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ひとりじゃ生きられない

作者: 光籏 好

 十七年間務め係長のポストにあった会社から、子会社への出向と言う形の事実上の降格人事で、転職を余儀なくされた大島裕也は、虚しい抗議をして反発した。

 しかし、受け入れなければ退職するしかない。気の進まない転職だったが、この年齢で辞めて、今とほぼ同じ条件で、慣れた仕事の就職先にすんなりつけるとは考えにくい。一人者なら辞表を叩きつけるのも、一つの生き方だったかもしれない。

しかし、裕也には十二年前に死別した妻、秋乃との間に、正弘と言う息子が居る。此処は…ぐっと我慢するしかなかった。

 息子の正弘は今、亡くなった妻の妹で尾道に住む美月と、その夫和雄と一緒に暮らしている。裕也は単身マンションを借りて一人暮らしをしていた。


 秋乃の突然の病死は、信じ難かったが現実は、受け入れざるを得なかった。皆が皆とまどいながら、まだ幼い正弘の行末を案じた。特に秋乃や裕也の両親は、「仕事に忙しい裕也が、幼い正弘を抱えての二人暮らしは無理ではないか」そう言って心配した。

 愛する妻を突然失った裕也は、自失呆然となりながら正弘は立派に育てて見せると秋乃に誓った。だが初七日を済ませ仕事に戻るまでに正弘の保育園を探したが、なかなか見つからず皆で心を痛めた。

 誰もが心配し…裕也も現実に引き戻され、これから先の転勤の多さも考えると、まだ幼い正弘を一緒に連れて暮らす事に不安を感じていた。そんな時に結婚して子供に恵まれなかった秋乃の妹の美月が、「正弘を預かりたい」と提案した。皆も、「それが、いいのではないか」と言う事になり、美月の夫の和雄も、「お兄さん、マーちゃんの面倒は私達が責任をもって見させてもらうから」と言ってくれた。


 親として正弘と別れ別れになるのは本意ではないが、今の状況では、それが、一番正弘の為に良いのではないか、美月夫婦に預けるだけだ。正弘は何所に居ても私の子供なのだ。と裕也は自分に言い聞かせ考えた末に苦しい選択をして、美月夫婦の申し出に甘える事にした。

 そして、美月夫婦は、秋乃の実家の近くにある美月夫婦の家に連れて帰った。秋乃が頭をよぎり複雑な気持ちで、裕也は寂しく正弘を尾道へ送った。

幼い正弘は、美月に抱かれて屈託なさそうに、「バイバイ」と裕也に小さな手を振った。その時、いくら忙しくても裕也は、都合をつけて出来るだけ多く正弘の居る尾道に会いに行こうと心に決めた。


 尾道の美月夫婦の元で可愛がられ、すくすく育った正弘も、もう高校に入った。これから教育費も養育費も多く掛るようになる。自分の思い通りに出来る状況ではないと、背に腹は代えられず裕也は子会社に移って行った。移った子会社は、今まで裕也も年に何回か来ていたので社員達は、ほとんど顔見知りと言ってよかった。


 子会社で扱う商品は、親会社で裕也が直接携わらなかった物もあるが、幸いある程度の商品知識は持っていた。その為か…今まで親会社に居たと言う、やっかみ所為か…子会社に移って早々、この会社の重要な得意先に、今までの担当者矢崎から、「これから貴方の担当になるから一人で行って下さい」と言われた。

 当然、「それは…ちょっと顔つなぎぐらいしないと、いきなり一人では先方の方に失礼では…」と反論はしたのだが…しかし、矢崎が「先方の中森さんには、電話で私は一緒に行けなと丁重にお詫びをしている」と言って譲らず裕也は、もう一人で行くしかないと思って初仕事に臨む事にした。

 だが、これから訪問して商談する商品は、一応の商品知識は持っているものの、裕也にとって交渉相手と対等に渡り合えるか、その自信はなかった。

「相手は、その道のプロ」であり裕也は、前もって商品知識を詰め込んだ。元親会社の係長としてのプライドにかけて弱みを見せる訳にはいかない。


 取引先に着いて、まずは制服姿の女性に案内されて商談室に通された。裕也は、これから現れる中森という交渉相手は、どんな人物だろうかと思った。女性の多い会社だが、バイヤーは男性だろうと決め込んで待った。

