秋の幻影
トロントにあるメンタルヘルスセンターの待合所で僕の名前が呼ばれた。カナダではあまり見かけない日本人である自分に好奇の目が集まるのを嫌った僕は、そそくさと診断室へ入った。
「やぁ、おはよう。調子はどうだい?」
柔らかい表情の医師がフレンドリーに問いかけて来た。
「まあまあです。でも未だに頭の中に母の姿を見てしまう……」
「んー、なるほど。そうか……他には何かあるかい?」
「それでその……自分を失いかける事が」
医師は遮る事なく僕の話しに耳を傾けてくれ、僕の病気に対するアドバイスもしてくれた。
診断後に気分安定薬と抗うつ剤を処方されてメンタルヘルスセンターを後にした僕は、大事な友達との待ち合わせの約束を思い出して、少し離れた場所にある広場へと早足で向かった。
◆
紅葉に彩られた景観にインディアン・サマーを感じる昼下がりの小さな広場で、この国で唯一人の友人が来るのをベンチに座りながら待つ。
大学生時代にここカナダに留学して知り合った友人……。今日は偶然にも休みが合ったので少しだけ話でもしようと言う事になったのだ。
もう少しいい服を着て来るべきだったかな。
自分が着ている素朴な色合いのパーカーを見ながら僕はふとそんな事を考えていた。
「お待たせ」
正面の方から僕を呼ぶ声がしたので視線をパーカーからそちらに移すと、友人が手を上げてこちらへと歩いて来ていた。
「やあ、イザドラ」
ベンチに座ったまま僕も友人に対して、ぱっと手を上げて挨拶を返した。
僕とは対照的に、彼女は小綺麗な秋の服装に身を包んでいる。
「それ、とても素敵だよ」
僕は隣に座ったイザドラの被っているロシア帽を指して笑顔を見せた。
「あったかくて超ご機嫌なの。これ被ってるとね」
「だろうね。あったかそうだもの」
「貴方は帽子とか被らないの?似合いそうじゃん」
「そうかな?」
帽子を被るのがあまり好きでなかった僕が笑いながらそう誤魔化すと、イザドラは微笑を浮かべながらベンチに両肘を掛けて足を伸ばし、よく晴れた空を見上げた。
僕はその整った白人の横顔をつい眺めた。
「ん、どうかした?」
「いや、何でも……ごめん」
慌てて顔を逸らした僕だったが、
「……大人しそうに見えて結構コミカルだよね」
と揶揄ってくるイザドラに安心した。
その時だった。
この上なく唐突に、僕がこの世で一番許せない人物である両親と、その醜態を映した幼い頃の僕の視界が頭の中に広がった。
これが僕の病気だ。
短気で幼稚な性格の父はことあるごとに機嫌を悪くし、その度に小さな事で母を責め立てている。母はそうされて溜まった怒りの矛盾を、何も言い返せない僕に向けて来る。
それをまるで今体験しているかの様に思い起こして、どんどん理性が剥がれ落ちて行く。
「ん……どうしたの?」
心拍数が上がる。
あの時感じた悔しさと哀しさと孤独感から。
僕は目の前に現れたここにいるはずのない母の姿を、涙で溶けていく眼球で睨んでいた。
「ねえ、大丈夫?」
それでも母の幻影は自分が悲劇に翻弄された被害者であるという立場を崩さない。睨みつける僕にその影は泣き出したかと思うと、僕をなじるためにその口を開いた。
「ねぇ! しっかり!!」
イザドラの必死の形相が母の幻影を遮ったおかげで僕は我に返り、
「あ……」と滝の様に涙が溢れる目で情けない声を漏らした。
「……今日の分の薬はちゃんと飲んだの?」
「いや、まだ……。さっき貰ったばかりなんだ」
僕は震える声と共に、ついさっき医師から処方された薬をポシェットから取り出して見せた。
「そっか」
イザドラは真っ赤に充血しているであろう僕の目と薬の入った紙袋を同時に見てから、僕の肩にそっと手を添えた。
「今はどう?落ち着いた?」
「あー、うん。もう大丈夫。ごめん」
「いいよ謝んなくったって。私とあなたの仲じゃん……気にすんなって」
そう言ってイザドラが僕の背中に腕を回してくれたおかけで、僕は鼻をすすりながらも何とか笑みを返す事が出来た。
「両親から離れたくてカナダまで来たのに……上手く行かないもんだな」
一組の親子が楽しそうに犬の散歩をしているのを少し羨ましく眺めながら、僕はため息を吐いた。
「でもここに来たおかけで心の傷が深いってことが分かった様なもんじゃん。良い決断になったと思うよ」
「うん、まあ……そうだね」
彼女の意見に納得出来ないまま僕は調子を合わせた。
この国に来てから病気の症状が出始めたのはどう考えたって最悪の誤算である。その結果として日本に置いてきたはずの両親……特に母親の方をかえって近くに感じてしまっている。
広場の木々を活気づけるメープル達を絹の様な肌触りの秋の風が撫でて行く。
「来てくれてほんっと良かった……」
イザドラは何を思ったか、そう言って僕を見た。
「そう?なんだか要らぬ心配ばかりかけてる気がする」
「そんな事ないよ。これでも私、あなたが病気の事を話してくれた時は凄く嬉しかったんだから」
「へぇ何でまた」
「だって自分のデリケートな所を包み隠さず教えてくれた人ってあんまりいないから……本当の意味で心を開いてくれた気がしたの」
だからさ、とイザドラは続けて言った。
「もっと会って話しをしようよ。私に出来ることは事は少ないかもしれないけど、お母さんをみて苦しくなった時に……側にいるだけは出来るから」
優しさを湛えた友人の声に包まれた気がして、返す言葉が出なかった。
僕はこの気持ちを一生忘れることはないだろう。
◆
それからはもう母の影を見る事はなくなった。
薬の量も段々と減って来て、病気の症状も今ではあまり気にならない。
何日か経って、僕たちはまたあの小さな広場で会う事にした。
「お待たせ」
ベンチに座っている僕にロシア帽を頭に乗せたイザドラが手を上げて、こちらに歩いて来る。
「やあ、ドラ。久しぶり」
僕はベンチから立ち上がって彼女の方へと歩き出した。
僕はきっと、祖国の両親を受け入れる事も、許す事も出来ない。
それでも僕には過去の呪縛から救ってくれた仲間がいる。まずは僕がしっかりと立ち直って、いつか恩返ししなきゃと思う。
僕はもう過去の闇に呑み込まれない自信があった。
どんなに辛くて孤独に思える心境の中でも、人は必ず他の誰かの力を借りて生きているということに気づけたのだから。