21.闇
私の母親。
たぶん、もう1年近く顔を合わせていない。
この人は兄貴だけを盲目的に愛していて、兄貴が学費の馬鹿高い私立大学にスポーツ推薦で入学を決めたときに割のいい夜勤の工場勤務に派遣社員で入ったから、私とは生活リズムがあわなくなった。
中学──もっというと小学校が兄貴と被らなくなってから、入学式も参観日も体育祭も文化祭も三者面談も、1度も来ていない。
たまに出くわしても、無断使いするな・みっともない成績だけは残すな・家族の足をひっぱるなと文句ばかりの、私の母親。
『おにーちゃんは疲れてるの! お皿くらい下げてあげればいいでしょ! ほんとにアンタは思いやりがない!』
『家族なんだから、頑張ってるおにーちゃんを助けるのは当たり前。現実的に考えなさい』
だったら、なんで頑張ってる私のことは助けてくれないの?
あの男なんて、いったい何を頑張ってるっていうの?
勉強してバイトしてうちのほとんどの家事をしてる私より、剣道とゲームしかせず、成績も底辺を這ってて脱いだ靴下を洗濯カゴに入れることすらしないアイツのほうが、なにを頑張ってるっていうの?
仮にアイツのほうが頑張ってるとして、私だって頑張ってるのに、なんで認めてくれないの。
『コウちゃんは優しい子。わたしは特別な子。かわいい子なの』
じゃあ私は?
私は、優しくないの? 特別な子じゃないの? かわいくないの?
私は、いらない子なの?
『──ホンジョーさぁ。アイツムカつくよね』
ぞくっとする。
背骨を直接指でなぞられるような、いやらしい、底知れぬ不快感。
振り返る。
そこにいたのは、あの、キラキラDQN女。
『ちょっと顔がいいから贔屓されて、ちょーしにのってんじゃないの? 成績がいいのとか、教師に媚び売ってエンコーでもしてんじゃね?』
いつか、私が盗み聞きしたあの女の言葉。
放課後の教室で取り巻き共と楽しそうにお喋りしていた内容だから盗み聞きもなにもないのだが、怖気が走る。あの女とは3年になって初めて顔を合わせたのに、なんであんなに嫌われたのだろう。
『あいつのアニキ、剣道で有名なんでしょ? なのにその妹がエンコーしてるとかありえなくね? おにーさん、かわいそー』
怒りで体中の血液が凍えていくような感覚。
アイツのなにが可哀想なものか。
アイツが一体なんの努力をしているというのか。生まれ持った才能の上にあぐらをかいて威張りちらし、偉ぶって。マザコンで怠惰で物臭で。最近では大学に通っている様子もなく、母から貰ったお小遣いでゲームや漫画を買ってきては一日中遊んで、ぶくぶく豚のように太っている。剣道をやっていた関係の推薦で入った大学なのに、チームメイトと仲違いしただのなんだの、コミュ障め。
そんなに大学に行きたくないなら、私と代わってくれ。
私が喉から手が出そうに欲しいものを全部持ってるくせに、いらないなら私にくれよ。
『──死ねよ、ゴミダサおんな』
元の世界で最後に見た、あの女の顔。
殺意や憎悪や蔑みが滲んだ、醜い笑い顔だった。
あいつは私を、本気で殺そうとしていた。
──殺そうとしていたんだ!
「うるさい、うるさい、うるさい!!」
聞きたくない! 喋るな、話すな、口を開くな!
私は声を振り払うように大声をあげる。
だがやつらにとって、私の拒絶など蚊の飛ぶ音のようなものだった。
『都九子、あんたはほんとになにをやってもダメ。もっと頑張りなさい。コウちゃんを見習いなさい』
「うるさい! 私はがんばってる! 私はがんばってた! でもいくらがんばってもがんばっても、アンタは私にもっと頑張れっていうだけだった!」
『おにーさん、かわいそー。出来損ないの妹で』
「うるさい! 出来損ないはお前だ! 努力が足りないんだよ! 私に構ってないで、今からでも勉強しろよ! 現実的に考えろよ、サボってんの分かるんだよ!」
『なんで私の言うこと聞けないの。家族なんだから助け合ってよ』
「うるさい! 私は頑張ってた! 頑張っても認められなかった! 認めなかったのはアンタだ!」
『ホンジョーのやつ、ちょっとアタマとカオがいいからって偉そうに……』
「カネとカオだけのお前に私のなにが分かる! お前は頑張ってなかった! 頑張ってないの分かるから、認められなかった!」
『都九子、アンタは本当に優しくない』
『死ねよ、ゴミダサおんな』
「うるさいうるさいうるさい! うるさい!!」
耳をふさぐ。なにも考えたくなくて拒絶する。
──分かっていた。
私の目の前にいる二人の女は、私の鏡だと。
私の努力を認めないどころか文句ばかりの母。口だけだと、金と顔だけだと、何の努力もしていない女だと思えるからなおさら許せないDQN女。
私が彼女らに向ける言葉は、そのまま私自身をも切り付ける両刃の剣なのだと。
私はその場にへたり込む。
それは途方もない、どうしようもない、振り払えない絶望だった。
「あ……ああ……」
むなしかった。
だって、母親は、私がなにを頑張ったって、私を認めることはない。母親にとってコウちゃんだけがこの世の全てで、私は家事をするだけのマシーンみたいなものだから。
DQN女は私の兄がものすごく良い存在のように思えているようだが、それは偶像をありがたがる宗教のようなものだ。だが私の話を聞かないあいつにどんな言葉を用いたって、私が報われることはないだろう。
──ああ、そうだ。
私は、報われたかったんだ。
だって、私、いままで本当に、がんばってきた。
我慢して我慢して、ずっと耐えてきた。
だれかにほめてほしかったんだ。
「ああ……あっ……あ……」
両手足から力が抜けていく。
自分の体を支えられなくなって、その場にうずくまる。肺が重たい。息が出来ない。
ずるり……。闇が、私に向かって這い寄ってくるような気配。ずるり……。それが私には歌に聞こえた。まるで天使の吐き出す呪詛のような、悪魔の告げる洗礼句のような、花のような毒のような木漏れ日のような汚物のような。ずるり、ずるり……。
このまま闇に飲み込まれて押しつぶされて、溺れて消えてしまうのだろうか。
今までの努力も我慢も、全部なかったことになるのだろうか。
──それでも、いい。
なんだか、わたし。
とてもつかれた。
「わたしは……わたしは……」
わたしは、なんのために、いままで生きてきたの?
「──それは想像力の暴走ってやつだぜ、お嬢ちゃん」
それは聞き覚えのない。
耳に優しい甘い匂いの、男の声だった。
今日は2話更新します。
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