 裕也の思い込みが裏切られたのは、ドアが開いた時だった。書類ファイルを手にして入ってきたのは、制服姿の風格のある綺麗な女性だった。入って来た女性は、裕也に会釈して商談室に置いてあるパソコンを開き何か見ていた。

 見終えると、おもむろに机を挟んだ向かい側に来て、「いらっしゃいませ。お待たせしました。これから商品部担当として、お付き合いさせて頂く中森です」と頭を下げた。裕也は、立ち上がって名刺を差し出した。「これからお世話になります大島です。宜しくお願い致します」裕也は、弥生の手入れされた指と名刺交換した。「こちらこそ宜しくお願い致します。どうぞ、お掛けになって下さい」と裕也に座るように促した。

 矢崎に聞いた時から中森の苗字が気になっていた。中森の名に記憶のある裕也は思い出そうとしたが、思い出せないまま「中森さん…」と頭で反復しながら名刺を仕舞った。その名刺と共に裕也は、記憶まで仕舞い込んでしまった。裕也が、この中森の名を記憶から失くした事で弥生が悩む事になった。


 これが裕也と弥生の出会いだった。弥生はこの人私に気付いてない、そう思った。それならこっちから言うべきだろうか。プライベートだ、またいつか。弥生は迷った揚句、そう決めた。

 初商談この場面いつもなら緊張する事はないのだが、今日に限って心に迷いをもっている所為か少々緊張していた。緊張した顔は笑顔のない澄まし顔になっていた。その顔が裕也に、中森弥生と言う人は、美人にありがちな冷たい人。との第一印象を持たせた。

 裕也は警戒しながら言葉を選び選びの初商談に臨んだ。緊張のほぐれた弥生は、裕也が警戒している事が手に取るように分かり、そんなに警戒しなくてもと思った。最初の商談だから仕方ないか、そう思い応対し通常の受注が終わった。


 弥生は、これからの商談相手になる裕也と親しくなる為に、「コーヒーでも、如何ですか」と裕也を誘った。裕也は連れて行かれるままに、社内の通路を弥生の後を着いて行った。

 そこは社員食堂だった。休憩中の女性従業員が、五、六人お喋りをしていた。その中ほどに居ながら女性達の、お喋りに加わらず一人でぼんやりして居る女性が、目に付き何故か印象に残った。弥生が自販機にコーヒーを買っている、ごく僅かの間、裕也は、ぼんやりして居る、その女性を見ていた。

 それが住田房恵だった。


 弥生が自販機でコーヒーを買い裕也に手渡してくれた。五、六人の女性群とは少し離れて座ると、弥生が裕也の視線の先に房恵の居る事に気付いた訳でもあるまいが、「此処は女性の多い職場だから中に入れば、いろんな女性に会える。色とりどり男性から見れば天国だね…大島さん、気になる女性が居た」と弥生がニコリと笑った。

「まさか…そ、そんな中森さん、いい年の小父さんを、いきなり冷やかしっこなしですよ」

 一人ぼんやりして居る女性を一寸見ただけ、それを弥生は見逃さなかったのか、そんな筈はない。

もしも、裕也が房恵を見ていた事に、気付いて裕也に言ったのなら弥生と言う人は、どんな人物なんだろうか。


 裕也は、考えすぎだよと打ち消して弥生と向き合った。弥生はコーヒーを飲みながらこれまでの取引慣行など話してくれた。

 裕也に、なまじ商品知識や経験が有ると言う事で、これまで中森担当の販売課長の矢崎が、簡単な引き継ぎをしたまま、いざ会社を出ると言う際に、「相手の中森と言う担当者は、てごわいぞ」そう脅されて初めての商談に臨んだのだった。

 商談を終えて気を許した訳ではないが、裕也は中森弥生と言う人に、何故か親近感を持った。手続きをして社外に出た時、商談の相手が、弥生のような人で良かったと思った。


 脅されて出て行った会社に裕也が戻った時、矢崎を初め男性社員はニヤニヤ、女性社員はクスクス笑っていた。裕也は全員に聞こえるような大声を出して、「心配して頂いて有難う、矢崎さんに聞いた通り…中森と言う人は鬼面をかぶった怖い人でした。私が御相手した時は素顔でした。素顔はとっても美しい素敵な女性でしたよ」裕也はニヤニヤ、クスクス笑っている社員全員にそう言った。そう言って自分も大声で笑った。

