〜桜並木編9〜
スライド式のドアが開くと、そこには人が立っていた。
いや、正確には人の形をした怨霊がいた。
そしてオレ達が怨霊がそこにいると認識するよりも早く、そいつは右腕を振り上げると、前に立っているノワールを横に吹き飛ばした。
体重の軽い彼はいとも簡単に壁まで吹き飛ばされる。ぐったりと崩れ落ちた彼に興味をなくしたのか、悪霊は次はオレに狙いを定めたらしい。
右足で踏み込みこちらに殴りかかって来るが、それよりも早く左手の剣で奴の右手を斬り落とす。
腕を落とされ耳障りな声を上げている隙に懐に飛び込み、奴の胸に剣を突き立てる。
悪霊が完全に霧散したのを見届け、振り返ると、ハクが女を庇いながら目と耳を塞いでいた。
人間に見せるようなものでもなし、見せなくて済むならその方がいいだろう。
さてノワールは無事だろうか。
彼の方を見ると、顔の左半分は血濡れているものの立ち上がり服についた埃を払う余裕があることから眼球は無事なのだろう。
抉られたのが表面だけなら一日もあれば完治するだろう。
こちらも問題ないようで安心した。
「あー最悪だ。油断した。まさか開けた瞬間いるとは
思わねぇよ」
いつもと変わらない、いやいつもより強めの口調で悪態をつきながらノワールがこちらへ戻って来る。
やはり大した怪我ではなさそうだ。
しかしそんな彼を見て、「ひっ」と短い悲鳴が女から上がった。
「そ、その怪我……て、手当てしないと……」
どうやら女はノワールの怪我が重傷に見えたらしい。
どこをどう見たらそんなひどい怪我に見えるというのだ。
「大丈夫。人と神は違う。わたし達にとってあのくら
いかすり傷」
ハクが普段より優しい声で説明する。
なるほど、人間にとってこれは大怪我になるのか、覚えておこう。
「おい、あれ見てみろよ」
親指で指し、オレ達に音楽室の中を見るように促す。
いくら人間とはいえ、心配されたのにそれを無視した挙句別の話題振るとは本当に性格が捻くれている。
一度睨みつけた後、ノワールが指差す方向へと目を向ければ、そこにピアノの音の正体がいた。
生徒の為に並べられた椅子と机。五線譜が書かれた白板。その奥にある大きなグランドピアノと部屋に光を届ける壁一面の窓。
それら全てを夕日が紅く染め上げ、グランドピアノが奏でる音が音楽室全体を支配しているかのような錯覚を受ける。
そしてそのグランドピアノを弾いているのは一人の少女だった。
歳の頃は十五歳くらいだろうか。黒く艶のある髪をおさげにし、結界に入る前の桜並木を彷彿させるような薄い桃色のワンピースに身を包んだ少女はオレ達にに気づく様子もなく、ピアノを弾き続けていた。
その少女にオレはゆっくりと近づく。隣に立つが、反応はない。
「なあ」
声をかけると初めて反応を示した。
ピアノを弾くのをやめ、黒目がちの目でこちらを見つめてくる。
「お前、何してるんだ?」
「あたし?」
少女が自分を指差し首をかしげる。
「ああ。オレ達の正体薄々感づいてるだろ? どうし
て逃げない?」
視界の端でノワールが頭を抱えるのが見えたが、生憎オレは直球でしか聞くことができない。
遠回しというのは苦手だ。
「逃げる? どうして?」
何を言っているのだ?
これだけの力を持つ怨霊ならオレ達が自身に害を与える存在であることに薄々感づくはずだ。
どうして逃げない?
そもそもこいつは本当に悪霊なのか?
「悪霊に決まってるだろうが。ただ、とぼけてるわけ
でもない。そいつ逃げる気ねぇぞ」
逃げる気がない?
ますます分からない。
そもそもこいつからは何も感じない。悪霊が持つ特有の怒りや憎しみそういうものを一切感じないのだ。
まさか、それが分からなくなるほど感覚が鈍っているというのか?
「ねえ、お兄さん」
「え?」
「あそこの三人はお兄さんのお友達?」
どうやらノワールが声を出したことで少女は彼らのことも認識したらしい。
「友達ではな……」
「友達だよ」
友達ではないと否定しようとしたオレの発言を遮りノワールが答える。
思わず彼を見ると、話を合わせろと視線を送ってきていた。
よく分からないが合わすことにしよう。
「ああ。仲がいい友達だ」
「そう。何しにきたの? お名前は?」
一体何を言いだすのだ。
まるで親しくなろうときているかのような物言いに言葉に詰まる。
「お名前。教えてちょうだい」
答えられないでいると、教えてもらえないと思ったのか。もう一度聞いてくる。
だが、その話し方に何か違和感を覚える。
よく分からないが、ただ漠然と"違う"と思ったのだ。
「名前。えっと、グレイって言うんだ」
きちんと答えないといけない気がして、思わず正直に答える。
チッという舌打ちが聞こえた気がしたが、気のせいと思いたい。
「お、大沢志穂です」
オレが答えたことでつられたのだろう。
女も名前を答える。
そしてその瞬間、それまで笑っていた少女の気配が変わった。
「しほ? なにそれ。あたし、嫌いなの」
今ならはっきりと分かる。
この少女は紛れも無い怨霊だ。先ほどまで全くといっていいほど感じなかった怒りや憎しみを今ははっきりと感じる。
そしてそれらはしほという名前に向けられていた。
まずい、そう反射的に思った時には既に音楽室がいやこの学校のある空間が崩れ始めていた。
ボロボロと削られていく壁と床、同じように窓の外の空も崩れていく。
少女を捕らえるべきだが弱っていない状態で捕まえることはできない。
悔しいが一旦少女から離れて三人の元へと戻るべきだろう。
床は崩れ始めてはいるが、まだ飛び越えればなんとか三人のいる方まで届きそうだ。
そうして、三人の元へたどり着いた時、天井が完全に崩れ落ちた。
視界が暗くなり、泥のようなものに埋もれる。痛みはないが上下左右が分からない感覚は気持ちが悪い。
どれほど泥のようなものの中にいただろうか。突然光を感じ、目蓋を持ち上げる。するとそこはあの桜並木だった。
9話です! とうとう怨霊を出すことができました。そして、少し話が動き出しました! これからまた新たな事実が分かっていきます。
これからもよろしくお願いします!!