中編
神は死んだ、と、ニーチェは言った。
だが、神は存在する。
ただし、ときどき留守にする。
と、ゆーわけで、俺は再び、渋谷にやってきた。
「がんばってくださいね」
と言う、ライラエルの絆創膏だらけの手が痛々しかった。
理由は、俺が今着ているスーツにある。
俺が寝込んでいる三日間、看護の傍らにライラエルが縫ってくれたのだ。
これは、ライラエルが現れたときに身につけていたトーガのような衣装を仕立て直したものなのだが、さすがに天界の衣装は頑丈な生地でできているらしく、かなり苦労したらしかった。
もとが、もとだけに着心地は非常によいのだが、産まれてこのかた、こんな格好をしたことのない俺は、いまひとつ落ちつかなかった。
ついでにいえば、髪をきちんとカットされたことも落ちつかない原因のひとつだ。
これもまた、どこからか拾ってきたらしいヘアカタログの雑誌を見ながら、ライラエルが刈ってくれたのだが、ずーっと長髪でいたものだから、妙に風通しがよくなった感じで仕方がない。
「私に治癒系の能力があれば、その眼鏡もなんとかしてあげられるんですけど…」
と、ライラエルはすまなそうに言ったが、俺に不満のあろうはずがなかった。
天使なので、そういうのは魔法……と言う表現は不適切か、とにかく、超常的な能力で、あれやこれやをひょいひょいとできそうにも思えるのだが、元々の能力の向き不向きとか、色々な制約があるらしい。
まあ、ライラエルにしてみれば、俺が女の子に声をかけやすいように、そんな制約の中で、せいいっぱいの援護をしたつもりなのだろう。
ぱりっとしたスーツに、きちんと整えられた髪。
それだけで十分である。
半裸のアニメ美少女柄のシャツと、かかとのつぶれたぼろぼろのスニーカーはそのままなので、全体としてどういう印象になったか、いろいろ言いたいこともあったが、このさい口にはすまい。
微妙に地味な天使の援護を受け、俺は早速行動を起こした。
人々を救う、再臨のキリストを誕生させるために。
……とはいうものの、
「すいません、あなた処女ですか?」
と、いきなり尋ねたのはやはりまずかったかもしれない。
俺にそう話しかけられたOL風の女性は、ものも言わず、平手打ちをくれた。
「あのー、ぼくとまぐわってくれませんか?」
と言う台詞は、少し古風で、雅やかな表現だったと思うのだが、これを聞いた知的な印象の女性は、ハンドバッグの金具の部分を、俺の脳天にめりこませた。
「お願いです、ぼくの子供を産んで下さい!」
これは、俺の、祈りを込めた言葉だった。
この言葉を向けられたのは、一見おとなしそうな女の子だったが、反応は電光石火のスピードをきわめた。
ハイヒールの鋭いかかとが俺のみぞ落ちに突き刺さり、綺麗な爪が、俺の顔に表計算の罫線の様な溝を刻むという、見事な連続技である。
「少し、話しかけ方が、直接的すぎるんじゃないんですか」
顔を押さえてうずくまる俺に、ライラエルは呆れたような声をかけた。
「もう少し、段階を踏んで、説得するようにした方がいいとおもいます」
「なるほど」
〇.五秒で回復した俺は、次に声をかける女性を探してあたりをきょろきょろと見回した。
俺のあまりの回復の速さに、ライラエルがぎょっとしたのが、視界の隅で確認できた。
俺は、精神的なショックには脆いのだが、肉体的には(一部を除いて)ゴキブリ並みの強靭さを持っているのだ。
歩くベ○マズンとか、生きたエリ○サーとか呼ばれる時もある。
美しい顔を引き攣らせかけているライラエルにかまわず、俺は近くを通った、ボーイッシュな女の子に声をかけた。
「ちょっと、いいですかあ」
そして、「段階を踏んで、説得する」ために言葉を続けた。
「あなたは、神を信じますかあ?」
後ろの方で、ライラエルが(自分の立場も忘れて)ずっこけるのがわかった。
こうして、渋谷をはじめとして、青山、原宿、新宿、少し離れて、川崎、横浜、反対側にとんで、船橋、千葉、挙げ句の果てには、関西にまで足を延ばしたのだが、全くダメだった。
「信仰の心が、ここまで失われているとは」
いくつかのAV機器やPC周辺機器を電車代のために質入れしたり、ライラエルが掃除したりしたために、妙に片づいてしまったアパートで、俺は深いため息を突いた。
「信仰に篤い方はけっこういたみたいですけどね」
ライラエルの冷ややかな声が台所から聞こえた。
俺は一瞬、言葉に詰まったが、あることに気がついて、勢い込んで言った。
「ひょっとすると、これは、悪魔側の妨害かも知れないぞ。そうだ、そもそも、君の手違いってやつも、きっとやつらが仕組んだことに違いない」
「私は、まだ、自分の過ちを全て悪魔のせいにするほど落ちぶれてはおりません。それに、この件に関しては、今のところ、あちらからの干渉はありません」
急須や湯呑みの載ったお盆を、カーペットの上に直に、どん、と置きながら、ライラエルは言った。
「あー、うー」
液体窒素並みに冷たいライラエルの視線を浴びて、俺は、意味不明の言葉を呟いた。
「いいたいことがあったら、はっきりいったらどうです」
そこまで言われると、俺としても開き直るしかない。
「そもそも、生まれて、このかた女の子とまともに口を聞いたこともない俺に、あーゆーことは無理なんだ」
「だ・か・ら?」