 矢崎は、「鬼面…か、うまく逃げたなー。怖いと言ったら中森さんに告げ口してやろうと思っていたのに」と笑った。「あぁーあ…矢崎さんは、もっと良い人かと今まで思っていたのに本当に酷い人だ」裕也がそう言うと、また全員笑った。

 こう言うやり取りがあって、プライドが邪魔して気の進まないまま渋々着任した会社ではあったが、裕也はプライドを自分の中に仕舞込む事が出来、和んで居心地の良い会社になった。


 その後、弥生との商談には、裕也だけが行くようになって本当の担当者になった。弥生は、仕事の面では厳しかったが、いったん仕事を離れると優しかった。女性販売員の多いこの会社で、わが社の売れ筋商品、ユーザーの反応などを知る為にも、この女性達とのコミニケーションは欠かせなかった。

 弥生もその事は、よく承知していて商談が終わった後に、休憩中の人の多い時を選んで連れて行ってくれるという気配りをしてくれた。その多い女性の中に房恵もいた。ここに初めて来た時、お喋りをしている女性達の中で一人ぼんやり浮いていた房恵が、裕也の心を何故かとらえている。


 数カ月で商品、人の配置は一通り憶えた。余裕と言うほどでもないが、女性社員のほとんどの人達と冗談を交わせるようになった。そこで気になっている房恵の事を知りたくて、商品調査に託けて会話の中に入り、それとなく房恵に関する話題に耳をそばだてた。

 色んな人の話を拾い集めて見ると房恵の話し相手が、弥生である事が分かった。そう聞いてみると、なるほど房恵が、弥生と一緒に居る時には、よく喋り他の人と居る時と違い笑顔が多い事が分かった。

 はてさて困った。相手が弥生となるとストレートに聞く訳に行くまい、それでなくても弥生は、何かにつけて社内には目配りを怠らない人だ。その弥生に聞くのは、気が引けて房恵の事を聞くのを止める事にした。


 裕也は、房恵がどうして暗い顔をするのか知りたかった。こう言う事は、直接房恵に当たるしかあるまい。しかし、余計なお世話よと言われればそれまでの事。商談に行った時、意識して房恵に話し掛けるようにした。

挨拶程度の会話から徐々に、色々な会話を交わすようになり笑顔で応対してくれるまでになった。そうなると裕也は、一層魅かれて行った。もちろん房恵も裕也が、自分に気が有る事は分かっていた。

しかし今の房恵は、それどころではないと思っている。


 いつものように話しかけると房恵は、機嫌がよく笑顔だった。裕也は、思い切って誘ってみた。「住田さんは、お酒が好きだと聞きましたが、今度ご一緒に如何です」房恵は、首を傾げ、「誰に聞いたの…そんな事、中森課長」と聞いた。

「とんでもない中森さんは、口が裂けても他人の個人情報を、漏らすような人じゃありません」裕也が慌てて言うと、房恵は「なるほど…個人情報ねーふふふ」と笑った。笑った後に、「いいわよ。中森さんと一緒なら」そう言った。

 裕也は弥生が、どんな反応を示すか気なった。しかし裕也は、このチャンスを逃せないと思った。

「それじゃ、中森さんに勇気を出して誘ってみます」と裕也が言うと房恵は、「勇気が要るかなー、中森さん…て、そんなに怖い…ふふふ」と、また笑った。

 普段仲間内で笑う事の少ない房恵の笑顔を見て裕也は満足だった。


 さっそく次の商談日、商談後に裕也は、言いにくさを振り切って、「これはプライベートですが…中森さん、いつか都合のよい日に仕事を済ませて、お酒でも飲みに行きませんか」聞いた。

「お酒…うむぅー…そうね、お酒もいいか。そう言えば大島さんとは、まだ行ってなかったっけ。どうしようかな」と言って口元を緩めた。

 「中森さんも中々お強いと、お聞きしたもので…」弥生は笑顔で「そう…それって誰が言ったのかな」どっちともつかない眼差しで裕也を見た。「そうですよね。中森さんは、お忙しいから無理ですよね」裕也は、残念そうな表情をした。そして房恵の事は言えずじまいだ。弥生が笑った。

