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黒薔薇狂詩曲  作者: 楠瑞稀
第一部 邂逅編
12/15

12 真実を見通す目

 煤と埃にまみれ、あちこちに血を滲ませながらも前庭に転がり込んできた淳哉は、それでも素早く立ち上がると昭仁の傍らに駆けよった。


「悪りぃ、アニキ。さすがに俺一人では鬼神の相手は荷が勝ちすぎた」


 荒く息を切らせる淳哉の顔は、月夜でもはっきり分かるほど青ざめている。昭仁は目を見張った。


「淳哉……」

「ふふん、少し遊びが過ぎたようだな。巣に逃げ込ませてしまったか」


 あたしはぎょっとして振り返った。

 月の光を全身に浴びた吸血鬼はふふっと艶美に笑う。

 音も無く気配のひとつもさせず、気が付けばルードヴィッヒは尊大な態度でそこにたたずんでいた。

 満身創痍の淳哉とは対照的に、彼には髪一筋の乱れすらない。無事で良かったという言葉すらも、どこかおこがましく思えるようないでたちだ。

 比類なき美貌を余すことなくひけらかし、彼は美酒に酔ったようにうっとりと目を細める。


「もっとも、その巣ごと叩き潰してしまえばなんら問題はないな」


 長い睫毛に縁取られた緑の瞳が妖しく底光りする。

 漆黒の髪は闇よりもなお深くて、形の良い真紅の唇はまるで血を含んだように鮮やかに艶めいていた。


「っ……」


 あたしは何かに押されたように、思わず一歩後ずさる。


 ――彼のことが、突然恐ろしく思えた。


 いや、もとよりルードヴィッヒが怖くなかったという訳ではない。

 だけど低く嘲笑するその姿はまさしく魔性そのものであり、淳哉を痛めつけて喜ぶ姿は酷薄で残忍な本性をまざまざと見せ付けられているような気がした。

 ルードヴィッヒは怯えるあたしに気付くと、ふっと眉をひそめる。


「下僕……」


 あたしはひっと息を呑んだ。

 彼は冷酷そのものの眼差しで、容赦なくあたしに詰め寄ってくる。

 ゆっくりと差し伸ばされた手を前に、あたしは反射的に目をつぶった。


「きさまっ、何をぼけぼけしておる! 余が戻ってくるまでにあやつを倒しておけと言っておっただろうっ」


 いきなり頬っぺたに痛みが走った。

 ルードヴィッヒはその長く綺麗な指で、あたしの頬をぎゅーぎゅーと思いっきりつねっている。


「いは、いはいって!」


 あたしは涙目になって、慌ててルードヴィッヒの魔手から逃れた。


「そ、そんなの無理だってあたしずっと言ってたでしょうがっ。だから足止めだけにするって。だいたいただのか弱い女の子に、あんたどうやって戦えって言うのよ」

「それは余の関知することでは無いわ。主ばかりに働かせることをきさまが気に病まないようにとの心優しき配慮だぞ」

「どこをどう引っ繰り返したら配慮になるのよ、それはっ」


 あたしは反射的に声を大にして怒鳴りつける。

 そしてはっと気が付いた時には、彼を取り巻く空気は遠慮なくあたしをこき下ろすいつものルードヴィッヒに戻っていた。

 彼はふんと鼻を鳴らす。


「まぁよい。きさまの手など借りずとも、あやつらの相手ならば余ひとりで充分だ」


 ルードヴィッヒはぱきぱきと指を鳴らすと、四ノ宮兄弟と向かい合った。

 淳哉は僅かに身を引いたけれども、それでも負けじと吠え立てる。


「そんなに大きな口を叩いていると、あとで後悔する羽目になるぜ」

「淳哉……」


 昭仁はためらうような視線を弟に向けるが、しかし彼は無造作に首を振った。


「心配は要らない。――アニキ、行くぜっ」


 淳哉はかしわ手の様に胸の前でパンッと手を打ち鳴らすと、その響きの良い声で朗々と吼えた。


「《炎縛えんばく嚆矢こうしらい、鏘々(そうそう)》っ」


 轟っ、と突然凄まじい勢いで火柱が立ち上がった。

 ルードヴィッヒはそれを片手で払い除けるが、淳哉はすかさず続ける。


「《猩々(しょうじょう)黙視もくし方里ほうり灼爛しゃくらん》」


 今度は炎が津波のように襲い掛かった。降り注ぐ火の粉を潜り抜け、黒衣の吸血鬼は重ね合わせた手を淳哉たちに向ける。

 彼らは素早く二手に分かれて飛び退き、それまで彼らが立っていた場所に強い衝撃波が炸裂した。


「ちっ……」


 ルードヴィッヒは忌々しそうに舌打ちする。どうやら狙いを外したからのようだ。

 そうやってルードヴィッヒと淳哉たちは激しい技の応酬を繰り広げ始めるも、肝心のあたしはと言うと完全に蚊帳の外だった。

 もっともそこに加われと言われても真っ平ごめんだから、構わないと言ってしまえばそれまでなのだけれど。


 だけどそんな目の回るような彼らの戦いを黙って見ていたあたしは、ふいに淳哉が昭仁に目配せをしたのに気付いた。

 ざわりと、胸騒ぎがする。


(……来るっ)


