08 異能の一族
それまであたしたちがいた場所を、燃え盛る真っ赤な炎が踊っている。
「な、何なのよ、これはいったい――っ!?」
震える唇が、どうにか悲鳴じみた言葉を紡ぎだす。
いま目の前で繰り広げられている光景を、あたしはどうにも信じることができなかった。
いや、だってこれはもう仕方がない。
何しろ受け入れてしまうには、あまりにも現実味に欠けすぎている。
ルードヴィッヒはあたしを抱えたまま、重力を無視した身軽さで床を蹴り、壁を蹴り玄関ホールを飛び回る。そんなあたしたちを追いかけるように足元でいくつも炎が大輪の花を咲かせた。
もっとも炎は必要以上に燃え広がることはない。
獲物を捕らえ損ねた炎はすぐさま花が萎んでいくように自ら消えてしまうため、家具や天井、別荘そのものを焼き尽くすことはなかった。
それでもこんな大量の炎は映画やテレビ以外では見たことが無いし、だいたい勝手に現れたり消えたりする火なんて非常識以外のなにものでもないだろう。
「ちょ、ちょっとやめてよね……」
あたしの脳が現実離れしたこの光景について行けず、手っ取り早くブラックアウト――意識を手離そうとする。
逃避しようとする心をかろうじて現実に繋ぎ止めているのは、あたしを抱きかかえるルードヴィッヒの腕の力強さと、「気を失ったら炎の中に投げ捨てるぞ」という情け容赦ない言葉だった。
「四ノ宮という名はね、本来四つの能力のことを意味しているんだ」
炎から逃げ回るあたしたちを見ながら、淳哉はまるで謳うように楽しげな声を掛けてくる。
「幻術、炎術、使役、予見――四ノ宮の血統に生まれた者は、多かれ少なかれこのどれかの能力を持っているんだ。これは烏有創玄という、陰陽師だった先祖の力を受け継いでいるからと言われているね」
「陰陽師って……」
時代錯誤なその名称に、あたしがすかさず胡散臭そうな顔をしたのに気付いたのだろう。淳哉はとたんに不服そうに眉尻を下げた。
「現実に吸血鬼なんてもんがそこにいるんだぜ。たかだか陰陽師の存在くらい広い心で受け入れなくっちゃ」
彼は楽しそうにあたしたちに指先を向けて、言った。
「ちなみに俺の力は炎術。『発火能力』だ」
ぼん、と直前まであたしたちがいた場所に盛大に焔の華がひらく。
そんなこと言われないでも分かるってば、と思ったけれどさすがに自慢げに言うだけあって淳哉の能力はすさまじかった。
人ではないはずのルードヴィッヒでさえ、ただ逃げ回るのに精一杯であるように見える。
だけどこのまま逃げ惑っていても仕方がない。
あたしは怖気づきそうになる自分を叱咤して、あえて猛々しく二人を怒鳴りつけた。
「待ちなさいよっ。攻撃する前に、どうしてあたしを連れて行こうとするのか、その理由くらい教えてくれたって良いんじゃないの!?」
やぶれかぶれの質問だったけれど、それでも彼らはそれをもっともだと思ってくれたのだろう。攻撃の手がぴたりと止んだ。
「俺たちはずっとあんたを探していたんだ」
「あたし?」
ほっと息を吐くのも束の間。あたしは思わず首を傾げた。
これまで至極平凡に生きていたこのあたしに、陰陽師の末裔なんかがいったい何の用があると言うのだろう。
「あたしじゃなきゃいけない理由があるの?」
そうじゃなければぜひとも辞退したいところなのだけど。
迷惑そうに顔を引きつらせてみるも、淳哉は余計面白がるような表情で答えた。
「そう、あんたでなきゃいけない。だってあんたは怜一さんの娘だろう。あんたの父親――四ノ宮怜一はね、一族では唯一の直系男子。要するに四ノ宮本家の跡取りだったのさ」
「……っ!」
あたしは反射的に息を呑んだ。
確かにあたしの苗字『片瀬』は母の家の名。
そして死んだ父の名が『怜一』であることも知っている。
だけど迂闊なことに、父もまた彼らと同じ『四ノ宮』かも知れないだなんてあたしの念頭にはなかったし、跡取りという話にいたってはまったく想像の範疇外だ。
言葉もないあたしを嘲笑うかのように、淳哉はさらにふふっと声を立てる。
「彼は血筋も能力も申し分のない由緒正しき後継者だったよ。だけど何を不満に思ったのか、あの人はある日突然四ノ宮家を出て、それきり行方知れずになってしまったのさ。当時はもう一族じゅう上に下への大騒ぎだ」
淳哉はおかしそうに笑っているけれど、しかしあたしには何がそんなに可笑しいのかが分からない。
