あなたの声は聞こえません!
「本日も見惚れてしまう程の美しさでございますお嬢様。やはりお嬢様は青のドレスがお似合いになりますね」
「え?ごめんなさい、何か言った?」
「……いえ」
私は今日も、従者の褒め言葉に聞こえない振りをする。
嫌な奴だと思っただろう。だけどこっちは必死だ。必死なのだ。
褒めてもらったドレスの裾を握り締めて俯き、明日も青にしようなんてお花畑な思考を殴り飛ばした。沸騰しそうになる体温を宥めすかして、椅子に腰掛けてカップに口をつける。
最近体温のコントロール能力に磨きがかかった気がする。
彼のお世辞だって最初はお澄まし顔で聞き流していた。だが敵は次第に一言では飽きたらず、柔らかく微笑んで更に言葉を重ね始めたのだ。
私だってこんなお世辞を真に受けるものじゃないとは分かっている。だけど仕方ないじゃない。好きな人が此方に笑いかけて褒め言葉をくれたらドキドキするものでしょ。もしかしたら私の事が好きなのかしら、なんて期待するじゃない。
しかし笑顔を向けられるあのこそばゆい間はどうしようもなく耐え難い。
澄まし顔に代わる案として一度試したら、彼は言い直す事なく言葉を収めた。
以来聞こえていないように装っている。
こんなもの苦肉の策だと分かっている。いつまでもごまかせやしないだろう。
だけど次の有効な手を思いつくまでは、これを押し通すしかない。
私は何があっても、彼に心を奪われるわけにはいかないのだ。
*****
「どうなさったの?ぼうっとして」
「……ごめんなさい。あまりにいい天気だからつい」
ぼんやりしていたところを友人に指摘された。慌ててティーカップを睨みつける。
まったく。戻ってきなさい、私の心。
念じればすとんとあるべき場所に収まった心だけど、油断したらまたふらふらあの人のところへ行こうとする。ふん掴まえて取り留めもない会話に集中した。
あの従者も憎らしい事に、最近やけにキレイだの可愛いだの褒めちぎる回数が増えている。
たまにはこちらの心臓を休ませてほしい。
従者と言っても別に大きな身分差があるわけではない。
うちはここら一帯の地主で、彼は元々商家の息子だ。しかし彼の両親が事故で亡くなり、叔父夫婦に家を乗っ取られて扱いが悪くなってしまった。そこをかねてより故夫妻と親交のあった父が見かねて、使用人として雇い入れる形で家に招いたのである。
そして幼い私が彼を気に入り、従者として縛り付けた。
私が彼を好きになっても誰も咎めたりはしない。
それでもこの気持ちを自分のために抑え込む。
だってあの人に心を傾けたら、私は何も手につかなくなるんだもの。
一日中彼を想ってぼんやりして、知らぬ間に目で追ってしまうのだ。
一時期酷かった所為で、お母様から注意を受けた。挙げ句これ以上その状態が続くなら、従者を取り上げてお父様の下につかせるとも言うのだ。
従者は有能だ。もし一度でもお父様についたら、お父様が手放すわけがない。今だって虎視眈々と狙っている。絶対嫌よ。従者は私のものなんだから。
だから私は従者に心を奪われてはならない。
従者に相応しい主になるべく努力だってしたのに、呆気なく取り上げられてたまるものですか。
お茶会から帰宅して一息つく。
油断するとまた従者の姿が思考に割り込んでくる。まったくいい加減にしてくれないかしら。
従者も何故最近になってよくおだてるようになったのか。一体何を企んでいるのやら。最近はご機嫌とりをさせなきゃいけない程機嫌を悪くした覚えはないし。
ノックの音で我に返る。入室の許可を出すと、入ってきたのは従者だった。気合いを入れてお澄まし顔を作る。
「あら。おかえりなさい」
今日は休暇をあげている。
従者の両親の命日なのだ。一人ゆっくりしたいだろう。
それでも毎年帰宅すると、彼は私の顔を見に来ていた。
お仕着せに着替えているのを少しばかり残念に思う。彼の私服姿はあまり見かけない。
見たら見たでいつもと違う雰囲気で緊張するからこの方がいいんでしょうけれど。
私服姿の彼は、従者というより一人の男の人という感じなんだもの。罪深い人だと最近真面目に考えてしまう。
柔和に微笑んだ彼は、私に小箱を差し出した。受け取って開けてみる。
「ピアス?」
収まっていたのは、花を象った澄んだ空色の可愛らしいピアスだった。
「お嬢様を想うと、買わずにはいられませんでした」
