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黒薔薇狂詩曲  作者: 楠瑞稀
第一部 邂逅編
5/15

05 君臨せしは美しき魔物

 



 ルードヴィッヒと名乗る男は、呆然とするあたしを無理やり地上階まで連れ出すと尊大な態度で命令を下した。


「掃除をしろ」

「はぁ?」


 眉をひそめる。あたしはとっさに自分の耳を疑わずにはいられなかった。

 なにしろ本人の主張が正しければ、こいつは人間では無い。

 真偽の程は定かで無いとしても、どこをとっても怪しすぎるこの男に何をされるのかとびくびくしていた分、この命令にはいささか呆気に取られた。


(何と言うか、思っていたより普通だわ……)


 まぁ、部屋いっぱいの藁で金を紡げとか言われるよりはだいぶ現実味のある要求だろう。

 だけどそれでもこんな頭ごなしに指図をされて、ニコニコ笑ってやれる程あたしの心は広くはない。

 ので、怒鳴りつけるような勢いで男に問い質してみる。


「な、なんであたしが掃除なんかしなくちゃいけないのよ?」

「この薄汚れた屋敷で余にすごせと?」


 男は心底驚いたように目を見開く。


「本来ならば主が目覚める前に掃除くらいすませておくのが道理であろう。汚名を返上する機会をやるからキビキビ働け、この下僕」

「あ、あのねぇ……」


 わなわなと身体が震える。それはもちろん恐怖ではなく、怒りからだ。

 この際百歩譲って武者震いでも良しとしよう。

 とにかく、こんなにも腹が立ったのは生まれて始めてだった。


「あんた! 夜のバンビだかなんちゃらだか知らないけど、どうしてあたしがあんたに下僕扱いされてこき使われなきゃいけないのよっ」


 ふんぞり返って自分を見下すルードヴィッヒを、力いっぱい睨みつけてやる。

 俗に言うメンチを切るという奴だ。

 あたしは単に大叔母が遺したという遺産を確かめに来ただけなのに、どうして訳の分からぬままこんな召使いのような真似をさせられなければならないのか。

 全霊を込めた眼力と文句のつけようが無い正当な言い分に、さすがの暴君もふむとつぶやき顎をさすった。


 彼はなにやら考えるようにこちらを見ていたが、おもむろに手を伸ばすとあたしに向かってぴんと指先で何かを弾く仕種をする。

 彼との間には三メートルほどの距離があったはずなのに、なぜかあたしは額にでこピンの強烈なのを喰らった衝撃を受け「あうっ」と叫んでうずくまった。……はっきり言ってかなり痛い。


「な、何なのよ。今のはっ」

念動力サイコキネシスだ」


 涙目のあたしにルードヴィッヒはあっさりとそう言って向きを変える。今度は棚の上に飾られてあった高そうな花瓶に向けて指を弾いた。

 花瓶はぱんっと乾いた音を立ててばらばらに砕け散る。

 あたしは唖然としてその一部始終を見おくった。


「きさまの頭も同じように破裂させて欲しいか」


 ルードヴィッヒは長い指先をあたしに向けてちょいちょいと動かす。あたしは無言で激しく首を振った。


「ならば下僕は文句を言わず、大人しく勤めを果たすが良い」


 そう言って身を翻すと、自分は布を剥ぎ取った豪奢な椅子にどっかりと腰をおろした。

 どうやら手伝う気はさらさら無いみたいである。


「……」


 とにかくあたしは大急ぎで、この理不尽な状況を打開するための策を思いつかなければならないようだった。



 

   ◇  ◇  ◇



 

