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後編

 セキュリティと言えば、電子的なあれこれの機器や、それを運用する警備会社から派遣されくる警備員などが、直ぐに思い浮かぶのだが、目の前の「これ」も、その一つには違いない。

 細身だが全体的に筋肉質なそのフォルムは、警備犬や軍用犬として知られている猛犬の筈だ。

 しかし、闇の中で不気味に輝く紅い眼とか、狼を思わせるシャープな体躯に纏わりつき、揺らいでいる炎のようなものは何だろう。

 俺達を待ち構えていた“それら”は、どう見ても普通のドーベルマンでは有り得なかった。

 いや、地上の生き物ですら無いように見えた。

「こ、これは?」

 俺が声を震わせて尋ねると、ライラエルは剣を思わせる冷たい口調で応えた。

「教えてあげますから、そこから出てきて下さい」

 あれ?

 我に返った俺は、ライラエルのスカートの下に隠れるように、その形の良い足にしがみついている自分に気がついた。

 ――もっとも、ひざ上二〇センチなスカートでは、隠れようにも隠れられる筈が無いのではあるが。

「い、いや、しかし」

 ただでさえ犬は苦手なのだが、これほどグレードアップした、不気味に沈黙する異類の存在を目の前にして、俺は震えを止められず、柔らかくて良い匂いのするライラエルの足にしがみつく手を離すことができない。

 地獄から沸いて出たような、恐ろしい存在が行く手に居た。

 俺は、本能的に悟った。

 地獄からの、つまりは、悪魔側の勢力が、救世主の受胎を妨害すべく、ついに現れたのだ。

 それはそれとして、ふと、思いついて、俺は視線を上に向けようと……

「いい加減に離れんかぁ~」

 ついに、ライラエルがキレたようで、しがみついている俺もろとも、足を横に振り回した。

 白だった事は確認できたが、詳細を見る前に、俺は吹き飛ばされ、近くに生えていた大きな庭木に後頭部から激突した。

 その剣幕に、ドーベルマンもどき達も一瞬ひるんだように見えたが、牙をむいて吼えようと……

 凄まじいまでの轟音が、ライラエルの形の良い唇から放たれたのは、その時である。


 気合とか怒声などと言うものではない。

 咆哮と言う表現すら生温い。

 まさに雷鳴とでも言うべきものだった。

「そのように、獣の身体を借りねば地上に出ることもできぬ奴ばらが……」

 ライラエルの光沢のある美しい黒髪が、生き物のようにざわつき、うねり始めた。

「このライラエルに手向かいしようと思うてか」

 その天使の言葉に、悪魔達は驚愕したようだった。

「わん(げぇ!)」

「わ、わわん(ラ……ライラエルだと!?」

「わお、わおん(天界の凶戦士!)」

 ドーベルマンの口から出る犬語(?)に、悪魔の声がオーバーラップしているように聞こえるのは、珍妙な感じであった。

 ちなみに、俺は後頭部に受けた打撃からさっさと回復して、庭木をよじ登って、枝に腰掛けていた。

 ブルゾンのポケットから取り出したポッキーをくわえながら、天使と悪魔の戦いを見物としゃれ込む事にする。

 最終戦争アーマゲドンの前哨戦を、特等席で見られるとは、らっき、である。

 しかし、ドーベルマンに憑依したとおぼしき悪魔達は、なんだか、ひそひそと内輪で話しを始めて、一向に戦いが始まる気配が無い。

「わおん(どうする?)」

「わん、わおわわん(相手が悪いよ、やっぱり)」

「わう~(だよなぁ)」

「わわんわん、わんわんわん(今回、脳筋天使を選ぶって、天界も何を考えているだろな)」

 不意に、だん、と、ライラエルが足を踏み鳴らし、犬達が一斉に飛び上がる。

「やるの? やらないの」

 無表情で言う、その口調は、いっそ優しいと言えるものだったが、込められた迫力は、先ほどの轟音よりも桁違いだった。

「きゃいん」

 ドーベルマン達は悲鳴を上げて、次の瞬間、ごろりと倒れた。


 ピクリとも動かないドーベルマンの様子に、俺はゆっくりと庭木を降りて、おそるおそる近づき、足の先でちょんちょんとつついてみた。

 今まで、間近で見たことはないが、ごく普通のドーベルマンのように見えた。

 しかも、熟睡しているようだ。

 悪魔達は、あっさりと退却したのだろう。

「もう大丈夫ですよ」

 ライラエルが微笑んで言った。

 美少女な外見に似つかわしくない「凶戦士」とか「脳筋」とか、大天使ガブリエルの後任になるまで、何をしていたのかが非常に気になるフレーズを聞いたように思えたが、あえて無視することにした。

