13 刻み付けられた印
本来ならばおまえは我らの味方のはずだ。
淳哉はそう非難するけれど、ルードヴィッヒはその言葉にちらりとも動揺を見せなかった。
逆に淡々と問い返す。
「何ゆえに」
ルードヴィッヒは理解できないとばかりに、整った柳眉を悩ましげにひそめた。
「何ゆえに余がきさま等に与する必要がある」
「それはおまえの存在理由に大きく関わるからだ」
答えたのは昭仁だった。
「四ノ宮の開祖・烏有創玄が使役し最強の妖。直系の血筋にのみ従いその身を護る忠実なるしもべ。それが貴様だろう、常盤闇の鬼神」
あたしはその言葉に目を見張り、慌ててルードヴィッヒを見やった。
ルードヴィッヒは眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠そうともせず昭仁に言い返す。
「余は誇り高き夜の貴族、ルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイト。いと深き闇の淵に君臨する至高の存在ぞ」
「だがそれでも契約にはけして逆らえない。使役の契約に縛られた貴様は、永久に隷属の鎖から逃れられない。四ノ宮直系の血筋が絶えた時、貴様に与えられるのは破滅であり自由ではない。貴様はそれを知っているはずだ」
ルードヴィッヒは黙って昭仁を睨みつけていた。
「確かに我々は本家の血を引く彼女を手中に収めようとしている。だがそれは同時に直系の血筋を保護することでもあるのだ。それは貴様にとって望むべき結果であり、妨げる理由はないはずだ」
「それとも」
揶揄するように、ふいに淳哉がルードヴィッヒに問いかける。
「もしかするとおまえはいまだ、死なせた前の主人に義理立てしているのか」
「――っ!」
その瞬間、いきなり空気の色が変わった。
淳哉も昭仁もあまりの変化にぎょっと身を引く。身震いせずにはおられないような剣呑な気配が、ルードヴィッヒを中心に広がっていった。
翠緑玉とも見紛う美しい瞳で、彼は淳哉を睨みつける。
たぶんそれは殺気と呼ばれる類のもの。剥き出しにされた彼の感情は、まるで鋭い刃のようにうそ寒く首もとを撫ぜていく。
(何でそんな……っ)
ここまでルードヴィッヒが自分の感情を顕わにするのは、あたしの知る限り初めてのことだった。
あたしは愕然としながら彼を見つめる。
だけどルードヴィッヒはすぐさま感情を抑えると、すっと目を細めた。
「くだらない」
ぼそりと彼は呟いた。
その途端、思わず地面に膝を着きそうになる。ずっしりと全身を締め付けていた重圧感が消えた。
あたしはこの時初めて、自分の体が震えていたことに気付いたのだ。
「実にくだらん。余が死者に義理立て? 全くもってありえんな」
ルードヴィッヒは馬鹿にするようにふふんと鼻を鳴らした。
たしかにこの傲岸不遜を絵に描いたような吸血鬼に義理だとか人情だとか、そんな言葉は全く似合わない。
だけど淳哉はさらに言い募った。
「だがおまえが、前の主人の死をきっかけに百年の眠りについたのは事実だろう。それだけ執着していた主ならば、後追いをしようが義理立てをしようが、それこそまったくもって不思議では無いじゃないか」
あたしははっと目を見張った。そして確かめるようにそっとルードヴィッヒを窺う。
(ルードヴィッヒが眠りについた理由……?)
そんなこといっさい考えた事はなかった。
だけど確かに百年の眠りなんて、そんなこと理由もなく思い立てるものではない。
彼は誰かの死を儚んで、その身を長き眠りの淵に沈めたのだろうか。
今の彼を見てもなかなかそうとは信じられないけれど、
もし――本当にそれだけ心を砕いていた相手がいたのなら、
(それはこの自尊心の高い吸血鬼を突き動かす原動力となるかもしれない――、)
あたしはなんだかいきなりに胸に重たいものを感じて、無意識に唇を噛みしめた。
消化不良を起こした時のような、何とも言えないむかむかした気分がみぞおちの辺りに渦巻いている。
(気持ち悪い……)
訳の分らぬまま眉をひそめていたあたしは、だけどふいに息を呑んだ。
ルードヴィッヒが突然こちらを振り向いたからだ。
宝石のように煌めく緑の眼と視線がかち合う。彼の口元にふっと微笑が浮かんだような気がした。
(……あれ?)
