07 仮面の下の素顔
夜だというのにもうもうと土煙が舞っていた。
門扉から玄関へと続く石畳が物の見事に捲れ上がり、方々へ跳ね飛ばされ砕け散っている。二人の姿は果たしてどこに吹き飛ばされたのか、夜の闇に紛れうかがうことはできなかった。
「じ、淳哉さんっ、昭仁さんっ」
あたしは悲鳴を上げて二人の傍に駆け寄ろうとするけれど、ルードヴィッヒに硬く抱き留められて一歩たりとも進むことができない。あたしは彼の腕の中でじたばたともがいた。
「ちょっと、放しなさいよっ!」
「どこに行こうというのだ」
「あの二人が無事かどうか確かめに行くのっ」
あたしが感情に任せ怒鳴りつけると、ルードヴィッヒはそんな事かと言わんばかりに眉をひそめ鼻を鳴らした。
「別に確かめるまでも無かろう」
「あたしにはあるのよっ」
それがどんな意味での言葉にしろ、ともかく彼らの安否を確認しなければ気が済まなかった。
ルードヴィッヒに何故こんなことをしたのかと、尋ねようと思う気持ちはあたしにはなかった。
むしろ理解したいとも思わない。
そんなことこの吸血鬼には何の意味も無いのだろう。
もし彼らに何かあったら、それは間違いなくあたしの所為。
あたしが地下に行ってルードヴィッヒを目覚めさせなければ、
この別荘に来なければ、
そもそも遺産の相続なんて話がなければ、
――こんなことにはならなかったのだ。
「この化け物……っ」
あたしは自分を拘束する魔物を、きっと鋭く睨みつける。
何で今までこんな得体の知れない生き物と平気で話したりしていたんだろう。
こんな化け物に、わずかでも気を許しかけた自分にひどく腹が立つ。
「あの二人に何かあったら、あんたを絶対に許さないからね」
怒りを込めてルードヴィッヒを睨みつけるけれど、彼はつまらなそうに目を細め顔を背けただけだった。
「ふん、化け物呼ばわりには慣れておる。その程度のことで余は揺らいだりはせん」
彼は煌めく緑の瞳を、夜の闇に沈む庭へと向けた。
「その方ども。いったいいつまで隠れておるつもりだ。余を謀ろうと言うのなら、その剣呑な気配ぐらい隠したらどうだ」
「えっ?」
あたしはぎょっとして視線を庭へと向ける。すると、庭の一角に突然ぽつりと小さな炎が灯った。
(火事!?)
一瞬焦ったものの、火はそれ以上燃え広がったりはしなかった。
ここにはもとより火種となるようなものは無い。それなのにやっぱりぽつりぽつりと、炎はまるで花のように庭のあちこちで咲き誇った。
そしてひときわ大きな炎が鬼火のように空中で燃えあがった時、そこには二人の男性の姿が照らし出されていた。
「まったく、ホントあんたが目覚める前に来たかったよ」
「淳哉さんっ、昭仁さんっ」
無事な二人の姿にほっと胸を撫ぜ下ろす。
だけどそれと同時に、あたしは二人に対して何かひどく違和感のようなものを感じずにはおられなかった。
二人は、さっきまでとはまったく違う気配をまとっていた。
まるで今まで偽者でも相手にしていたかのように、外見は同じなのに受ける印象が異なる。
ふたりはもはや、 『普通の青年』 という殻を脱ぎ捨てていた。
「さすがに人外の者は、遠慮という言葉を知らないな」
完全に避け切ることができなかったのか。こめかみを伝って流れてきた一筋の血を、淳哉が親指で拭って舐める。
その仕種はなにやらとても楽しげで、あたしから見ればひどく禍々しいものだった。
「きさまら、四ノ宮の血筋の者だな」
ルードヴィッヒはあたしを拘束する腕の力を強め、二人の男性を鋭く睨みつける。
あたしはきょとんと首を傾げた。
「四ノ宮……?」
どこかで聞いたことがある。
それもごく最近のことだ。
そう思った瞬間、あたしははっと思い出した。
「それ、大叔母さんの――、」
あたしがここに来る原因となった、この別荘の元の持ち主の名前が確か四ノ宮だったはずだ。
「そう、正解。片瀬さん、今まで騙していてごめんね。実は俺ら斉藤なんて苗字じゃないの。俺は四ノ宮淳哉で、アニキは四ノ宮昭仁って言うんだ。本当はね」
淳哉は悪びれた様子もなく、にんまりと笑ってあたしを見る。
その笑みはあまりにあけすけで、逆に人の油断を誘うためのものなのだという印象を強く受けた。
「もしかして、あなたたちはやっぱりあたしが遺産を受け取るのに反対なの?」
理由は分からないものの、彼らが本名を告げなかったのには何か後ろめたい事があるからなのかもしれない。
恐る恐る尋ねるあたしを、しかし淳哉は苦笑というにはだいぶ大げさに笑いとばした。
「とんでもない。むしろあんたには、どうしてもここまで来て貰わなければならない理由があったのさ。なにせ《常磐闇の鬼神》を相手にできるのはこの世であんただけなんだから」
「ときわやみの、きじん……?」
というか、それは何ですか?