 派手な戦闘シーンを期待していたのが、肩透かしをくった為に「つまらん」と言いそうになったのを必死でこらえたのは、もちろんのことである。


 そして、ついに。

 俺は、天使の導きにより、聖母候補となる少女が眠る部屋の前に(ディッシュの箱を抱えて)立ったのだ。



             ◇



 俺の名は、大妙寺輝だいみょうじひかる

 某三流大学に在籍中の、絶賛留年中で当然就職未定中、すなわち無職ニート街道驀進中の前途絶望な二十五歳だ。

 ついでに言うと、童貞である。

 しかし、天使の導きによって、いまここに、この、二十五年間、守りに守り続けてきた、操を神の前にささげる瞬間がやってきたのである。

 そう、俺は、人々を救うという、再臨のキリストを誕生させるために、つまり、人々の救いのために、この純潔を、汚さなくてはならないのだ。

 しかし、俺は悔いることはない。

 世界のために、人類のために、よろこんで犠牲になろう……


「いつまでも、いやらしい笑いを浮かべて立ってないで、さっさと済ませて下さい」

 という、声が、俺の夢想を突き破った。

 振り向くと、ライラエルが、イラついたような表情で俺を睨んでいた。

「いや、しかし、もう少し、この偉大にして崇高な瞬間というものを……」

「さ・っ・さ・と・済・ま・せ・な・さ・い!!」

 一語一語区切るような、有無を言わさぬ口調だった。

「やれやれ」

 俺はいかにも、仕方ないなと言う風を装って、しかし、その実、期待と劣情に胸を膨らませて、聖母となるべき少女が眠っているその部屋のドアを開け、いそいそと(ティッシュの箱を十個ほど抱えて)中へ入った。

 俺が部屋から出てきた時、ライラエルは、その美しい瞳を、驚いたように軽く見開いた。

「あ、あの、そのぅ、ずいぶんと、早かったんですねえ」

 困惑を隠しきれない声でライラエルは言った。

 たったの三分で、もう?

