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黒薔薇狂詩曲  作者: 楠瑞稀
第一部 邂逅編
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09 夜の帳がもたらすもの



 ――昔、いつになれば自分にも父親ができるのかと美登里さんに尋ねたことがあった。


 たぶんそれはあたしがまだ幼稚園にでも通っていた頃のこと。

 他所の子には運動会やお遊戯会のたびに見に来てくれる父親がいるのに、自分には母親一人しかいない。それがとっても不満だった。


 見かけはかなり幼い彼女だけれども、それでも美登里さんはまだ小さなあたしに口先だけの誤魔化しはしなかった。

 みすずちゃんのお父さんはね、みすずちゃんがもっと小さかったときに天国に行ってしまったのよ。

 まだ『死』という概念がよく理解できていなかったあたしに、美登里さんは懇切丁寧に、父親にはもはや会うことができないこと。そして命の尊さを説いてくれた。


 だけれども、その説明ではあたしの疑問は解決しなかった。

 むしろ自分にもかつて父親がいたという事実のほうが、あたしにとっては納得できないことだったのだ。


 あたしの記憶の中に父の姿はない。

 それどころか家には写真はおろか父の遺品すらない。

 証となるものが一つとしてないことが、あたしが父親の存在に実感を持てない原因だったのだろう。


 どうしてこの家には父を偲ぶものが何一つ残っていないのかと。それから数年後、あたしはもう一度美登里さんに訊ねてみた。


 みすずちゃんのお父さんは、写真を撮られるのが苦手だったのよ。


 母はあっさりと答えた。


 しかしこの歳になればさすがに、それだけの理由でこうも見事に痕跡が失われてしまうとは信じられない。戸惑うあたしに美登里さんは困ったように、しかし優しい声で説明をした。


 お父さんはね、死ぬ前に自分のいた跡を残しておかないで欲しい、ってお母さんに頼んでいたのよ。

 淋しいだろうけど、それがお母さんとみすずちゃんの為だからって。

 それがどういう事なのかはお母さんには分からなかったけれど、大好きなお父さんの頼み事だもの。言うとおりにしてあげたのよ。


 だから、と彼女は微笑んだ。


 目に見える形ではお父さんのいた証拠は残っていないけれど、お母さんの心の中にはお父さんの思い出がいっぱい詰まっているの。

 みすずちゃんにはお父さんの思い出はないかも知れないけれど、その分お母さんがいっぱいいっぱいお父さんのお話をしてあげるから、二人でお父さんのことを覚えていようね。


 ずっとずっと覚えていようね……、



 

      ◇  ◇  ◇



 