 そうして話は冒頭のシーンに戻るわけなのだけれども、いくら怒鳴りつけても奴にはまるで堪える様子は無かった。

 仕方がないのでルードヴィッヒの呼びかけに、あたしはしぶしぶ返事をする。


「はいはい、もう何の用ですか。あたしは誰かさんのお陰でとんでもなく忙しいんですけど」


 箒を片手に腕を組み、男を睨みつけてやる。

 だいたいこの広い建物を一人で掃除しろと言う方が無茶なのだ。

 長い間ろくな手入れをされることなく放置されたこの別荘は、あちこち隈なく汚れてガタが来ている。

 一日や二日でどうにかなるものではない。

 だけどそんなことは知ったことかという様子で、自称・主人は横柄な態度で再び命じた。


「下僕、名は?」


 今更それを聞くかと内心腹立たしく思いながらも、逆らうと何をされるか分からないので正直に答える。


「片瀬、美鈴……」


 ぼそりと答えたあたしの返事に、ルードヴィッヒはむっと眉をひそめておもむろに聞き返してきた。


「……ミミズ?」

「み、す、ずっっ」


 ぴきりと額に青筋が浮かんだ。


 あたしは小学生じみたその聞き間違いを猛然と正したのだけれども、やっぱりこの男は聞いちゃいなかった。それどころか嫌味な態度でふふんっと鼻を鳴らしみせる。


「ミミズだか煤だか知らぬが下等なきさまには相応しい名だな」

「~~っ、はいはい。もう勝手に言ってなさい」


 むかっ腹のあまり、ふいっと背を向けて掃除に戻る。


(もう無視だ、無視っ)


 まったく、こいつの言うことにいちいち付き合ってられるか。

 まともに相手をしていると神経が磨り減ってしょうがない。

 何度目かも分からぬ黙殺宣言をそんな風に心に刻んだあたしだったけれど、次の瞬間。その決意はもろくも崩れ去った。

 あたしは無防備な背を無理やり引き寄せられたのである。


「きゃあっ!?」


 体勢を崩し、そのままルードヴィッヒの胸によりかかる。慌てて身を起こそうとしたけれど何故かがっちりと肩を掴まれ動くことができなかった。


 豊かな巻き毛が肩や頬にかかる。

 絶世の美貌が自分のすぐ傍にあることを理解して、かーっと顔が真っ赤になるのを感じた。


「おい」


 ぼそりと耳元で囁きかけられ、心臓が激しく暴れる。

 どんなに腹の立つ奴でも、気にならないと思っていても、近くで聞くとやっぱり駄目だ。


 たぶんこの声は毒薬。

 甘く魅惑的な響きで人の心をどろどろに蕩かすのだ。


 ルードヴィッヒは耳にかすめるほど近くに唇をよせて、あたしにそっと囁きかけた。


「余は、――腹が減ったぞ」


 思わず膝から崩れ落ちた。


 ここに来て言うことはそれかい!

 なんだかおそろしく脱力してしまったぞ。


 あたしはもうどうでも良いや、とばかりにため息をつくとルードヴィッヒの腕から抜け出した。


「そんなこと言っても、あたしが持ってきたお菓子ぐらいしか食べるものは無いわよ。台所はまだ掃除し終わってないし、だいたいガスも水道も通ってないんだから」


 本当は電気も来てないので日が落ちた途端真っ暗になるはずだったけれど、その問題はルードヴィッヒが解決した。

 あたしがこんなに暗くちゃ掃除ができないと言い張ると、彼は恩着せがましくため息をつき、奇術師がやるようにぱちんと指を鳴らした。

 その途端、別荘に明かりが灯ったのだった。

 それは照明の光なんかとは違い壁自体が発光しているようにも見える不思議な明かりで、雰囲気としては今流行の間接照明に近いだろう。もっとも光源となるものはどこにも見当たらない。

 これはいったい何のトリックなのだと、かなり激しく動揺するものの、とりあえず世の中には知らなくていいこともたくさんある。あたしはこの不可解な現象を黙殺することに決めた。


 とにかくビスケットとかそんなもので良ければ用意するわよと言うあたしの言葉に、しかしルードヴィッヒは馬鹿にしきったように鼻を鳴らした。


「余は人間の餌など口に合わん」

「じゃあいったい何が――、」


 台詞は途中で遮られた。

 あたしが最後まで言い切る前に、ついと手を伸ばされ何気ない動作で胸元のボタンがはずされたのだ。瞬間的に目の前が真っ白になる。


「――えええっっ、ちょっとちょっと!?」


 半拍置いて慌てて抵抗するけれども、ルードヴィッヒは暴れる手をあっさりと掴み、あっという間にあたしの襟元を大きく開いた。露わになった鎖骨の辺りが、外気に触れてすうすうする。