だいたいまともに考えれば戦国の世ならいざ知らず、現代の日本でたかが跡継ぎの問題にそんな大騒ぎをするものなのだろうか。
そんなに一族が大事ならば、どこかから養子を取るなり家督を譲るなり、いくらでも方法があるだろう。
そう考えるあたしの心を読んだように、淳哉は低く笑って肩をすくめた。
「忘れたかい? 所詮俺らは異能の一族だ。力の強弱でしか己の価値を測れず、古い因習で自らを縛らなければ怖くて世にも出られない。そんな臆病者の集まりなのさ」
理解できずにいるあたしを置き去りにして、これまで黙って聞いていた昭仁も平然と話を引き継ぐ。
「逆にだからこそその血が直系か否かは、一族においては重要な意味を持っている。そもそも『《常盤闇の鬼神》が主となれしは、本家筋の人間のみ』と決まっているからな。それだけに直系の血には計り知れない価値がある」
明と暗。声音の調子は違えど、二人の声は紛れもなく本気だった。
「だから一族はそりゃあ懸命に怜一さんの居場所を探したよ。そしてとうとう身柄を押さえた時、なんと彼にはすでに子供がいることが判明したのさ」
「本家筋を手中に収めれば、それは一族全体を掌握するに等しい。だから皆どうにかして子どもの所在を確かめようと試みたが、結局奴は死んでもその居場所を教えようとしなかった」
淳哉と昭仁は、淡々と交互に話を続ける。
「お陰で見つけるまでに、結局十年以上の月日がかかってしまったという訳さ」
あっけらかんとそう言った淳哉は、しかしその口調に比べるといささか鋭すぎる眼差しをあたしに向けてきた。
「そういう訳で、あんたにはどうしたって俺らといっしょに来てもらうぜ。あんたは今となっては唯一の直系だ。あんたを手に入れれば俺らは一族の中でも高い地位を得ることができるんだよ」
そこには一片の容赦もない。
あまりにも強いその視線にあたしはごくりと息を呑んだ。
「……一応聞くけど。そこに、あたしの意志が入る隙はないの?」
「悪いけど今の所は問答無用だな。長い時間をかけて得た千載一遇のチャンスなんだ。逃すつもりはさらさらないね」
淳哉はにやりと笑う。
まるで取り付く島もない返事にあたしはがくりとうなだれた。それは傍目には、絶望に駆られた少女が力なく肩を落としたように見えただろう。
――だけど冗談じゃない。
顔の陰であたしはぎりりと唇を噛む。理不尽極まりない彼らの言葉に、この時あたしははらわたが煮えくり返るかと思えるくらい怒り猛っていたのだ。
(いくら温厚なあたしとは言え、さすがに怒りのボルテージが振り切れそうよ)
これ以上こいつらを冗長させてなるものか。こうなれば一発がつんと言ってやらなきゃ気が済まない。
あたしはきっと視線を上げると、なるべく辛らつな言葉を捜そうと頭を働かせる。
しかし――、
「……あれ」
ふいに思考が凍りついた。
「ちょ、ちょっと待って」
果たして何を待つのか分からぬまま、それでもあたしは慌てたように相手に向かって掌を向けた。
「ん? どうしたの」
淳哉が面白そうに声を掛けて来るけどそれは無視する。
あたしはここでようやく、自分が迂闊にも聞き逃しかねなかった重大な一言に気が付いたのだ。
「父は死んでも、あたしの居場所を教えなかったですって……?」
あまりに突拍子もない考えだと分かっていたけど、どうしてもそれを打ち消すことはできなった。
あたしは愕然とした顔でふたりを見つめる。
「もしかすると、あなたたちがあたしのお父さんを――殺したの?」
この時あたしの耳には、自分の声があまりにも空々しく響いていた。
◇ ◇ ◇
父が死んだのは、あたしが生まれて二年にもならないうちだった。
だからもちろんその当時のことについては、あたしはまったく記憶に無い。だいたい生まれたばかりの乳飲み子に、そんなことを期待する方が間違っているだろう。
ともかくあたしは父を直接には知らないため、死別した片親に関しては母の口から聞いたことがすべてだった。
それゆえにあたしは母の言葉――父は事故で亡くなったのだということを、今までずっと信じていたのだ。
美登里さんはあたしに考慮してあえて事実を伏せていたのか。
( ――いや、違う)
あたしは頭の中で冷静にその考えを否定した。
ああ見えて彼女は芯の通った真っ直ぐな人だ。子どもに対してもつまらない誤魔化しなどしない。
それがどんなに辛い現実であっても、問われればきちんとすべてを話してくれただろう。
(では、いったいどこで情報が食い違っている?)