唸れ。私の体温コントロール能力。
「あらそう。ありがとう」
正視するに耐えない優しい笑みからさり気なく視線を逃がす。間を持たせるためにピアスをつける事にした。
「お付けしましょうか?」
「え、ええ、そうね。あ、いえ、いいわ。自分でやるから」
ただでさえ平静を保つのに神経をすり減らしているのだ。この上触れられたらどうにかなってしまうじゃない。
従者は手鏡を持ってきてくれた。鏡を覗き込みながらピアスを付け替える。
なかなか似合っていると満足する。すると敵はその油断をきっちり衝いてくるのだ。
鏡を持つために膝を折っていた従者が、防ぎようのない位置から甘く微笑む。
「よくお似合いで愛らしいですよ、お嬢様」
「え?ごめんなさい、何?」
ちらりと目だけ動かせば、従者は笑みを淡くし、何でもないと答えた。私はそうとお澄まし顔をする。
内心狼狽えながらも、体温コントロールは完璧だ。指先ひとつ赤く染まらない。
聞いていない。私は何も聞いていない。聞いていないったら聞いていない。
強く言い聞かせて気を静める。
そして落ち着くと怖くなる。
彼は嫌な気分にはなっていないだろうか、と。
従者は私に一切負の感情を向けない。
幼い頃は従者に構ってほしいばかりによくかくれんぼをしていたけれど、その時だって彼は煩わしく思った節はなかった。
どこに隠れたって彼は私を見つけ出し、安堵を滲ませて微笑んだ。
――見つけましたよ。お嬢様
そう言って微笑む従者の腕の中に飛びつく事が、私は何よりも好きだった。
恋に落ちるのは自然な流れだったのだろう。
だけど彼にとってはただのお嬢様だ。妹くらいには可愛がってもらっている自覚はある。
でもだからって、何をしても許されるなんて考えるのは甘いわよね。
メイド達が姦しく話している。友人達も何かと話題に出す。
彼をどう射止めるか。
物腰が穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しい従者。
今はこんな小娘の従者に甘んじているけれど、遠からずお父様が引き抜いてしまうだろう。
人柄が良く将来性もある彼を、女豹達が狙わないわけがない。
「如何なさいましたか、お嬢様」
知らず知らずのうちに睨んでしまっていたようだ。
「何でもないわ」
この時間はいつまで続ける事が出来るのだろうか。
従者が婚約するのが先か、それともお父様が抜き取るのが先か。
考えるだけで溜息がもれる。
「あなたは一体どんな人と……」
結婚してしまうんでしょうね。
続くはずだった言葉は飲み込んだ。
*****
従者の見合い話が持ち上がったのは、聞こえない振りを始めてしばらく経ってからだった。
動揺する私が、その日まともに従者の顔を見る事など出来るはずもなかった。
お茶会中も上の空だし、カップの中身だってぶちまけてしまう。
友人や使用人達に心配されてバツの悪い思いをしたが、無意識のうちにやらかしてしまうのだから、私にはどうする事も出来なかった。
「お見合い、行くの?」
見合いの前日、就寝前になって初めて訊ねる。
本人に訊ねる勇気もなく、今日までずっともやもやを溜めていたのだ。
いつでもシーツを頭から被れる構えをとって答えを待った。
従者の返事は何でもない事のようだ。
「はい。叔父の持ち込んだ縁談ですから。叔父の顔を潰すわけにはいきません」
理解出来ない。
自然と口が尖った。
「あなたの叔父様は、あなたが継ぐはずだった家を乗っ取った挙げ句、あなたを無碍に扱ったのでしょう?顔を守るだけの価値があるの?」
家族ではなく使用人として扱った。それも給金もない完全なただ働きだ。
そんな男の顔なんて、泥を塗りたくってやればいいのに。泥団子の用意なら任せてほしい。
だけど彼は私の納得のいく答えを決してくれはしなかった。
「相手は得意先のお嬢さんです。会わずに蹴れば心象も悪いでしょう」
従者が苦笑する。
「確かに私は叔父が嫌いではあります。ですが両親が築いてきたものを壊すつもりもありません」
まったくこの男は。
やり切れない思いどうにかしたくて、シーツを頭から被る。しかしそうしたところで、抱えるこれを消すどころか隠す事もままならない。
「あなた、人が良すぎるわよ」
「買いかぶりすぎです」
嘘つき。
あなたを人がいいと言わないで、一体誰をそう言うの?
