協力させていただきます。如何でしょうか」
「え? ええ、勿論。こちらも至らない説明ばかりで申し訳ございません」
呆気にとられたのはミスター・サラリーマンも私と同じようだった。彼は、こんなアイドルのコスプレじみた輩が社長なのかという疑惑と、社長という存在に盾突くべきではないという葛藤を抱えて混乱しているようだった。
「結論から申し上げますと、種座様は一時的な不安障害に陥っている可能性があります」
「不安障害?」
ボスの意外な言葉に、私とミスター・サラリーマンは同時に硬直した。
「種座様は……いえ、種座梨世は女性のにわかファンが増えて、男性の古参ファンが離れたことに気付いている。つまり、グループがマスに広まる中で、コアなファンを集めてきた自分の存在感が薄まることを恐れている」
「それは、どうして……?」
「種座梨世は十二姉妹の七番目。年上でも年下でもない。幼馴染とは異なるキュートな雰囲気を伴って登場し、外見とのギャップがあるトークによって瞬く間にファンを獲得した。グループの黎明期を支えたファンの基盤は彼女が作ったと言っても過言ではない。Rabbits12の中で脇を固めるはずだった種座梨世は、本当はRabbits12の中心にいる。
それなのにSNSでは評論家気取りの連中が、種座梨世は日和ったとか、女性にも媚を売っているだとか、恋人ができて男性ファンを捨てたとか。アイドル・アンドロイドのボディには乳首が付いているとかいないとか。下らない噂を流し合って勝手に炎上している。
違う。真逆だ。種座梨世のパフォーマンスは変わっていない。むしろ学習し、成長し、進化している。彼女がデビュー当時にかつて諦めたエレキ・チェロを再び手に取り、コンサート会場までエレキ・チェロを自分で背負ってきて、古参ファンの間で伝説となった不協和音を奏でたのは、ファンクラブ会員第一号の誕生日を祝うためだった。
記念すべきラジオ番組の第一回放送では、彼女は放送開始直後『りっせりっせりー☆ やっほー。まず皆に言いたいことがありまーす。それは皆が私の事をSNSで隠れてザリガニって呼んでることだよ! こちとらエゴサもしとるわ! てめえらのペンネームも、この番組内ではザリガニネームに決定だから! いいか、ザリガニ軍団!』と叫んだのは有名な話だが、それも彼女のファンへの愛情の裏返しだ」
「……」
ボスの演説は種座梨世の古参ファンでなければ知りえない話だった。
「変わってしまったのは、彼女の影響力が及ぶ範囲が悪意のある連中や大して興味のない人間にまで広がったということだ。今も種座梨世にはコアなファンがついている。しかし、それを上回る大きな数字しか事務所は見ていない。
グループの人気が高まるにつれてファン層が入れ替わり、同時に数字の気まぐれに事務所も振り回されるようになる。だが、種座梨世は彼女の持ち味である"毒"を薄めるようなプロデュースでも受け入れた。グループ全体のために――」
「分かりました。もう十分です」
ミスター・サラリーマンがボスの言葉を遮った。その頬が僅かに震えている。
「本来は私自身……彼女の最も近くにいる私が最初に把握すべき事態でした。それを指摘されてから気付くなんて」
「誰しも初志を貫徹することは困難です。それが行為ではなく存在自体に求められるのならば尚更でしょう」
ボスが謎のアイドル哲学を披露する。ミスター・サラリーマンはそれを聞き、一応、納得しているようだった。
「貴方、失礼ですが随分と熱心なファンというか、オタク……ドン引きされる典型的オタクのようですね。例えるなら、アキハバラを闊歩してメイド服のアンドロイドから迷わず"eパンフ"をもらって、後で集めた"eパンフ"を自作トレーディングカードゲームのカード代わりにしてしまうような」
「無償の愛を捧げる者をそう呼ぶのなら、そうなりますね。でも、例えのほうは種座梨世がラジオでリスナーから募集した遊びのネタでしょう。送ったのは私なんですけどね。あ、コンサルティングの料金プランは別途、ご確認いただきますね」
アイドルオタク同士の濃厚で皮肉めいた会話についていけず、私はこっそりとミーティングの音量を下げた。
***
「で、種座梨世はどうなった?」
同僚がチェイサーのグラスに指を置いたまま聞いてくる。同僚には喋る前に必ず眼鏡を押し上げる癖があった。しかし、今は珍しく私の話をじっくり聞いている。場末のバーのカウンターには私と同僚の二人しか座っていなかった。
「ボスが今、Rabbits12のコンサートに行って確認中」
「カウンセリング用のペルソナを手配したのか?」
「種座梨世の予定を聞き出して、ボスが直接、彼女の指導に行ってたみたい。それより、そのマネージャー。支払いだけは完了して、帰ってから音沙汰無しだったんだけど、彼の市民IDがクラックされてたのよ」
「何それ」
「ミラージュに来る直前に情報が盗まれてたんだって。軍用アンドロイドのソフトが使われたらしくて、サイバー・フォレンジックでも手掛かり無し。私が会ったマシュー高橋は、アバターを使った成りすましだったのかも」
「詐欺の片棒でも担がされたか」
成りすましだったとして、軍用アンドロイドまで使って種座梨世について相談する理由は不明だ。それに、ミスター・サラリーマンは彼女の予定まで知っていた。
種座梨世が軍用アンドロイドから違法流用したパーツを使っているという噂が一瞬、私の頭を過った。いや、流石にこれは考えすぎだろう。実は種座梨世本人がディスプレイの向こうにいたなんて。
私たちの心配を余所に、ボスからコールが来た。コンサート会場からだ。
「ボス、どうしました?」
「種座梨世が急遽、凍結状態に入ると宣言した」
周囲からのどよめきが入り混じった、ボスの狼狽えた声が聞こえてくる。
「どういう意味ですか?」
「遊休だよ。彼女はアイドルを続けるわけでも辞めるわけでもない。アイドルという憧れの的、その存在のみに留まった。もしかすると、私のお節介のせいかも知れないな……」
寂しげなボスの声は周囲の大きな泣き声の波に飲まれ、やがて回線の切断とともに途切れた。
「ボスには残念だな。いや、世界中のファンたちもか。勿体無い」
同僚がグラスから指を離し、眼鏡を押し上げながら興味を失ったように溜息をついた。同僚は、ボスがしゃしゃり出てきた挙げ句に、最後の最後で金づるを潰してしまったと考えたようだった。
「でも、本気で辞めたわけじゃないんだろ? 引退するとか休止するとか言った奴ほど、すぐ戻ってくるもんだよ。案外、ソロ活動の準備かも」
チェイサーを飲み干すと、同僚はバーを後にした。確かに、ソロのほうが彼女にとっても気楽かも知れない。残された私は、種座梨世・ロスから気を紛らわせるため、一人でグラスを空け続けた。
朝日が昇る頃、酩酊し切った私の頭の中では、眩いピンクの巻き毛を踊らせ、男物のスーツを纏った種座梨世が一人で脳内を沸かせていた。彼女は消えたわけではない。そう、きっと帰ってくる……。
何故なら、彼女を知ったすべての人にとって、彼女は今この瞬間もアイドルなのだから。