11 使役の原理
十六夜の歪な銀盤は、もうだいぶ天頂近くまで昇ってきている。
時刻はすでに真夜中に近い。
月の光だけが照らす静かな庭を、あたしは一歩一歩踏みしめながら歩いていた。
ざくざくと下草が鳴る音のみがやけに大きく響いている。
「――どこへ行く?」
ぎくっと肩が震えた。耳を打ったのは淡々とした静かな声音。
覚悟はしていたつもりだけれど、それでも身体が小刻みに震えるのが分かった。
あたしはゆっくりと振り返る。
「家に、帰るの」
「この時間帯では、使える交通機関など無いだろう」
「それでも帰るの。歩いてでも帰る」
「……強情だな」
庭の暗がりから滲み出るように現れた昭仁が、呆れたようにぽつりと呟いた。気負いない足取りで月明かりの下に出る彼の姿は、ぱっと見た感じでは夜の散歩に来たと言っても通用しそうな雰囲気がある。
「もう一人は?」
あたしが尋ねると、彼はかすかに左目を細くした。
「裏の方に。君がどこから出てくるか分からなかったからな」
(やっぱり……)
その返答にあたしは胸の内だけで言葉を返した。
そうするとあとには沈黙だけが残ることとなる。何か言わなくちゃと焦るあたしを出し抜くように、昭仁はポツリと言った。
「肩の傷は、すまなかったな」
「えっ」
あたしは思わず顔を上げた。
「君を狙ったつもりはなかったんだ」
ぼそぼそとした起伏に乏しい声音だけれど、そこには確かに謝罪の響きが感じられた。
(もしかするとこの人、そんなに悪い人じゃないのかも……)
ふいにそう感じるものの、あたしはそれでもあえてとげとげしく聞き返す。
「じゃあ誰を狙ったって言うのよ」
「常盤闇の鬼神を」
昭仁は間髪入れずに答えた。
「あの魔性ならば、問題ないと分かっていたからな」
そして彼ははじめて口元に表情のようなものを浮かべる。
その返事はルードヴィッヒならダメージを受けないという意味か。それとも気に掛ける必要がある相手ではないという事か。
少なくともルードヴィッヒ自身も、あの程度の攻撃でどうこうなりはしないとはっきり言っていたのは確かなことだ。
(……だけどそれだと、間に入ったあたしが単に間抜けなだけみたいなのよね)
あたしは骨折り損と言う言葉を身を以て痛感してしまい、ついつい深いため息を漏らした。
「ところで常盤闇の鬼神は今いずこに……」
「そう、その彼が言っていたんだけどね」
あたしは昭仁の言葉を断ち切るように、慌てて質問を放った。
「この攻撃」
そう言って、あたしはそっと肩の傷に触れる。
「使役の能力による攻撃だって聞いたけど、本当なの?」
じっとりと貫き止めるように彼を見る。もしも視線に力があったら、きっと彼にはいくつもの大穴が空いている事だろう。
「……なるほど。さすがにお見通しのようだな」
昭仁は感心したように片目をすがめ、続けてふっと苦笑を浮かべた。
◇ ◇ ◇
「思い知らせるのはいいんだけど、それって本当に上手くいくのかしら」
「なんだと」
ぽそりと呟いたあたしを、ルードヴィッヒは凍りつきそうなぐらい素敵な笑顔で睨みつけた。
「ほう、それは余の提案に異論があると言う訳だな。言ってみろ」
「ひ、ひろんというはけではなひんでふけどっ」
吊り下げられるように鼻を抓まれながら、あたしは慌てて弁解する。
「でもそれって彼らに勝てることが大前提でしょ。だけど淳哉の炎は避けることしかできなかったし――、」
あたしは引き攣るように痛む肩に視線を向ける。
「この怪我だってどうして負ったのかさえ分からないのよ? これじゃあ勝てるはずが」
「たわけ」
あたしの言葉を遮って、ルードヴィッヒはひとこと、尊大な態度で言い放った。
「余を誰だと思っておる。高貴なる闇の貴族、ルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイトなるぞ。愚かなきさまには分からずとも、余には疾うに明白なこと」
「えっ、じゃああんたにはもう分かっているのっ?」
あたしは鼻先に突きつけられた人差し指を脇にどかしながら思わず目を見張る。ルードヴィッヒは反対の指でしつこくあたしのおでこを小突きながら堂々と答えた。
「きさまとはここの出来が違うからな。あれは使役された妖魔の攻撃だ」
「使役された妖魔?」