会話の拒絶を感じ取ったのだろう。
「おやすみなさいませ」
ランプの灯りがそっと消えた。
*****
従者が見合いから帰って来た。
裏門の見える窓に朝から貼り付いていた私の目が、頭から爪先まで綺麗に整えた、一人の男を捉える。
私の傍にいる時、いつだって彼はお仕着せだ。それが今はコートに高襟の白いシャツ。胸元は綺麗にタイが結ばれている。
髪型だって、前髪をきっちり後ろに撫でつけている普段とは違うものだ。仕事中のお堅い空気はなく、触れたら酔いかねない色気を醸し出している。
私の前では絶対見せてくれない一面だ。見ようと思ったらこうして盗み見るしかないのである。
憮然としながらも、言わずもがな彼から目が離せなかった。
そそぐ視線が熱かったのだろうか。彼が不意に顔を上げた。首を巡らす事もなく的確に私を認めたため、思わず仰け反る。見つかったかな。
この後私の元に来るのかもしれない。彼は休日でも一度は私の顔を見にくる。
見合いの結果は気になる。だけど同時に知りたくないと怯えてしまう。
彼と顔を合わす勇気がなかった。
だから久しぶりに逃げ出した。
使用人の目を盗んで屋敷裏の植え込みの影に身を潜めた。ドレスが汚れるのもお構いなしだ。
そこには建物の影がかかっており、暗くひんやりとしている。窓には時折使用人の姿が映るが、みんなこちらに気付く気配がない。
こういう場所も嫌いじゃない。
まるで自分が影の一部になってしまったような時間も、嫌いじゃない。
だけど居心地の良さを感じる一方で、私は確かに相反する願望を抱いていた。
「見つけましたよ、お嬢様」
安堵と共にかけられる声。微笑みながら差し伸べられる手。
やっぱり思うのだ。
その手も、向けられる笑顔も、私は手放したくないのだと。
従者は見合いを断ったようだ。
だけどこの先、彼にはたくさん縁談が舞い込むだろう。叔父からだけではなく、お父様からも。
お父様に頼んだら、もしかしたら従者と結婚をさせてくれるかもしれない。彼はお父様に恩を感じているから、余程愛している人がいない限り断らない可能性が高い。
だけどそうやって無理に縛り付けて、彼の気持ちはどうなるのだろう。
結婚しても優しいままだと思う。彼はそういう人だ。
そう確信が持てる一方で、結婚した後にもし心から愛する人が現れた時の態度の変化は想像がつかなかった。
愛し合える人が出来てしまったら、私を見てくれるのだろうか。
傍にいてくれるのだろうか。
互いに愛人のいる夫婦の話なんていくらでも舞い込んでくる。それを聞いてなお友人のように夢を見ていられる程私も純粋ではない。
分かっているのだ。いずれは主と従者という泡のように儚い関係性が消えてしまう事くらい。
だけど往生際悪く、どうしたらずっと傍に繋ぎ止めておけるのか考えてしまう。
ねえ、従者。
見合いを終えた翌日でも、いつもと変わらない従者を振り返る。
彼の瞳は細められ、静かに私の命令を待っていた。
「いつまでも私の傍にいてくれる?」
従者は微笑む。
初めて顔を合わせた時のように。
従順で、真面目で、そしてどこか可愛らしい、優しい笑みで。
「お嬢様が望むなら」
嘘つき。
心の中で詰る。
定型句だと分かりきっている。
それに私が望むのは、主従の関係ではない。
他の誰かと結婚しないで。
上とか下じゃなくて、ずっと隣にいて。
恋心を自覚したその時から、欲は膨らむ一方だ。
浅ましいと思う。
少し前まであったはずの、花が舞うようなふわふわとした感情なんて単なる幻想だった。
どうすれば隣を手に入れられるのだろう。
彼の心まで手に入れるには、何をしたらいいのだろう。
ただの『お嬢様』から脱却する方法は、何だろうか。
聞こえない振りをやめて、形振り構わずに突撃すればいいのだろうか。
そうよね。いつまでも逃げてはいられないわ。
どうせなら上手く立ち回りたいわよね。心を奪われずお母様の厳しい目をかいくぐってお父様に従者を取られない方法は、何かないかしら。
これは今までにない一大プロジェクトになりそうだわ。
俄然燃えてきた私は、従者が何か言った事に気付くのが遅れた。
「ごめんなさい。何か言った?」
今のは本当に聞き逃した。
「……そうですか」
繰り返さないのなら、きっと褒め言葉だったのだろう。
早速催促しようとしたのにそう出来なかった。
従者がにっこりと微笑むのだ。
「お嬢様がそのおつもりなら」
え?なに?なに?