不思議なことに、いきなり気分が楽になった。
ルードヴィッヒはすぐさま視線を転じると、四ノ宮兄弟たちにはっきりと言った。
「死者は所詮、死者でしかない」
彼は目を半眼に伏せると、噛んで含めるように淡々と言葉を重ねていく。
「いくら思いを綴ろうと、どれほど行動に移そうと、現世に生きる者の言葉は死者へはけして届きはせぬ。同様に彼岸に赴いた者が生者に何かしらの思いを持つなど笑止千万」
ルードヴィッヒは万物総てを嘲るような、凄絶な笑みを浮かべる。
「この世とあの世は完全に隔絶されている。そこには一片の交わりも存在しない。それなのに死者に対して何かをなそうとは、あまりにもくだらぬ思想だとは思わぬか」
死者のためになどという迷いごとを余は信じない。
ルードヴィッヒははっきりとそう言い放った。
「死者は現世にいかなる影響も与えはしない。死者の気持ちなど、所詮生きる者の幻想でしかない。それはただの自己憐憫であり、言い訳だ。だから余は死者の為には何もしない」
それはある意味、神を冒涜する以上に不遜な言葉だっただろう。
死者への尊厳を真っ向から否定し、ただ現世のものだけを重んじる。
だけどその言葉は、なぜかあたしの胸にとても優しく響いていた。
――死者に対して、何か思うことに意味はない。
それは父の死に関心を抱けないあたしを許す言葉だった。
「余は、余の為だけに生きるのだ」
無理に悲しみを覚える必要はない。
死んだ父の気持ちを慮る必要もない。
今を生きる自分の気持ちを優先してもいいんだと、あたしの耳にはそう聞こえた。
もっともルードヴィッヒがあたしの抱いていた思いを汲み取ってそう言ってくれたとは限らない。
もしかすると、いやたぶん彼はただ自分の考えを語っただけだろう。
だけどあたしの目頭は、気が付けば熱く潤んでいた。
今のままの自分でいいんだと、
こんな薄情な自分でも生きていていいんだと、
そう認めてもらえたような気がしたのだ。
「ではなぜおまえは俺たちの邪魔をするっ」
まるで裏切りを糾弾するかのように。
厳しい口調で問いただす淳哉に、ルードヴィッヒは不敵に笑う。
「たとえ従属の鎖に縛られようと、この世に余を支配できる者などおりはせぬ。四ノ宮如きに好きに扱われる言われはない。余は余の望むままにするだけよ」
そう言って口角を吊り上げる彼の姿は、確かに誇り高き夜の薔薇、闇の貴族そのものだ。
ルードヴィッヒは面白がるようにひょいっと眉を持ち上げると、おもむろに手を打ち鳴らす。
「そうそう。それからどこぞのへたれた下僕に十全な雇用環境を整えてやるという崇高な理由も忘れておったな」
「だからそれは余計なお世話だっ」
あたしは一息に怒鳴り、頭痛を堪える様にこめかみを押さえた。
だからどうしてこいつはいつも、そこに話を収めようとするんだか。
「……そうか、分かったよ」
だけどそんなあたしたちの素っ頓狂なやり取りなど聞こえなかったかのように、淳哉は重々しい声でつぶやいた。
「あんたはあんたの意志で、四ノ宮――俺たちに背こうと言うんだな」
「その見解はあながち間違ってはおらぬな」
「じゃあ俺も俺の意志であんたを倒すさっ」
淳哉は素早く身構えると、指先で複雑な印を結ぶ。
「《朱殷、乾坤、炎跋、ど――……》」
けれど淳哉の言葉はいきなり途中で断ち切られた。
崩れ落ちるように突然地面に膝を着いた彼は、荒く肩で息をする。苦しげに眉をひそめるその顔は紙のように真っ白だ。
「淳哉っ!」
「くそっ、もう一度!」
焦ったような兄の叫びを無視して、淳哉は再度手印を組もうとする。だが昭仁はそれを遮るように乱暴に淳哉の肩を引いた。
「よせっ淳哉、もう止めるんだっ。それ以上はお前の体がもたない。力の使いすぎだ!」
「だけどっ」
駄々を捏ねるように叫ぶ彼の顔は、何故だか今にも泣きそうに見える。
「本家の長姫を連れ帰れば俺たちは一族に認められるっ」
淳哉は逆に揺さぶるように、兄の腕を力強く掴んだ。
「そうすれば母さんを、もっといい病院に入れることができるじゃないかっ」
あたしははっとして二人を見た。




