01 始まりは一通の手紙から
「おい、こっちに来るがよい」
だいぶ古びているが造りも意匠も立派な椅子から、同じくらい時代がかった呼び声があたしに向かって投げかけられる。
「こっちに参れと言っている」
傲岸不遜という言葉を体現したかのような尊大な声。けれどもその声の響き自体は、油断していると魂を抜きとられてしまうと思えるほど魅惑的だ。
「どうした。聞こえないのか?」
もっともあたしはその声の持ち主が、もはや手のつけようが無い程どうしようもないと知っているので、さすがにうっとりすることはない。無言で箒を動かし続けた。
ちなみにもちろん聞こえていない訳ではない。
ただ聞こえない振りをしているだけのことだ。
「そうか、余の命令が聞こえないというのだな……」
椅子がぎしりと悲鳴を上げる。お尻に根が生えたんじゃないかと思える頑迷さで動こうとしなかった相手が、とうとう立ち上がる気になったようだ。
「ならば――、」
艶のある低音がいっそう匂い立つような色香を放つ。
ぞくり、と背中が怖気だった。
きつく髪を縛っていたせいで露わになっていた両の耳に、背後から突然ひんやりと冷たい指先が添えられる。息が吹きかかるほど近くで声がした。
「こんな役に立たない耳は必要ないな」
「ぎゃあっ、ちょ、痛い痛い痛いっっ!」
ぎゅーっと容赦のない力で耳を掴まれる。このままでは確実に引き千切られると悟ったあたしは、あわてて相手の腕を振り払って射程範囲外まで逃げ出した。
別に大げさな行為ではない。こいつはやると決めたら洒落じゃなく耳の一枚や二枚、平気で引き千切る奴なのだ。
「ちょっとっ、いきなり何をするのよ!」
「なに、主人の命令もろくに聞き取れない出来損ないの下僕に仕置きをくれてやろうと思ったまでだ」
緩やかなウェーブを描く長い漆黒の髪を払い除け、尊大な態度で鼻を鳴らす。人外魔境の美貌が見下すような目であたしを見ていた。
その瞳は明らかに「感謝しろ、この愚民」と言っている。
「だ、誰が……」
ふるふると、あたしは全身を小刻みに震わした。
これまでずっと耐えていたけれど、無視して気付かない振りをしていようと思ってたけど、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「誰があんたの下僕だぁぁっ!!」
窓硝子すら割りかねないあたしの怒声が、びりびりと周囲に響き渡った。
◇ ◇ ◇
ことの始まりは、ほんの三週間前のことだった。
「ねぇねぇたいへんよぉっ」
あたしがリビングのソファーに寝転がって雑誌を読んでいると、可愛らしい舌っ足らずの悲鳴がどこか呑気にとてとてと近付いてきた。
「たいへんなのよ~、みすずちゃ――あうっ」
ぺちょんっ、と濡れた雑巾を落としたような音がした。それに続く、月夜のアシカが鳴くような、どこか物悲しい声。
ようするに足音の主は扉の前で盛大にこけていた。
(やっぱりこうなると思った……)
ほぼ予想通りの結末に、あたしはため息をついてソファーから立ち上がる。そしてリビングの扉を開けて、その前にうつぶせに倒れている小さな物体に声をかけた。
「ねぇ、大丈夫?」
「あう~、みすずちゃ~ん」
大きくてつぶらな瞳が涙目であたしを見ている。
その姿は雨に濡れたチワワか、百歩譲って幼稚園児にしか見えない。私は苦笑しながら百五十センチメートルに満たない小さな身体を抱えあげた。
「もう、しっかりしてよね。美登里さん」
そうやって自分の母に呼びかける。
そう。母親なのだ。
正直こんなのが一児の母だなんて、自分の親でもなければとてもじゃないけど信じられない話だ。
だけどもちろん継母だとか義理の母だとかではなく、正真正銘彼女はあたしの産みの親。
それでも毎日一度は、「よくぞ彼女が母親になんぞなれたものだよなぁ」としみじみ感心せずにはおられないのは、――不可抗力だと言うことにしておこう。
「ごめんね、ありがとうね、みすずちゃん」
ソファーにちんまりと腰をおろした彼女はちんと鼻をかむ。
こんな彼女だが一応はデザイン会社に勤めている立派な社会人である。本人は会社ではバリバリのキャリアウーマンなのよ、なんて言っているが、あたしは単にマスコット扱いされて可愛がられているんじゃないだろうかと常々疑っていたりもしている。
「それで、いったい何が大変なの?」
落ち着いたのを見計らってそう尋ねると、彼女は大きな目をさらに大きく見開いてぽんと手を打った。
「そうそう、すっかり忘れていたわ。実はさっきこんなものが届いたのよ~」
そう言って手渡されたのは、一通の薄っぺらい封筒だった。
差出人は都内の弁護士事務所。
その事務所の名前にはまるで覚えが無いし、ここ最近弁護士のお世話になった記憶も無い。
この時、なんだかひどく嫌な予感が意識の片隅を横切っていった。
しかも悲しい事に、こういう時に限ってあたしの予感は良く当たるのだ。
以前住んでいたマンションが火事になった時然り。
近所に愉快犯の切り裂き魔が出没した時然り。
もっともその予感が何かの役に立ったことは一度もない。
あたしは恐る恐る封筒の中身に眼を通し、そして思わず絶句してしまった。
その手紙はチェーンレターのように何らかの不幸を告げるものではなかったけれど、ある意味それよりずっと性質が悪かった。
そこにはあたし――片瀬美鈴が、莫大な遺産を相続したと書いてあったのである。