ライラエルの言葉は短かったが、口調は、ボツリヌス菌の数万倍も毒々しかった。
超絶的に美しいだけに、そういうふうにいわれるのはひどくこたえた。
俺は、確かに、肉体的にはゴキブリ並みの強靭さを持っているが、精神的な強度はトウフ並みである。
特に、こういうのは致命的ですらある。
俺は、おもむろに押入の中に入り込むと、膝を抱えてうずくまり、壁の方を虚ろに見つめながら、ぶつぶつと訳のわからないことを呟きはじめた。
「ああん、ごめんなさい。いいすぎましたあ」
ライラエルは、泣きながら俺に取りすがり、必死で謝った。
「お願いですから、立ち直って下さい。もう時間がないんです」
確かに、もう時間はない。
今夜いっぱいがリミットだった。
仕方がないので、俺は三〇分程で、落ち込むのを打ち切り、立ち直ることにした。
◇
天使の発言は唐突だった。
「強姦することにしましょう」
時計の秒針がやけにゆっくりと5周する間、アパートのなかは無言だった。
セーラー服を着たライラエルは、人間にはとても真似のできない優雅さで、玉露を湯呑みに注ぎ、すっと、俺の前に差し出した。
俺は両手でそれを持ち、豊潤なひとときを楽しんだ。
ライラエルのいれるお茶は絶品だった。
清澄な緑の滴りが口腔を満たし、それが、ゆっくりと、喉の奥へと消えて行く。
至福、というのは、こういう感覚に包まれているときのことだろう。
俺はじっくりと時間をかけて、それを味わい、そして、淡やかな心残りと共に、湯呑みを置いた。
ふと、明日の天気のことを考え、そして、何も予定のないことを思い出して、苦笑いを浮かべた。
日はすでに落ちて久しい。
少し早いが、そろそろ寝ようかと、腰を浮かせた時、
「逃避しないで下さい」
と言うライラエルの、有無を言わさぬ声が俺を現実へと引き戻した。
「しかし、強姦、というのは…」
俺は腕をくんで、渋い顔をした。
「それ以外に、あなたの子供を、今夜中に受胎させるのは不可能です」
ライラエルは、淡々とした口調で言った。
強姦。
嫌がる女性の衣服をむしり取り、哀願の声を聞きながら、無理矢理に性的な行為を強いると言うシチュエーションは、正直、嫌いではない。
いや、むしろ、相手の同意を得た上で、普通にベッドで行為するなどは、面白くもなんともないと思っている。
やはり、草むらに押し倒したり、鬼畜な器具の並んだ密室に閉じ込めて緊縛したりして、穴と言う穴を陵辱するのが宜しい。
ダンジョンの地下とか、触手のような小道具があれば、なお、ベターである。
――無論、アニメとか、エロゲーでの話である。
だが、実際に、リアルの……三次元の女性にそういう暴行を加えるとなると、話は別だ。
実写のアダルトビデオの中に、いわゆるレイプものという分野があり、一度だけ見てみたことがあるが、生理的に全く受け付けることができなかった。
「あ、そうだ」
俺はあることを思いついて、言った。
「催眠術か何かで、俺のことを好きにさせるっていうのはどうだろう」
そうすれば、少なくとも強姦ということにはならない。
考えてみれば、ライラエルは、天界の住人である。それぐらいの超能力の一つや二つは持っていて、不思議はない。
そう思ったのだが、ライラエルは、ゆっくりとかぶりを振った。
「天界の住人と言えども、それはできません」
先に説明を受けた制約の問題かと思ったが、根本的に違うらしい。
地上に住む人間の意志は、あくまでも人間のものである。
天界は、人間を教え、導くことはできるが、それに従うかどうかは、人間の自由意志による。
真理へと至る道を示すのは、天界の役目だが、それを掴み取るのは人間自身の手によってではなくてはならない。
たとえ、そのために、苦悩することになっても、人間自身のことは、人間自身で決めなくてはならないのだ。
それが、言ってみれば、人間という存在に与えられた、絶対的な権利であり、神であっても、その権利を侵すことはできない。
ライラエルはそう告げた。
かつて、イエス・キリストは、「悔い改めよ」といった。
だが、悔い改めるか否かは、人々に選ばせたのではなかろうか。
また、イエス・キリストは、病人を癒し、死者すら蘇らせた。しかし、それらの奇跡は、あくまでも、人の肉体に対して行われたものであり、人の意志に対して奇跡を行ったことは無かったのではなかろうか。
聖書の中で、神は啓示を与えたり、預言者を遣わしたことはあっても、直接人の心を操作したことを示す記述はなかったように思う。
せいぜい、バベルの塔を人間が建てようとしたとき、言語機能を操作したぐらいだが、それでも、意志決定機能は人間のものであった。
例え人間が神に逆らっても、それを理由として、神が人間の意志に介入する事はない。
(そーゆー時は、例えば、ノアの洪水のように、みな殺しにしている)
それほどに、人間の意志、人間の選択とは、絶対的なものなのだ。
そうすると、こういうことになる。
女性に俺の子供を受胎する意志がない。
俺は、それでも、女性を受胎させねばならない。
つまり、女性の意志はともかくとして、俺は女性に性行為をしなければならない。
これを世間一般では強姦と言う。(なるほど)
そーゆーわけで、俺は、いやでも、強姦しなければならなくなったのだ。
(しかし、俺の意志はどーなるんだろ?)