 「そう、諦める…。そう簡単に諦められないわよね…大島裕也さん」もしや、と思って裕也が迷っていると、「いいわよ…房恵と一緒に三人で行きましよう」弥生が悪戯っぽい目で言った。「なぁんだ、中森さんは、知っていたんですか…人が悪いなー」照れている裕也に、弥生は追い打ちをかけた「大島さんは私が、怖い女に見えるんだって…」弥生が笑った。

 「そんな事ないです。優しい女神様に見えています」裕也と弥生は、一緒になって大笑いした。


 三人で居酒屋に行った後は、より一層、親しみが増した。房恵を誘って二人で話す事も多くなり、弥生と一緒の時は、三人で話す事が自然に出来るようになった。そんな親しい関係にはなったけれど、その時は、弥生も房恵も裕也にとって取引先の女性、それ以上でも、それ以下でもなかった。


 一年が過ぎ、二年が経ち房恵が、徐々に明るくなってゆくにつれ裕也の心の中に房恵の存在が、大きく膨らんで行く己の心の動きに気づいていた。房恵も、それなりに裕也には、好感をもって接するようになっている。以前にもまして房恵と、もっと親しくなりたいと思うようになった。

 房恵の事を、もっと知りたくなって弥生に聞こうかどうしようかと迷っていた。弥生と商談した後、それとなく、「住田さんの事だけど」と、弥生に房恵の事を切り出した。


 弥生は、裕也の心配をよそに、ついに来たかと言う顔で、ニコッと笑った。そして、「大島裕也さん」と茶目っ気たっぷりにフルネームで呼んで、もう一度、悪戯っぽく笑みながら、「房恵に興味があるんでしょう…ふふふ」

 「実は、いや変な意味じゃなく」困った顔の裕也に、「いいのよ、貴方の房恵に対する熱い視線は、とっくに気付いていたわよ。ハハハハ」今度は弥生にしては珍しく豪快に笑った。「参ったなー…」と裕也は下を向いていたので、弥生の眼は笑っていないのに裕也は気付かなかった。

 「房恵はねー、今一人で、美香ちゃん、歩美ちゃん二人の娘さんを抱えて奮闘中。間違いなく只今独身…離婚した前の旦那さんと色々あって、中々ショックから立ち直れないみたい…元々は明るい子なんだけど」そう言って弥生は視線を浮かせた。裕也は、「そうでしたか」と頷いた。


 「元気づけてあげて、私も房恵が、何となく他人のような気がしなくてね」弥生はそう言って、しんみりとなって、「房恵って…どこか秋乃に似た所が有るんだよなー」そうポツリと弥生が洩らした。裕也は「秋乃…」と驚いて秋乃の名を呟いた。そして弥生を見た。

 弥生は、裕也に頭を下げ「ごめんなさいね、今まで黙ってて…」そう謝罪した。「でも大島さんには、早く気付いてほしかった。いつ気付いてくれるか最初の頃は待っていた」言葉の出ない裕也に、「中森と言う苗字に、記憶になかったのかなー大島さんは」と弥生は言った。

 「そうか…最初に中森さんと聞いた時、(何処かで聞いたような)とは思ったんですが」裕也は秋乃の身内に中森姓があった事を、ハッキリ思い出していた。弥生が続けた。

 「秋乃と貴方の結婚式にも、秋乃の御葬式にも海外に出ていて出席できなかったけれど…私、貴方の亡くなった奥さん秋乃の従姉なの」弥生にそう言われて裕也は思い出した。

 「そう言えば、いつか秋乃が話していた事が有ります。海が好きで(船に乗りたい)と言って商船学校に入った男勝りの従姉が居る…あっいや」裕也は慌てて、「優しい従姉が居ると…」言い変えた。

「言い変えたって、遅いわよ」と弥生が笑った。


 弥生は、今まで自分の事を、すべて知っていたのか。と思うと裕也は、余り良い感じはしなかった。弥生の言う通り。自分が早く思い出していれば、こんな思いはしなかった。と裕也は、反省もした。

 裕也は秋乃と結婚した当初に一度、秋乃に、「これは高校時代に従姉と撮ったのよ」と一枚の写真を見せてもらった事が有る。あの真っ黒に日焼けして髪を短くまるで男のように写っている従姉が、今、目の前に居る女性の中でも女性らしい弥生と同一人物だとは到底思えなかった。

「本当にごめんなさいね。長い間、別に黙っていようと思っていた訳じゃないのよ。ただ言って良いものかどうか言うタイミングが分からなくなって、すみません」弥生は本当にすまなそうな表情をした。