「な、何するつもりよっ!!」


 あたしは痴漢にでもあったみたいに大声で叫んだ。

 むしろ実際されていることはそう変わらない。これが街中だったら即座にお縄になること間違いなしだ。

 だけどルードヴィッヒは落ち着き払った態度で淡々と答えた。


「食事だ」

「食事!?」


 あたしは目を丸くした。ルードヴィッヒの冷たい眼差しがつまらなそうにあたしを見下ろす。


「きさまは己の主人が何者であるのかまだ理解できておらぬようだな。例えきさまが鶏がらのような、いや、洗濯板のような、もといクレーターのような胸であっても雌であることには違いあるまい。大人しくしておれ」

「さすがにへこんじゃいないわよっ!!」


 渾身の力でルードヴィッヒを蹴り飛ばす。ついでにドサクサに紛れ素早く身を引き剥がした。

 ――先刻、地下に居た際に告げられた言葉を、あたしは忘れた訳ではない。

 ヴァンピーアとは、すなわちヴァンパイア。

 人の生き血を吸う魔物の名称だ。


 もっともあたしが知る限り、それはお話の中の単なる虚構の存在でしかない。

 だからいくらルードヴィッヒが普通とは違う不思議な力を持っていようと、至極まっとうな人生を歩んできたあたしにとってそんなの到底信じられることではないのだ。


(もっとも――、)


 今となっては、否が応にでも信じなければならない状況のようだけど。


「やめてよね、血を吸われるなんて冗談じゃないわっ!」


 露わにされた襟元をきつく掻き抱いて、あたしは慌ててルードヴィッヒから距離をとる。

 美貌の吸血鬼はそんな態度にいたく気分を害したようで、長い睫毛をぴくりと揺らし目を細めた。

 そうすると冷たい美貌がますます冴え渡って、酷薄そのものの眼差しにあたしはぎくりとする。


「きさま、下僕の分際で余に逆らおうというのか」


 絶対零度の響きを持つ問い掛けに思わず怖気づきそうになるも、それでもあたしは負けじときつく彼を睨み返した。


「だ、だからさっきから言ってるでしょう。なんであたしがあんたの下僕になっているのよ。まずその理由を言いなさいよっ」


 けれどルードヴィッヒはあたしの質問には答えなかった。

 彼は無言であたしに一歩近付く。

 あたしはびくりと身を震わせたけれど、なぜかそれ以上逃げることができなかった。

 ルードヴィッヒの表情は、これまでとはまるで一変していた。

 煌く炎の瞳から傲慢さは消え失せ、代わりに何かに耐えているかのような沈鬱な色がよぎる。


「……理由だと?」


 ふん、と弱々しい嘲笑が聞こえた。彼はついっと腕が伸ばし、指先であたしの顎を持ち上げた。


「そんなもの、一目見て分かったわ。きさまはこの家の新たな所有者であろう。ならばきさまは、――余の持ち物だ」


 絶世の美貌が近付いてくる。

 半ば瞼を伏せた官能的な表情。形の良い血赤の唇の下には鋭い牙が伸びていた。

 まるで金縛りにあったかのように一歩も動けない。

 ルードヴィッヒはあたしの首筋にそっと顔を埋め――、



  ――――どんどんどんっ

 


 玄関先から激しいノックが聞こえてきた。

 彼の意識がそれた瞬間、あたしは力任せにルードヴィッヒの胸を突き飛ばした。


「だ、誰か来たみたいね。あたし見てくるわっ」


 そして一目散にその場を走り去る。

 脇目も振らず玄関まで駆け出しながら、だけど一方で自分の顔がこれ以上なく真っ赤になっているのをはっきり自覚していた。


(ちょっとちょっと、冗談じゃないわよ~っっ)


 ひんやりとした、けれども柔らかな唇の感触が残る首もとを押さえつつ、なぜだかあたしはその場でじたばたと暴れ出したい衝動に駆られていた。




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