run・run・run・run
『
変わらない仮面
仮面を外しても
景色はなにも変わらなかった
いつもと同じ
道路があって
木があって
ヒトがいて
猫がいて
車が走って
雲が流れて
目に映るものは何も変わらなかった
たった一つ変わったのは
仮面の中の君の表情です
』
拳が痛い。
「はぁ、はぁ」
興奮で息が上がる。
遅れ馳せながら、不安が押し寄せ、自分の胸元を両手で隠すように身を抱いた。
この男は今なにをした。
自分の胸元と、うつ伏して倒れる男を何度も何度も何度も何度も交互に見て思考を整理する。
もまれた。むねを。もまれた。モマレタ。
「ば、ばっかじゃないの」
頭を整理したつもりでも、幼稚な暴言しか出てこなかった。
「なんで、どこをどうしたら今の流れでそうなるの。馬鹿でしょ。ねえ聞いてるの」
人間不信は起き上がって来ない。
そんなに痛かったのだろうか。
「もう、君の相手なんかしてる場合じゃないんだから」
人間不信は、こちらの言葉に反応せず、うずくまっている。そんな彼の姿を見て、少しづつ感情が落ち着いて来た。
「いつまでそうしている気なの。何か言いなさいよ」
何度文句を浴びせかけても、彼は返事を返して来なかった。
というか、まったく動かない。
「ちょっと」
少し落ち着いた心臓が、さっきまでとは違う揺らぎ方を始める。
あたしは格闘技をやっていた経験なんてないが、人体の中心に急所が集まっているという話は聞いたことがある。確か、顔にもあったはずだ。
ざわざわ。
ざわざわ。
何人か通行人が足を止め始めた。
「ひ、ヒトが集まってきちゃうでしょ。早く起きなさいよ」
不安と焦りに嫌悪が負けて、人間不信へ歩み寄り揺り起そうとする。
しかし、いくら揺さぶっても、彼の四肢が力なく動くだけだった。
当たり所が悪かった……それとも、倒れた時にどこか打ったのか。
どう見ても、人間不信に意識はない。
誰かが見ている。
足を止め。
また足を止め。
誰かと誰かと誰かと誰かと誰かと誰かと誰かと誰かと……誰かがあたしを見ている。
あたしが彼を殴ったのを見ていた。
「死んでる」
誰かが囁いた。
「え、うそ」
「だって動いてないじゃん」
「ほんとに」
「あの女がさっき」
「殴ってたの見たよ」
「なになに喧嘩」
「警察呼ぼうぜ」
「救急車じゃね」
「どっちだよ」
「どっちも呼んどけ」
「なんかこれ」
「やばくね」
やばいよ。
誰かの声が聞こえるたびに、内臓が締めあげられて行くように、あたしの胆が小さくなる。
なんで動いてくれないの。あたしに格闘技の才能があって今開花しちゃったとか。馬鹿、そんなわけあるか。
あたしがやったの。
「ねぇ。起きてよ」
ど、どうしたら。
「ねぇ……」
寒い。汗が止まらない。
本当に死んだの。
どうしよう。
冷静なあたしは、どこにもいなかった。
目の周りが熱くなってきた。
揺すっても、揺すっても。
遠くからパトカーの音が聞こえてくる気がした。
うなだれて、少しでも落ち着くために目をつむる。時間が戻るなら戻してほしい。どうすればいいのか分からない。誰か、助けて。どうすればいいの。どうすれば、元に戻るの。
どうしよう。
どんなに不安に襲われても、誰も手を差し伸べてはくれない。
遠くから、関係ない位置から囁くだけ。
なんで、こんなことに。
恐い。
「やっちゃっ、た……」
心の中はそんな色で満ち満ちていた。
「そして、人間不信が目覚めることは二度となかった」
「……は」
顔を上げると、目を開いてこちらを見る人間不信が寝そべっている。
「どうして泣いているんだい」
「な、なんで……」
不覚にも、彼の顔を見、胸の内で安心が蕾を広げてしまった。
「なんでって、知らないのか。今じゃ熊の前でやっても意味がないという説の方が通説となってしまった死んだふりだよ」
まさかここまで見事に騙されてくれるとは思わなかったけれど、と笑いながら言う。
平然と、自分が何も悪いことなんてしていないかのように。
「ふざけないでよ」
なんで、こんなこと。
「まあ――」
「おい君たち」
人間不信が何か言おうとしたところで。警官があらわれた。
「おい」
目の前の少年は立ち上がり、あたしを見降ろす。
「なによ」
「走れ」
言うと。
あたしの腕を強引に引いて人間不信は駆け出し、集まっていた人垣に突っ込んで突き抜けて突っ走る。
「ちょっと待て。おい」
後ろの方から警官が叫びながら追いかけてきている気がする。
「ねえ」
人間不信の背中に叫びかける。
「まずいよ、これは」
「破壊衝動……いや、龍首小太刀」
「な、なんでその名前」
「落ちてた原稿に書いてあった」
またしても不覚だ、投稿用のペンネームとはいえ、個人情報をばら撒いてしまった。風でどこかに飛ばされて朽ちることを祈ろう。
走りながら、人間不信な少年が叫ぶ。
「ヒトを傷つけるのは恐いだろう」
彼は言っていた。「じゃあ教えてあげるよ。やってしまった時の感情を」と。
「うん」
「だったら君はもう、ヒトを傷つけたくなんかならないよ」
こうして誰かと走る世界は気持ちがよかった。
確かにあたしは、今何かを壊したいとも、誰かを傷つけたいとも思っていない。
警察に追われて、彼に騙されて、これだけ心臓が縦横無尽な程に弾んでいるのに。あたしの中の衝動は、どこにも向かっていく気配がない。
この手は少し汚れたけど。
「あはは」
「どうしたんだい」
「なんだか、気持ちが良いの」
いつ振りだろう、何も恐れない様に全速力で走るのなんて。いつからあたしは自分におびえて徐行運転で生きて来たのだろう。
今、あたしの足は。
大衆的なラヴソングも。
戦争で作る世界平和も。
仲良しごっこのネバーランドも。
全部全部蹴散らして進んでいける気がしてる。
「よかったじゃないか」
よかった。
「馬鹿なこと言わないで、最悪だよ」
「おや。何が不満か。龍首小太刀」
彼はもう、あたしのことを『破壊衝動』と呼ぶ気はないらしい。
「君があたしを助けたりするから、あたしは君を助けなきゃいけないみたいになっちゃったじゃん。人間不信」
しかしあたしは、彼をまだ『人間不信』と呼ぶ。
「勝手にすればいいさ。僕は君の言葉なんて信じていないから」
平気な顔でそんなことを言っているのか、前を走るその表情はこちらには見えない。
それでも彼は、『人生罪戯』に巡り合ったひとりだ。彼は、自分の人間不信を罪だと、そして、なくしたいと、思っているはず。ならばあたしは、彼のことも救いたい。
「わかったよ」
コンクリートを踏み砕くように。
「あたしの詩で、人間不信を許してあげる」
誰にも許されないから罪はなくならないんだ。
だったらあたしは、君を許す詩を詠おう。
君が自分を、許せる詩を。