邂逅日和
『
枝垂れ彼顔
枝垂れては咲き
枝垂れては咲き
空を見上げる力なんて
最初から私にはなかった
いつも足元ばかり見えていた
とても遠い、私の足元
いつも見ていた
いつも変わらず
突然あなたは寄りかかった
私になんて気が付かないで
「美しい」
私になんて気が付かないで
とても遠い、私の足元で
上を向くことが正しいなんて
上を向くことが良いことなんて
枝垂れては咲き
枝垂れては咲き
言わないでほしい
気が付かなくていい
私はあなたと顔を合わせていたいの
』
次の日も、昼休みは図書室で、携帯の予測変換を打ち込んでいくように、滞りなく過ごし終えた。
そして、いつものように文芸部の掲示板の前で足を止める。
……そういえば、昨日は「いつもはゆっくり歩いて教室に向かうけど今日は違う」みたいなことを自分に思考させていた気がするが、それは多分嘘だ。同じ作品を読むために毎日毎日この場所で足を止めていることを何となく「恥ずかしい」と感じている僕が自分に吐いた嘘だ。本当に、呆れるくらい嘘吐きだ。僕はもう何ヶ月も前から、こうして誰かの綴った詩を読みに来ているはずなのに、それを「今日はたまたま目に付いたから読んでるだけ」なんて、自分に言い聞かせてどうしたいのだろう。何か意味があるなら訊いてみたいところだ。こんな僕に、友達なんてものがいなくて心底よかったと思う。誰とも触れ合わなければ、僕は自分以外を騙すことなんてないし、嘘がばれて人間関係がもつれることもない。僕は、嫌われるのは好きじゃないんだ。
掲示板の詩は昨日と何も変わってはいない。だけど、読んでいる僕は昨日と違う。
昨日思ったことを今日は思わないかもしれないし、昨日感じなかったことを今日は感じるかもしれない。見え方は、見る場所に依存する。僕の信心情が立ち位置を変えれば、目の前の詩は、僕にとって、とても大切なモノになるかもしれないし、取るに足らないモノになるかもしれない。
ただ、どう感じたとしても、一度好感を持ってしまったという視界の濁りは、そう簡単になくなるものではなく。僕は、次も自分が気に入るのではないかと期待して待ってしまう。
その期待は、やっぱりはずれるときもあるけれど。僕の脳には、誰かの詩を好きになりたい自分が居候の様に借り住まいしていて、何回も読んで、いいところを探したり、いろんな状況で思い浮かべて、そうして好きになっていくことに熱を注げた。
気付けば、誰かの詩が僕の思考室の真ん中を陣取っているし、生活のサイクルに食い込んできている。
多分、高校に入学して、初めてこの詩に出会った時から、僕はどこにも進んではいないのだろう。ずっと同じ部屋の中に居る。けど、何かが変わって来ているような気がする、少なくとも、今は昔ほど冷めていない。僕の感情は冷めていない……まあ、昔に比べれば、という話で、他の人に比べれば、暖かみなんてものは、ニアリーイコール零と表記されてしまう位なのだろうけど。
実際に、この誰かがどんなに綺麗な文章を書いたとしても、その僕は誰かを綺麗な人間だなんて、信用はできないし。その詩に書かれた言葉が正しいとも信じられない。誰かは、心にもないことを書いたかもしれないし、どこかから盗んできた文章を掲載しているかもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。そういう可能性を探してしまうのは僕の性で、そういう可能性を見つけだしてしまうのが僕のクオリティだ。ヒトを信じない理由なんて、世界には空気よりも充満している。息を吸えばヒトを疑い、息を吐けばヒトを疑い。だから信じない。信じていない。誰かの綴った詩も、誰か自身も。
信用もない。信頼もしない。
ただ、好きになった。
それだけの話。