 声にはならない、そういう言葉が、美しい唇の上に作られるのが解った。

 俺はそっけなく答えた。

「何もしてないからな」

「え゛?」

 天使ライラエルは、妙に間の抜けた表情で、俺を見つめた。


 首が長ければ長いほど、美人扱いされると言うアフリカの部族の風習は、つとに有名である。

 太っている度合いと、美しさの度合いが、イコールの概念で堅く結ばれている国もアフリカだっただろうか。

 海外に眼を向けるまでもなく、日本でも平安時代の美女の概念は、現在とはかなり異なる。

 まぁ、美醜の感覚などは曖昧な一面があり、プチ整形や、ちょっと化粧しただけで非常に魅力的になるご婦人もおられる。

 俺がこよなく愛する二次元だって、描線ひとつで印象ががらりと変わるケースが多々ある。


 およそ、美醜の価値観は、人それぞれであり、そういう価値観に俺としては、文句を付けるつもりは毛頭ない。

 そして、俺には俺の価値観がある。

 別に、他人にそれを押しつけるつもりもないし、他人からとやかく言われて、それを曲げるつもりもない。

 その、俺の価値観の、許容値を最大限に拡張したとしても、俺は、このドアの向こうで股を広げてだらしなく眠っている女と性的交渉を持つことはごめんこうむる。

 つまり、ここの次女は、それほどのブスであった。

 おそらく処女である理由も、別に信仰熱心だからではなく、言い寄る男がいなかったからに違いない。

 ああいう女を相手に、二十五年も守り続けてきた童貞を喪失する気には、とうていなれなかった。

「ええっ、そんなあ」

 それを聞いたライラエルは、慌てたように言った。

「もう、他の女性をさがしている時間はないんですよ」

「やだ」

 俺はきっぱりと言った。


 ライラエルが、いかになだめ、すかし、あるいは、雷鳴のような声で脅しても、はたまた、せつなくなるような声で哀願しても、俺は、断固として首を横に振り続けた。

 あるいは、人類が滅びるかもしれない。

 だが断る。

 どうせ滅びるなら、さっさと滅びてしまえ。

 美少女アニメや、フィギュアに囲まれ死ぬなら本望だ。

 わがままとでも、自己厨とでも、二枚舌とでも、何とでも言うがいい。

 だいたい、俺のナニが、ぴくりともしないのでは、どうしようもないではないか。


 かくして、人類の存亡をかけた強姦……厳密には夜這いになるが、それは見事に失敗したのだった。



 アパートに戻っても、ライラエルはずーっと泣き続けていた。

 何でも、今回の任務は、成功すれば、大天使へと昇格するが、失敗すれば、全ての能力を封印されての地獄行きという刑罰が待っているんだそうである。

 地獄の悪魔達が、無力で美しい天使をどういうふうに扱うかは、容易に想像がついた。

 さすがに気の毒だとは思うものの、今更謝るわけにもいかない。

 俺は、ついふてくされたようにいった。

「だいたい、俺の好みというものを無視して決めるからいけないんだよ」

 ライラエルは、泣きはらした瞳で俺をきっと見すえて言った。

「じゃあ、どんな女性が好みだったんですか」

 俺は、そうきかれて、少し、首をひねってしまった。

「そう、だなあ、天使のような女の子かなあ」

 自分でそう言って、はたと気がついた。

 天使のような、どころではなく、天使そのものの女の子が目の前にいるではないか。

 いや、美しいことは美しいが、胸が無いし、色気も皆無なのでうっかりしていた。

 俺の視線に気づき、ライラエルは(なぜか)鳥肌をたてて、そして、勢い込んで言った。

「わ、私は天使です。残念ですが、天使には男女の性別って、ないもので…」

「男女の性別がないってことは、逆に言うと、どちらにもなれるんだろ」

「そ、そんなあ」

「地獄に行きたいか?」

 このひとことが、決め手だった。

 ライラエルは静かにうなずき、そして、先ほどよりも凄い勢いで、どおおおっと泣きだした。


「でも、何で、こんな格好に着替えなくちゃいけないんですか?」

 ライラエルが心細そうに言った。

 完全に女性化したライラエルが、ぼん、きゅー、ばん、なダイナマイツボディーになったのは嬉しい誤算と言うべきだろう。

 もっとも、俺は博愛主義な一面があるので、爆乳は無論、美乳でも微乳でもどんと来いなのではあるが。

 俺のコレクション(いいじゃないか)にあったナース服ではサイズが小さかったようで、胸とか腰周りがピチピチであり、いや、それがイイ!

 スカート丈も短いので、下着無し(むひひ)な格好では、心細く感じるのも無理も無い。

 実にけしからん印象を与える、文字通りの白衣の天使である。

 いや、セーラ服のままでも良いかとも思ったが、あえてコスチュームチェンジした俺の審美眼は確かだった。


 そして。

 いよいよ、俺とライラエルが(うひひ)やろうとした時のことである。

 なんの前触れもなく、しっかりと鍵をかけたはずのアパートのドアを開けて、地蔵菩薩が入ってきた。

「あ゛?」

 あまりのことに、俺とライラエルが呆気に取られてしまった。


 地蔵菩薩クシティ・ガルバ――釈迦の入滅後、未来仏である弥勒が現れるまで、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。

 装身具をつけた他の仏とは異なり、一般には僧形の姿で現される事が多い。

 ちなみに、装身具をつけた他の如来やら菩薩の服装は、釈迦の時代の、つまりは、古代インド社会における貴族の服装が元になっているとか、いないとか。

 インドにあるクシティ・ガルバ像とか、密教では他の仏と同じ格好なのだそうだが、目の前のそれは、外見だけは普通の、袈裟を着た僧侶な感じだった。

 しかし、その雰囲気とか、神々しさは、やはり人間のものではなかった。

「じゃまをして申し訳ござらぬ。じつは…」

 と、いいにくそうに、地蔵菩薩は言葉を続けた。

「再臨のキリストのついでで結構なのだが…弥勒菩薩も産んでは頂けぬかな?」

 弥勒菩薩マイトレーヤ

 先に述べた未来仏で、乱暴な括りで言えば、仏教にとっての再臨の救世主だ。

 しかし、あれは、かなり先……五十六億七千万年後の話ではなかっただろうか。

 確か、産まれる先の両親もしっかりと定められているはずである。

 少なくとも、俺とライラエルではないはずだ。

「いや、その、天使が子供を産むというチャンスはそうそうないもので」

 地蔵菩薩は頭をかきながら、そういった。

 「そう言った事情で、弥勒は、既に兜率天でウォーミングアップを始めております」


 天使の存在は、キリスト教だけのものではない。

 ユダヤ教やイスラム教の聖典や伝承に登場する神の使いの総称とされている。ちなみに、イスラム教では預言者マホメットに、神の言葉を伝える者として、大天使ガブリエルの名がある。

 まぁ、それはさておき、ユダヤ教の元となった旧約聖書はいくつかの神話や伝承が元になっているので、聖書系以外の神話にも天使の概念はある。

 ローマ神話のクピードー、いわゆるキューピッドも天使のような有翼の存在だし、仏教においても、四大阿修羅王のことを記述した教典で、花鬘阿修羅王と、龍王との争いのエピソードにおいて、天使のことが記されている。

 つまり、天使というのは全ての宗教に登場する高貴な存在なのだ。

 その天使が子供を産む、となれば、その子供を弥勒菩薩に、と言う地蔵菩薩の気持ちも解らないではない。

 しかし、「ついでに」というのは、いくらなんでもあんまりではなかろうか。

 俺は、ひたすら呆気に取られ、そして、ライラエルは開き直ったようだった。

「いいわよ、こうなったら、何でも産んでやるから」

「それはありがたい」

 と、いったのは、地蔵菩薩だけではなかった。

「ではカルキ神もお願いします」

「真人もお願いしますよ」

「第四の預言者も」

「あれも」

「これも」

 二〇十二年も何事も無く過ぎたばかりだというのに、救世主を待望する、ありとあらゆる宗教の使者が(訳のわからんのも含めて)俺のアパートに怒涛のように押し掛けてきたのだ。



 確かに世も末らしい。(まったく)

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