生まれてこの方初めて聞くような名前を出されて対応に困る。漢字もすぐには思いつかず目を白黒させていると、淳哉は面白そうにあたしを抱きかかえているルードヴィッヒを指し示した。
「そこの綺麗な兄さんのことさ」
首を逸らして見上げると、ルードヴィッヒはなにやらひどく憮然とした表情で二人を睨みつけていた。
「余は高貴なる夜の貴族。ルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイトなるぞ」
「知っているとも、ドゥンケルハイト卿。もっともこんな所にお目にかかろうとは想定外もいいところだ。こっちにはあんたと遣り合おうなんてつもりは欠片も無い」
ルードヴィッヒの鋭い一瞥を受けた淳哉は、そう言ってしれっと肩をすくめる。
「ともかく一緒に来て貰おう。何も悪いようにはしない」
昭仁はあたしに向かって手を差し出す。びくっと反射的に肩が震えた。
身元を偽っていたことは確かに問題だけれども、別にあたしが彼らに何かをされたと言う訳ではない。当然の事ながら、その申し出を頑迷に拒絶しなければならない理由だってどこにもなかった。
それなのになぜだか、――あたしは彼らの言葉に素直にうなずくことができなかった。
それが|取り返しのつかないことだと《・・・・・・・・・・・・・》初めから分かっているかのように、どうしてもその手を取ることができなかったのだ。
「どうしたの?」
淳哉が相変わらずの飄々とした笑顔で首を傾げる。
あたしは怯んだように一歩後ずさり、どんとルードヴィッヒの胸にぶつかる。はっとして顔を上げると、ルードヴィッヒは相変わらずの冷たく端正な顔でじっとあたしを見ていた。
初対面とは言えどうやらあたしの親戚であるらしい兄弟と、ひたすらひとを下僕扱いする人外の化け物。
この場合、どちらを信用するべきかは分かりきっている。
だけどこの時あたしは、自分でもまるで気付かないうちにこの美貌の吸血鬼をすがる様な目で見ていたのだ。
そんな視線を真正面から受けとめたルードヴィッヒは、眉をひそめ小さくため息をつく。
そしてそうかと思うと、いきなりあたしの腕を強く引っ張り自分の背後に隠したのである。
「へぇ。なんだ、上手く従えているじゃないか」
ルードヴィッヒの背中の向こうから、からかうような淳哉の声が聞こえてくる。
その朗らかな笑みが見えないと、彼の言葉の陰には嘲るような響きがあることがはっきりと分かった。
「ふん、主は余の方だ。掃除もろくにできないような不出来な下僕ではあるが、余の眷属であるには違いない」
ルードヴィッヒは淳哉の嘲笑を一刀両断する。密着した背中から低い声が振動となって伝わってきた。
「四ノ宮の小童ごときが」
彼は冷ややかな眼差しで兄弟たちを一瞥する。
「――余の所有物に手を出すでない」
それはまるで、良く切れる刃のような声だった。
ルードヴィッヒは別段声を荒らげた訳ではないのに、そこには不思議と逆らうことを許さない強制力がある。
「悪いけど、こっちもそういう訳にもいかないんだよ」
淳哉が素っ気無く言葉を返す。僅かに顔が引きつっているものの、それでも彼は平然とした態度であたしに尋ねてきた。
「片瀬さん」
びくりと身体が震える。
「どうしても来ないって言うの?」
「……」
あたしは答えられなかった。
理屈の上では、拒む理由は無いと分かっている。
けれどもあたしの本能が、どうしても否を唱えていた。
何故そうしたいのか自分でも分からない。だから、答えようにも答えられない。
ホントこの葛藤を分かってくれと、あたしはむしろ頼むような気持ちで二人を見つめるけれど、彼らは無情にもこの沈黙を肯定の意志表示だと判じたようだった。
「……そうか。――ならば、力付くでも共に来て貰おう」
昭仁がそう言った途端、突然かかった加速の負荷にあたしはぐっと息を詰まらせた。あたしの身体を軽々と抱え上げたルードヴィッヒが床を蹴り宙に舞ったのだ。
二階まで吹き抜けのだだっ広い玄関ホール。
巨大なシャンデリアがすぐ真横をかすめ、すぅっと顔が蒼ざめた。
だけどこの強引な動作に思わず文句を言おうとしたのも束の間のこと。
次の瞬間、あたしたちの足元で巨大な炎の渦が巻き上がったのだ。