「……きさまはつくづく鈍いな」
ルードヴィッヒはやれやれと肩をすくめる。
「四ノ宮の力のひとつ、使役の能力だ。この力を持つ者は妖魔霊獣諸々の魔性を配下に置き、自由に従えることができる。きさまの肩を裂いたのも、大方あの者共が配下に据えた妖魔の仕業であろうよ」
「じゃあ妖魔って目には見えないものなの?」
淳哉の炎から逃げ回っている時はもちろん、攻撃を受けたその時でさえそんな生き物はどこにもいなかった。もしや彼らは元より人の目には映らない存在なのだろうか。
そう思って訊ねてみたけれど、返ってきた答えははっきりと否だった。
「おそらく不可視は、その妖魔の持つ技であろう。妖魔とはおのおの特出した能力を有するものだからな」
「でも結局見えないことには変わらないのよね。……ねぇ、どうするの? いくら大きなダメージを受けないとは言っても無視するわけにはいかないでしょう」
どこから攻撃されるか判らないと言う状況は、受ける側からすれば相当なプレッシャーだ。
淳哉の息をもつかせぬ炎を避けながら、目に見えない攻撃も回避しなければならないとなると、さしものルードヴィッヒでも荷が重いだろう。
けれどルードヴィッヒは、そうやって心配するあたしをふふんと鼻であしらった。
「それに関しては偉大なる余に考えがある」
あたしは思わずぎょっと身を引く。
(ってか、絶対にろくなこと考えてないし――っ!)
ルードヴィッヒはまさしく何かを企んでいますという顔で、にやりとあたしを見てほくそ笑んだのだ。
◇ ◇ ◇
「確かに自分は四ノ宮の一、使役の能力者だ」
インビジブル――、と彼は呼ぶ。
すると彼のすぐ傍らに、滲み出るように一匹の獣が姿を現した。
大きさは中型の犬くらい。耳の長いところやモコモコした白い毛並みはどことなくウサギを思いおこさせるけれど、それも身の丈の半分以上はありそうな凶悪な爪がなければの話だ。
「これが自分の使役する妖魔。名をインビジブル。さして力のある魔性ではないけれど、その姿を完全に消すことができることが強みだな」
ふっとその妖魔は姿を消した。あたしはぎょっとするけれど、次の瞬間には昭仁を挟んで反対側に再び姿を現した。
その説明は確かにルードヴィッヒがしたものその通りだ。
だけど昭仁は自分の妖魔の能力が見破られたのにも拘らず、悠然とした態度を取り続けている。それどころか、
「もっとも常盤闇の鬼神ならばこれ位気付くとは思っていたが」
そんな風に当然とばかりにうなずきさえする。
あたしは自分でも気付かぬうちにきゅっと眉をひそめた。
(……どうしてそんな風に断言できるの?)
ルードヴィッヒは百年近く、この別荘の地下で眠り続けていたというのに、なぜ昭仁はそこまでルードヴィッヒのことを熟知しているのだろうか。
あたしはルードヴィッヒと四ノ宮家の関係に、今更ながらに強い疑惑を覚えた。
あの吸血鬼はこの別荘の持ち主であった大叔母を自分が眠っている間に勝手に住み始めた輩だと称していたけれど、まさかそんなはずは無い。
淳哉と昭仁は元から良く彼のことを知っているようだし、ルードヴィッヒ自身も四ノ宮家の事情についてあたし以上に詳しそうだ。
それにあたしは昭仁の漏らした言葉をまだしっかりと覚えていた。
(――そもそも『《常盤闇の鬼神》が主となれしは、本家筋の人間のみ』と決まっているからな……)
あたしはさらに詳しいことを昭仁から聞こうとしたけれど、それよりも早く、彼はあたしに向かってこう言った。
「では次はこちらから質問だ。再度聞く。常盤闇の鬼神はいったいどこにいる」
あたしは、うっ……と言葉に詰まった。
「さ、さぁ。あたしは知らないわよ。こんなことに付き合うのに嫌気が差して、自分の家にでも帰ったんじゃないの」
自分でも下手な返事だと思ったように、昭仁はふっと鼻で笑った。
「まさか、そんなことはありえない」
「さぁ、どうかしら。血も涙もない吸血鬼の行動としては充分可能性はあると思うけど」
「常盤闇の鬼神が、君を置いて逃げられるわけがない」
あたしは眉をひそめる。
「それってどういう――、」
だけど会話はそこで途切れた。
鼓膜が破れるような爆音とともに、ぼろぼろになった淳哉があたしたちの前に薙ぎ飛ばされてきたのだ。