 重い瞼を持ち上げると、そこは薄暗い部屋の中だった。

 小さな窓から忍び込む月明かりがうっすらと部屋の輪郭を浮かび上がらせる。砕けたタイルに混じって姿見の破片が冷たい光を弾いていた。


「ふん、ようやく目覚めたか」


 びっくりするほど間近で声が聞こえて、あたしはぎょっと身を起こす。

 自分がルードヴィッヒの胸にもたれ掛かるようにして眠っていたことに気付いたからだ。

 だけどそうした途端、こんどは肩に焼け付くような痛みを感じて思わず身体を二つに折った。


「い、痛った~……」


 ぼろぼろと涙が溢れてくる。それくらい冗談じゃない痛みだ。


「愚か者め」


 だけどそんなあたしにも容赦なく、ルードヴィッヒは冷たい声を投げつける。


「あの程度の攻撃ならば、余にはなんでも無い。まったく、余計な事をしおって」

「う、うるさいわね、あたしだって別にしようと思ってしたんじゃないわよ。勝手に身体が動いちゃったんだから、しょうがないでしょう」


 別に感謝されたくてしたことではない。

 助けようという明確な意思があったのでもなく、何が起こるか正しく理解していた訳ですらない。まさにとっさの判断というやつだ。

 もっとも――、


「しかし下僕が主人の為に尽くすのは当然の行為だからな。その点においては褒めてやろう。きさまもようやくにして下僕としての自覚がでてきたか」


 ――やっぱりこいつを助けてしまったことは、あたしの一生の不覚だ。


 ふふん、と偉そうに笑う吸血鬼を前にしていると今頃になって、どうしてこんな奴を庇ってしまったのだろうかと、海よりも深い後悔がひしひしと湧き上がってくる。


「だから誰が下僕よっ。あたしは別に最初っから、そんな自覚持ちたいとも思ってないわよ。あんたこそ感謝のひとつやふたつ――って、あれ?」


 とんでもない妄言を全力で否定していた時、あたしは自分の腕がやけに肌寒いことに気が付いた。

 見れば服の袖は肩口からばっさりと切り落とされており、その布はどうやら包帯代わりに肩に巻かれているようだ。

 あたしはぎょっとして彼を見る。


「これ……、」


 唖然としながら訊ねると、ルードヴィッヒはこれ以上無いと断言できるぐらい尊大な態度で鼻を鳴らして言った。


「礼はきさまが述べるべきだな。まったく、主の手を煩わせおって、下僕は感激のあまりむせび泣くが良い」

「別に泣いたりはしないけど、とりあえず……ありがとう」


 正直なところ、まさか彼が手当てなんかをしてくれるような殊勝な人物だとはこれっぽっちも思っていなかったため、感謝よりもむしろ驚きが先に立つ。

 それでも素直にお礼を言うと、ルードヴィッヒはどうしてだかむっつりとした顔でいきなりそっぽを向いた。


「ならば、余の慈悲深さに改めて感服するが良い」

「……いくらなんでも慈悲深いは言い過ぎじゃないの?」


 相変わらず傲慢な態度に呆れつつも、あたしは肩に負担がかからないようきょろきょろと周囲を見回した。


「ここ、まだ別荘の中よね?」


 割れた鏡に蜘蛛の巣のカーテン。部屋の内装も薄汚れ加減も、先程まで居た別荘とまるで変わらない。窓から見える外の様子をうかがうに、たぶん二階にある部屋のうち一室だろう。


「どこぞの下僕が足手まといだったせいでな」

「だからそこは悪かったってば」


 どこまでも嫌味ったらしいルードヴィッヒの言葉にむっとしながらも、あたしはそっと窓の外を確かめた。

 たぶん淳哉と昭仁はまだ諦めていないだろう。

 それなりに広い別荘とはいえ、もし本気で探そうとしたならばそう時をおかず見つかってしまうに違いない。

 身動きするたび引き攣るように痛む肩に触れながら、あたしはやれやれとため息をついた。


「……まったく。どうしてあたしが、こんな目に合わなくちゃいけないのかしらね」


 何かの因果でこんな目に合わされているのだとしても、これではよっぽど酷いことをしでかしたとしか考えられない。

 これまでの十数年間を振り返ってみてもごくごくあたりまえの人生しか歩んでいないし、今回だって単に押し付けられた別荘を見に来たと言うそれだけのこと。

 ならば果たして、自分のいったいどこが悪かったのだと――、


「……」


 あたしはふいに押し黙って、おもむろに深くうなだれた。

 窓硝子を通して差し込む月の光はさながら真冬の霜を思わせる。梢のざわめきと浮かれ烏の鳴く声以外、ここには何の音も無い。


「……ねぇ、もしかしたらあなたも気になるかしら?」


 何の前振りもなく尋ねたあたしに、ルードヴィッヒは怪訝そうな顔を向けた。あたしは薄汚れた床に視線を落としてぽつりと呟く。


「あたしが、父の死の真相を知ってもショックを受けていない理由よ」


(――あんた、自分の親父さんが殺されたと分かったのに随分冷静だね)


 淳哉の言葉が耳の奥でよみがえる。

 あの時はどうしても答えることができなかった。けれど――、


 あたしはルードヴィッヒに視線を向ける。人間離れした美貌の吸血鬼は陰鬱そうな冷たい瞳であたしを静かに見据えていた。

 同属である彼らには言えなくても、

 人ではないルードヴィッヒにだったら言えるかも知れない。

 たぶんこの気持ちを告げられるとしたら、それは今この場をおいて他にないだろう。

 あたしは決心を固めると、胸の内で重く凝る本当の気持ちを思い切って舌に乗せた。


「あたしね、父が殺されたと知っても――本当に何とも感じないの」




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