「それはいいんですが、驚きました。しかし、秋乃と房恵さんの事を、そんなふうに今まで見られていたと思うと、ちょっと照れ臭いですね」そう答えた。


 「貴方が来られる事を知って私も、少々うろたえましたよ。仕事と割り切ってお付き合いするしかない…そう思って今までいました」そう言う弥生に裕也は、自分が早く思い出せばお互い、こんな思いをしなくて済んだのではないかと思った。

 弥生と裕也は、互いに沈んだ気分になった。

その時、弥生が、「此処は景気付けに、また房恵と三人でパッと行きますか」裕也も、「そうしましょう」と約束して話を切り上げた。

 裕也が子会社に移った時から弥生は、自分と会う機会かあるとは思っていたが、まさか秋乃の夫と商談する羽目になろうとは思ってもみなかった。

しかし秋乃の事は、いつか言わなければならない事だったのだ。裕也は弥生が最初に言うべきか迷いに迷った結果だろう。と思う…そして言いだせずに房恵の事も見ていた。


 弥生は房恵の先輩で「房恵の困った時は相談に乗る」と言う関係で、あえて房恵が何も言わなくても房恵の気性から人となりまで知り尽くしている。とはいえ人の心は刻々と変わるもの房恵が今何を考えているかは、弥生とても分かる訳はない。

弥生と裕也の関係は房恵は知らない。また知らせる事もないと弥生も裕也も暗黙の了解をしていた。

 裕也は房恵の笑顔の中に心の底から笑っていない暗さを感じる事があった。弥生から…暗さの原因の一端を聞いて、もっと知りたいと言う欲求に駆られた。裕也は房恵に直接聞こうかと思った。しかし人に知られたい話ではない、しばらく様子を見る事にした。

 何故こんなに房恵に魅かれるのか…裕也には分からなかった。弥生は房恵が、秋乃に似ていると言った。そう言われてみれば似た所もないでもないような気がする。しかし秋乃は裕也の心の中で今も生きている。忘れた訳ではないが、男が一人で暮らしていれば柔肌が恋しくなる時もあった。


 弥生と三人で酒を飲み交わして以来、房恵と裕也の親近感は急に深まった。房恵は裕也が自分に気が有ると言う事は分かっていた。房恵も裕也が嫌ではなかった。だから裕也の誘いに乗って短時間だけれど会ってお茶を飲みながら二人で話をし話も弾んだ。

 房恵は、亭主と離婚して今二人の娘と三人で暮らしている事を自分の口から話した。

「母娘、女三人の暮らしも慣れてみれば楽しいものよ」と笑いながら言う姿に何の屈託もなかった。だが事情の一端を知っている裕也には、何となく寂しそうに見えた。


 裕也は職場での房恵も明るく変わって来たように思えた。弥生といつものように仕事の話を終え房恵の話になった。

「近頃の房恵ちゃん、目に見えて明るくなったね」と弥生が言った。裕也の嬉しそうに「中森さんも、そう思いますか」

弥生が笑みを浮かべ「うまくやってるみたいね。会社じゃまだ誰も知らない、貴方と房恵ちゃんが、お付き合っている事は…」

裕也は、「あたりまえですよ。お付き合いと言うほどの事でもないですよ、だけど人に知れたらお互い気まずいですからね」と言った。

「秘めた恋も楽じゃない」と弥生が言うと、「そんなんじゃないですけど、それより中森さん信じてますからね」と真剣な裕也に、「ハハハハ…それって口止め、口止め料高いわよー…うっふふ、嘘、嘘よ。大丈夫だから心配しなさんなって…」そう言うと、「あーびっくりした」弥生と裕也は一緒に笑った。

 一息ついて黙った裕也に、「今の貴方は、房恵にお熱が上がっている。そうか…でも女心は微妙だからね。心して頑張って」意味深にそう言った。

 それがどういう意味か、その時の裕也には分からなかった。何気なく裕也は弥生を見た。しかし弥生は、いつもの笑顔に戻っていた。

 秋乃の事も知りながら、裕也と房恵の仲が深まっているのを弥生は、どう言うふうに見ているのだろうか裕也には計り知れなかった。

弥生は、「ハイ、房恵の話は、これでお終い。じゃ先の商品の件、お願いしますね」と言った。裕也は、「分かりました手配しておきます」と答え弥生と裕也は、仕事の話をすんなり終わらせた。