自分の顔が引きつっていく。よく分からないけどこの笑顔怖い。
正面に従者が立つ。わけが分からぬまま身構えた私に覆い被さるように、彼は肘掛けに手を置いた。間近に迫った顔は一見穏やかにも拘わらず、瞳に隙はない。
彼はそのまま首を傾け、私の耳に唇を寄せる。息がかかった。
「お嬢様。ずっとお慕いしておりました。立派な淑女であられようとする姿も、恥ずかしがって聞こえない振りをするところも、全てを愛おしく思います」
囁かれた告白に、驚きすぎて声も出ない。
何を思ったのか、従者はこのうえ更にどこが可愛いだなんだと続けてくる。それこそ私が今まで聞こえない振りをしてきた褒め言葉を全て詰め込んでいるのではないかと思える程に。
甘ったるい言葉の数々を呆然と聞き流していられたのはほんの少しの間だけ。
完璧な体温コントロールが、耳を擽る吐息で錆びたように崩壊していく。
熱が体中に広まり、思考を鈍らせ必死に捲っていた対応マニュアルを溶かしていく。
「お嬢様」
耳に馴染んだはずのそれは、今ばかりは恋人へ向けた甘い響きを伴っていた。
限界だ。
「お願いもう許して!!」
「聞こえましたか?」
恥ずかしさで潤んだ視界に捉えた従者は、眼差しをとろけさせて笑んでいた。
end
従者の仕えるお嬢様は、幼い頃はとてもおてんばだった。
従者の目をかいくぐっては家庭教師の授業から逃げ出すために、かくれんぼが日常業務に含まれる程だった。
度重なるその行動は目に余り、奥様に叱られてしまった。
従者といっても実際はお目付役だ。毎回逃げられていてはただの怠慢である。
従者は苦言を甘んじて受け入れた。
かくれんぼを楽しんでいたけれど、そろそろやめなければならない。
――見つかっちゃった
そう鈴を転がすように笑うお嬢様の時間を壊してやりたくはないけれど。
従者は嘆息してお嬢様の部屋の扉を叩いた。
中から突然開かれる。
飛び出してきたお嬢様は、はらはらと泣きながら従者に抱き付いた。
「ごめんなさい。私、これからは立派な淑女になるように沢山勉強するわ。それならあなたも怒られずに済むでしょう?」
宣言通り、お嬢様は家庭教師の授業から逃げなくなった。我儘で困らせる事もなくなった。
それは本来ならばとても喜ばしい事なのだろう。しかし褒め称える周囲に口先で同意しながらも、従者は内心苦くも思っていた。
まだ子供でいてほしいという密かな願いが、己自身によって真逆の方向に加速してしまったのだから。
無理はしないでほしい。
本心を取り繕って告げる。
お嬢様は額面通りに受け取り「無理はしていない」と答えた。
「ねえ。あなたに相応しい主になるために頑張るから。だからずっと私の従者でいてね」
愛らしい顔が朗らかに笑った。
自分のために努力しようとする少女を、どうして愛おしく思わずにいられるだろうか。
年々美しく成長していくお嬢様は、次第に従者の目を奪う回数を増やしていった。
それに合わせて心まで奪おうとする。
役職は従者だが立場が低いわけではない。幸いにして屋敷の主人にも気に入られている。手を伸ばさない理由はなかった。
以前からあった旦那様の打診に、交換条件を持ちかける。旦那様は想定していたように了承した。
ようやくか。
そう笑ったのだから、従者の気持ちなんてお見通しだったのだろう。
お嬢様付きの侍女を雇い引き継ぎが終われば、従者は従者ではなくなる。
代わりに一人の男として彼女の前に立てるのだ。
何やら考え込む大切なお嬢様に、従者は聞こえない振りをされる事を見越しながら口にした。
「お嬢様。私を傍に置きたいのは子供の独占欲ですか?それとも――」
案の定聞こえない振りをされた。いや、今回ばかりは本当に聞いていなかったのかもしれない。
しかしそれは重要な事ではない。
従者は微笑み、お嬢様の耳に唇を寄せた。
そして大切な彼女に、愛を囁く。