 あたしはすっと目を閉じると、ルードヴィッヒに言われていた通り・・・・・・・・直感のおもむくまま叫んだ。


「右っ!」


 ルードヴィッヒが右に身を傾ける。彼の肩を見えない何かが僅かに切り裂いた。


(まだ来る――、)


 あたしには、それが分かっていた。


「左足元っ、続けて真後ろ!」


 ルードヴィッヒが大きく跳躍した。

 すかさず炎が彼を追うが、ルードヴィッヒは器用にそれを避けた。脹脛ふくらはぎのあたりで黒衣が避ける。


「……下僕」

「な、なによっ。あたしは言われた通りにやったわよっ」


 ルードヴィッヒがジトーとした目であたしを睨みつけていた。


「遅いわ、このたわけっ。もっと早く言え」

「なっ、我がまま言わないでよ。これでも精一杯やってるんだからねっ」

「当たり前だ。どこかで手を抜いているようなら、仕置きのひとつでもくれてやるところだぞ」


 ルードヴィッヒがわきわきと手を動かした。あたしはうっと口を閉じる。

 そ、そういう脅しは卑怯だと思う。


「な、何故だ……っ」


 後方から昭仁の唖然とする声が聞こえた。

 慌てて振り返ると昭仁はわなわなと身を震わせ叫んでいた。


「何故君は先程から自分の攻撃を――っ」


 昭仁ははっと顔を上げてあたしを見る。


「まさかっ……」

「幻術、炎術、使役、そして予見・・


 ルードヴィッヒが歌うように言った。


「四ノ宮の血統に生まれた者は、多かれ少なかれこのどれかの能力を持っている――これはきさまらが自分で言ったことだな」


 ルードヴィッヒはふふんと鼻で笑うが、あたしは決まり悪く視線をそらしていた。

 何しろ自分が、彼らと同じような異能の持ち主だなんて今でもさっぱり信じることができないのだから――。



 

     ◇  ◇  ◇  



 

 ――きさまにはあの使役術士の相手をして貰おう。


 ルードヴィッヒはあたしに向かってそう言った。


「ちょ、ちょっと待ってっ。何よいきなり、そんなの無理に決まってるじゃないっ」

「遠慮するな。主ばかりに苦労させては気が咎めるだろう。余の優しい心配りだ」

「まったくもって遠慮してないし、どこが心配りよっ」


 百歩譲ってありがた迷惑というのが関の山だろう。

 だけどルードヴィッヒはうむうむとしたり顔でうなずいていた。


「なに、いくらきさまが如何ともしがたい軟弱者だとて、死ぬ気でやればやれんこともないだろうとも」

「死ぬ気とか言う以前に本当に死んじゃうからっ」


 あたしは本気でぶんぶんと首を振る。

 肩に負った傷の痛みはまだ鮮明だ。さらにこれ以上戦ったりなどすれば、たぶん間違いないなく死ぬし。

 懸命にその提案に異議を唱えると、彼はやれやれと不服そうにため息をついた。


「まったく、この下僕は役立たずで仕方ないな」


 いや、いっそ役立たずでいい。

 あたしはムッとするよりも先にこくこくとうなずいた。

 むしろ役立たずだからこそ、手も足もなく叩き伏せられることが簡単に予測できるのだ。

 ルードヴィッヒは何か考えるように自らのあごを撫ぜ、すっと視線をそらす。


 だいたいあたしみたいな普通の人間がどうやって異能力者と戦うというのだ。

 どうにかこの無理難題を回避できたことにあたしはほっと息ついたのだけれど、もっともそれは単なる次への布石でしかなかった。

 この先の事を考えながらそっと窓から外の様子を窺っていたあたしは、突如背後に悪寒を感じ慌ててその場を飛び退いた。


 ビシッと鈍い音がして、窓枠―― 一瞬前まで頭があったところに勢い良く何かがめり込む。

 あたしはぎょっと目をむいた。


「な、何なのよ今のは――、」


 良く見てみれば、それは床にいくつも転がる砕けた姿見の欠片だ。

 木の窓枠に綺麗にめり込んだ鏡の破片は、冷たく月の光を弾く。


「ほう、なるほど。この分ではやはり素質は問題なくあるようだな」


 悪びれる様子のないルードヴィッヒの声が背後から聞こえた。


「ちょ、ちょっとこれはどういう――……」


 慌てて振り返ろうとした瞬間、再びヒヤリと嫌な予感が肌を撫ぜあたしは転がるように床に伏せた。

 ビシッ ビシッと再び頭の上を何かが通過する。

 すぅっと背筋に冷たいものが走った。


(じょ、冗談じゃないわよ)