 しかし、弥生が、房恵関して言った最後の言葉の真意は、分からぬまま聞き流して、その日は別れた。その後、房恵と裕也はいっそう親密になって行った。


 房恵は、夫であった滝井忠彦と離婚して元の住田性に戻った。そして美香と歩美二人の娘と暮らすようになって四年が経っている。

別れる時は、諸々言い表せぬほど精魂尽きるまで気を使いはたした。心もズタズタになたが、最近やっと心の傷が言えて、ようやく今また一人の女として立ち直り懸命に生きる姿は、綺麗に輝いて見えた。

 裕也も裕也自身の身の上話をした。

「秋乃と言う女性と結婚して正弘と言う息子が居ます。その息子の正弘が、まだ小さい頃、秋乃が急病で病死しました。小さいかった正弘を、尾道で秋乃の妹夫婦に預けてこれまで単身で働いています」と包み隠さず房恵に話した。房恵は、その話を聞いて素直に同情した。

「裕也さんは、私より何倍も辛い目に会われたんですね」房恵はそう言って「私もいつまでも過ぎ去った事に囚われず、これからは娘二人と三人で頑張って生きて行くわ」と裕也を見詰めてそう言った。

裕也は、その真剣な房恵の真顔が、けなげで愛おしかった。


 お互いに自分達のこれまでの経緯を話した後は、気心の知れた中年の一人者同士で話は弾んだ。ある時に房恵が、「裕也さん、裕也さんは奥さん亡くされて…今まで一人過ごしてきたんだよね」と裕也の顔を窺った。

 「そうですよ」とさらりと言う裕也に、「男の人って、色々遊ぶんじゃないの」と探りを入れた。「酒は飲むけど、そっちの方は」裕也は答えた。「奥さんを愛していたんだね」そう言って房恵は頷いた。「そう…もう十年以上になるなー」そう言って房恵を見た。房恵は、「もし、これから好きな人が出来たらどうする」悪戯っぽく言った。

裕也は真顔になって、「実は…居るんです。一人」と言って顔を崩して笑った。「本当に…」ニコニコ房恵が言う。「目の前に」冗談っぽく裕也が答え、「まあ、信じられない」と房恵が笑った。

 会話は、深刻にならないように気配りをした。そんなお互いの思い遣りが、心地いい二人だった。


 房恵は今親の持ち家を借りて、美香と歩美の二人の娘と房恵の三人で暮らしていた。娘達に何の咎もないのに親の都合で離婚騒動に巻き込んだ。房恵は、今も心の中で二人に謝まっていた。

 美香も歩美も、父の忠彦と房恵が一緒に住めなくなった事は分かってくれていると信じていた。だがしかし、美香と歩美がどのように思っているか本音のところは房恵にも分からなかった。両親の離婚について二人の娘は話す事はなかった。美香はもう分かる年頃だったが、歩美はまだ幼いのに黙ったままと言うのが少し気になった。


 住田房恵と滝川忠彦の結婚は、両家親族と友人に祝福された、ごくありふれた幸せな門出だった。

結婚生活も、二人の娘に恵まれ順調だった。十年間ほど続いた夫婦生活が、破たんしたのは忠彦に愛人ができたからだった。愛人の名は祥子と言い忠彦がよくコーヒーを飲みに行くお店の子だった。そして忠彦が、房恵や娘を捨て祥子との新しい生活を選んだ。


 房恵が忠彦の異変に気付いたのは、「この家には、俺の居場所がないようだ」と言いだした時が初めだったような気がする。その時は、「何でそんなこと言うの…此処は、あなたの家じゃない」何の気なしにそう答えた。

その後も、「房恵…お前は、仕事や娘が大事で、仕事と娘二人が居れば、俺なんか居なくてもいいんだろう」などと言う。「何を馬鹿な事を言ってるの」と房恵は、その時たしなめた。

それから後も、忠彦の不満めいた訳のわからぬ言動が続いた。

 房恵は直感的に、「もしや、忠彦に女性が出来たのでは…」と疑念は持ったものの、そんな馬鹿なと思った。忠彦は仕事で何かあって精神を病んでいるのではないかと房恵は、房恵自身の直感を信じたくなかった。しかし、房恵の忠彦を信じようと言う期待は裏切られ、案の定その直後に微かに着いた赤い紅がクッキリ付いたワイシャツを見つけた。