あたしは自分と対峙する二人の青年を真正面から見据えた。
彼らはいったい何者だ。
そう、彼らは――、
「……そうよね。不思議な力を持つあなた達の一族ならば、事故に見せかけて殺す事だって不可能ではないはずよね」
「むろん」
断言するあたしに、昭仁ははっきりとうなずいて見せた。
「君が考えていることはおおよそにおいて正解に近い。我々が直接手を下した訳ではないけれど、四ノ宮という一族が後継者を殺したのは紛れもない事実だ」
それは人の死を語っているとは思えないほどあっさりとした態度で、同じように淳哉も肯定する。
「もっとも、そこには不可抗力だったと一言付け加えてもらいたいけれどね」
そう。
彼らはあやしの術を操る異端の一族だ。
いちおう殺すつもりは無かったとは言ってはいるものの、彼らからは人を殺めたという悔恨の表情は一片たりとも窺えない。
人知を超えた力を振るう彼らは、人を殺すことにも何の抵抗も覚えないのだろうか。
あたしは、そんな人たちと同じ血を引くという事実にあらためて嫌悪感を覚えた。
「ふん、余の知らぬ間にどうやら四ノ宮は人殺しの集団へとなりさがったようだな」
これまで黙って話を聞いていたルードヴィッヒが始めて口を利いた。
「もっとも元が元だからな。それも当然の成り行きと言うことか」
「おいおい、あんたまでそういう事を言うのかい」
嘲るように鼻で笑われたのが気に食わないのか、淳哉は心外だと言わんばかりに眉をひそめる。
「別に殺しを生業とし始めた訳じゃないよ。まぁ、確かに我々がどこにも増して排他的で閉鎖的。なおかつ輪をかけて時代錯誤だということに否定はしないけどね」
「ようするにろくな一族じゃないということね」
「うわぁ、それもまったく反論できないし」
淳哉は困ったように薄笑いを浮かべる。
しかし彼はかすかに片目をすがめると、逆にあたしを嘲りまじりの冷たい瞳でまっすぐ捉えた。
「だけど片瀬さん。あんた、自分の親父さんが殺されたと分かったのに随分冷静だね」
「――っ!」
思わず息を呑んだ。
「父親の死の真相を聞いて、なんとも思わないの? こっちはてっきり泣き喚かれたり、問答無用で罵られたりすると思ったんだけど。それともショックのあまり、感情が追いついてないのかな」
「そ、それは……」
答えなければ。
そう思うのに、何故だか言葉がさっぱり出てこない。
重みでも感じたかのように、だんだん視線が下がっていくのが自分でも分かった。
ぱさぱさに乾いた唇が怯えたように震えている。
「どうしたの?」
淳哉はからかうようにあたしを覗き込む。
ねだるような甘えた口調で催促されるけれども、あたしはどうしても答えられなかった。
(――いや、違う。答えられないんじゃないんだ)
あたしは無意識のうちに首を振った。
予想外のその指摘。
だけどその答えは聞かれたと同時に、すぐさま頭に思い浮かんだ。
“答えられない”ではなく、“答えたくない”。
答えにまごつき、わななくあたしを淳哉は眺めている。まるで面白い見世物でも見ているかのように。
「それは――、」
けれど口を開いた瞬間、あたしの意識をさっと何かが掠めていった。
それははっきりとした形を持つものではない。
しかし焦燥にも似たその感覚は、あたしにとってあまりに馴染みのものだった。
「――危ないっっ!」
とっさに叫ぶと、自分でも訳が分からぬままにルードヴィッヒの前に割り込む。
次の瞬間、虚空から現れた目に見えぬ何かがあたしの肩を引き裂いた。
「痛っ……!」
赤い飛沫が視界を掠める。
灼熱の痛みが破裂する。
その痛みに焼き尽くされたように目の前が真っ白になった。
「なっ、どうして――!?」
心底驚いたような昭仁の声。
だけどそれを確かめるよりも早く、誰かがあたしの身体を強くかき抱いた。
「痴れ者め」
耳元に囁かれたのは刃よりも鋭く、そして氷よりもなお冷たい呟き。
その中に明らかな怒りの色を感じ取った次の瞬間、あたり一面を包み込んだのは耳を覆いたくなるような爆音と衝撃だった。
そしてかろうじて繋がっていたあたしの意識は、それによって完全に遮断されたのである。