 あたしはひくりと頬を引きつらせた。


「下僕よ、案じるでない」


 ルードヴィッヒは得意げにふふっと笑う。


「役に立たないその身ならば、余が上手く使ってやる。きさまの予見の能力を余のために役立てよ」

「はあっ!?」


 あたしは思わず目を見張った。


「予見の能力って、どういうことよ!? あたしは単なる普通の人間で――、」

「単なる人間ではないだろう、四ノ宮本家の長姫」


 うっと息を呑む。

 ルードヴィッヒは揶揄するようにあたしを見て笑った。


「四ノ宮の血を継ぐ者は多かれ少なかれ異能を持ち合わせている。それが直系の娘ともなればただの人間であるはずがない。見たところきさまの力は予見――未来を見通す能力だ。思い当たる節があるだろう」

「そ、それは……」


 決まり悪くあたしは視線をそらした。

 確かにあたしは人より勘がいい方だと思う。

 特に嫌な予感は自分でも呆れるほど良く当ててきた。

 だけどそれが何かの役に立ったことは一度もないし、未来のことが分かってしまうようなそんなご大層なものでもない。


「嘘よ、そんなの。全部ただの偶然だわ」

「偶然などではない。現にきさまは余の指弾をすべて避けた」

「それは気配を感じただけで――、」


 未来を予見した訳ではない。だけどルードヴィッヒはその言葉を認めようとはしなかった。


「ふん、往生際が悪い。ならば見てみるがよい」


 ルードヴィッヒは足元から鏡の破片を拾うと、壁に向かって構える。その指が微かに動いたと思った瞬間、破片は音を立てて壁にめり込んでいた。


(――速いっ)


 あたしは目を疑った。ルードヴィッヒが破片を放ってから壁に突き刺さるまでコンマ数秒もない。


「分かったであろう。余が指弾を撃つ気配を感じたとしても、それを避ける余裕はない。来るとあらかじめ知ってなければ、回避することはできないのだ」


 さすがにこれにはあたしも反論することはできなかった。

 未だ実感はないけれど、しぶしぶあたしが持っているという不思議な力の存在を認める。


「だけどこの力をいったい何に使うって言うの。自分で言うのもなんだけど、あんまり使い勝手がいいものじゃないわよ」

「そうだな。最も良いのは先程も申したようにきさまが使役術士を倒すことだが――、」

「だからそれは無理だって!!」


 いくら攻撃が何時来るのかがわかっても、それだけでは敵は倒せまい。


「仕方がないので、きさまには見えない攻撃が来る時にその合図をする役目を与えよう」

「ああ、それぐらいなら……」


 あたしはほっと息をつく。

 それならどうにかできないこともないだろう、と思ったからだ。


「だがやはり今のきさまのままでは、いささか不安が残るのも確かだな」


 ルードヴィッヒはきらんと眼を光らせる。

 咄嗟に身を引くと鼻先ギリギリの所を鏡の破片が通過した。


「せめて何時どこから攻撃が来るのかを、正確に言えるようになって貰わねば困るな。光栄に思え。それゆえに余がじきじきに、きさまを鍛えてしんぜようぞ」

「ちょ、ちょっとそれ冗談でしょうっ!?」

「冗談ではないぞ」


 ルードヴィッヒはにやりと不吉な笑みを浮かべた。


「なに、いくら愚鈍なきさまでも、死ぬ気でやればやれんこともなかろうよ」


(だ、だから死ぬ気とか言う以前に本当に死んじゃうってば!!)


 あたしは声にならない悲鳴を上げたけれど、当然の事ながらそれがルードヴィッヒに伝わることはけしてなかったのだった。  



 

     ◇  ◇  ◇



 

(おかげで月が昇り切るまで、全力で逃げ回らせ続けたのよね……)


 なにせちょっとでも気を抜こうものなら、容赦なく礫が飛んでくる。

 本気で逃げなきゃあっという間に穴ぼこだらけだ。

 もっともそんな命懸けの修行の甲斐あって、あたしは短時間のうちにどこから攻撃が来るかをかなり正確に予測できるようになっていた。

 ただしこんな能力、日常生活の中では全くもって役に立たない。

 あたしは再び深々とため息をついた。


「さて、次はどのような手で来るのだ」


 ルードヴィッヒは兄弟を蔑むように見て、ふふんと尊大に鼻を鳴らした。


「きさまらの決め手であろう連携攻撃はこれで完全に無効化された。まだ何か打つ手は残っておるか?」


 淳哉と昭仁はぐっと悔しそうに咽喉を鳴らした。


 このまま諦めてくるといいんだけど。そうすればあたしはこれまでどおり、平穏な生活を送ることができる。

 あたしはいっそ祈るような気持ちで彼らを見ていた。けれど、


「何故だっ。常盤闇の鬼神、何故おまえは俺たちの邪魔をするっ!?」


 彼はまっすぐ指を突きつける。淳哉はぐっと拳を握り締め、険しい表情でルードヴィッヒを非難した。


「おまえは本来我々と同じ立場にいるはずだろうっ」


 その言葉に、あたしはぎょっとして美貌の吸血鬼を見る。

 ルードヴィッヒは黙って淳哉に視線を返していた。




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