◇
俺とライラエルは、田園調布の、ある邸宅の前にいた。
多少は下がったとは言え、都内の地価というものを考えると、資本主義の持つ、不公平な一面をしみじみと感じさせる豪邸だった。
ここの次女が、今夜聖母となるはずだ。
つまり、俺の強姦の相手、というわけだ。
まあ、言ってみれば私生児を産むわけだから、これだけ財力のある家庭なら、経済的な問題はないだろう。
「しかし」
と、俺は首をひねった。
「こういう所の、深窓の令嬢だからといって、処女とは限らないぞ」
むしろ、ずいぶんと遊んでるのではないだろうか。
「それは大丈夫です」
ライラエルは、確信のこもった口調で言った。
「ここの次女は、寝る前、朝昼晩の食前食後、一〇時と三時のおやつの時にも祈りを欠かさない、信仰熱心な方ですから」
祈りは必ず天に届いている。(それがかなえられるかどうかは別として)
いわば、祈りとは、人間から天界への通信のようなものであり、その通信ログをチェックした結果、ここの次女に決定したのだ。
そうライラエルは言った。
しかし、それだけ熱心な信仰の報いとして、手篭めにされるとは、あんまりではなかろうか。
俺は何となく釈然としないものを感じた。
どっちにしろ、人々が寝静まるには時間的にまだ早い。
かすかではあるが、人々の生活するざわめきが、しかし、はっきりと感じられた。
あるいは、夜通し起きている人もいるかもしれない。
これだけの屋敷だ、セキュリティも半端なものではなかろう。
そういった障害をどうやって、クリアすればいいのだろう。
俺のその疑問に、ライラエルは、自信に満ちた態度で大きくうなずいた。
「任せて下さい。ここの人たちには、今から眠ってもらいますから」
そういうと、ライラエルは、天使本来の形態に戻った。
頭上には、光輪が輝き、セーラー服のどこをどうしたのか、純白の大きな翼がぱっと広げられる。
そして。
天使は静かに歌いだした。
それは。
あるいは、祈りだったのかもしれない。
耳から聞こえるわけでもない、聖なる旋律が。
静かに。
ゆっくりと。
夜のなかへと浸透していく。
それにつれて。
人々のざわめきが。
消えて行くのが、はっきりとわかる。
ライラエルは祈る。
人々のために。
人々の救いのために。
再臨する救世主のために。
(つまり、清らかな処女を強姦するために)
天使の歌声は、もろもろの悩みを癒し、全ての生き物を優しい眠りへと誘うようだった。
俺はうっとりと、それに聞き惚れていた。
ときどき、ごちん、とか、どんがらがっしゃーん、とか、あまり、それにふさわしくない状況で、優しい眠りに誘われた人々の運命を知らせる雑音が耳に入ったが、全く気にならなかった。
そして。
いつしか、気がつくと、ライラエルは歌うのをやめていた。
「さあ、いきましょう」
ライラエルの言葉に、俺は黙ってうなずいた。
受胎告知の任を受け、しかし、様々な制約を課せられた天使が、唯一に許された“力”を行使する機会。
その貴重な一回を、ライラエルが使った事を、俺は理由も無く悟った。
この夜、新たな聖夜を祈る天使の歌声が、都内に音もなく響いた。
おかげで、居眠り運転をはじめとする様々な事故により、前代未聞の死傷者が出たのだが、そうと知ったのは、もっと後のことだ。
あくまでも眠りに誘っただけなんだからね。べ、別に、強制的に眠らせたわけじゃないんだからね――とは、それを知った時のライラエルの科白である。
最新式のセキュリティが施されている筈のその門は、ライラエルが軽くノックしただけで、あっさり開いた。
(叩けよ、さらば開かれん、か)
俺は、聖書の一節を思いだし、妙に納得した気分で、扉をくぐった。
そして、新たな聖母の眠る部屋へ赴くべく、広大な邸宅の敷地に足を進めた時、そいつらは現れたのだった。