 忠彦は房恵が気付いていると知りながら理由をつけて外泊もするようになった。当然のことながら夫婦の仲も冷えきった。夫婦の会話もなく気まずい空気だけが家庭の中に流れた。その気まずい空気は、美香と歩美に敏感に伝わった。

 まだ小さい歩美は、美香に「パパとママ、仲が悪いのかなー」と聞いていた。様子が分かりかけている美香は、「知らない」と不機嫌になった。そんな美香を見て歩美は、口を尖らせて首を傾げた。二人の娘達は、親たちを観察しつつ厳しい目で見ていたのであった。そんな空気の中で娘達がどんなに心を痛めた事だろうか…


 房恵は彼女達の気持ちに、おもんばかって二人の前では、冷静に明るく振る舞ったつもりだが…果たしてその当時、冷静に振る舞えたかどうか分からなかった。結局、娘達には見透かされていた。

 房恵の頭の中は、「私は、忠彦が浮気をしなければならないほどに追い詰めたのだろうか…。何故こんなになったのか分からない」自問のどうどう巡りをしながら放心状態で居る時が多かった。

 だが、そうは考えても房恵には、承服できない。今まで忠彦を、そんなにないがしろにした覚えはない。それなりに大事に思って愛してきたつもりである。「それなのに」と思うと、むらむらと怒りが湧いて悲しかった。


 確かに房恵が、充分に忠彦の面倒を見られたかと言われれば専業主婦のようには出来ず、少なからず忠彦に負担をかけた事は否めない。しかし、それは房恵と結婚する時に忠彦と話しあい房恵が働きに出る事は承知の上で一緒になった。

 だから共働きの生活は、忠彦も充分に理解してくれているものと思っていた。当然のことながら房恵は、忠彦の言い分には強い違和感を覚え堪え切れないほど悲しかった。

そんなある日、房恵が仕事から帰って来ると忠彦が居間のソファーに座っていた。


 「早かったのね」房恵は、そう言ってテーブルの上に目をやった。「房恵、話がある」と忠彦が言った。房恵は、何が起こるか分かっていた。忠彦の座っているソファーの前のテーブルの上に、忠彦の署名捺印までしてある離婚届けの用紙が置いてあった。

 そこでまた、忠彦が今まで言ってきた不平不満を言うのか…と思いきや意外に静かに、「娘達が、もう俺達の不仲に気付いている」そう娘達の事にも触れながら「この状態で一緒に暮らすのは、お互いに無理だ。皆、不幸になってしまう…俺と別れてくれ」そう切り出した。

 房恵は、よくもまあ…自分が原因を作っておいて自分勝手に言えるもんだ。そう思いながら少々呆れて忠彦の言い分を聞き流していた。その間、房恵の視線は、テーブルの上に釘付けだった。忠彦の口が止まるのを待って房恵は、視線を上げ忠彦を真っ直ぐ見詰めて言った。

 「話は、それだけ…」不気味なほど静かな凄みのある今まで聞いた事のない房恵の声だった。忠彦は、房恵から視線を外した。房恵は続けて「あなた、理由はそれだけではないでしょう。他に…ある筈よね」そう言って今まで黙って、見ぬふりをしていた女性の存在に言及し忠彦を問いただした。

 忠彦が何か反論する化と思いきや、いともあっさりと女性の存在を認めた。公然の秘密とは言え、いざ現実に、忠彦の口から聞かされる羽目になると、一瞬…頭の中から血の気が引いて頭は、真っ白になっていた。次の瞬間には、怒りと悲しみが同時に襲って来て、その両方が増幅し眼に涙が滲んだ。


 忠彦が祥子と一緒になる為に、離婚を房恵に突きつけて家裁での係争は、十数年来築きあげた人間関係を、木っ端微塵に吹き飛ばした。別れ話を持ち出す一方で、「忠彦に何故こんな仕打ちを受けなければならないのか」思えば思うほど、忠彦を寝取った祥子と言う女への憎しみが、むらむらと湧いた。

 しばしば忠彦への不信と、祥子への憎しみが頂点に達して行き場のない感情が爆発しそうになった。房恵は、両親の前で昂る感情を吐露するのだった。両親にとって房恵は、幾つになっても可愛い娘、辛さも共有するように話を聞いてくれ、房恵の気持ちを和らげようとしてくれた。

いくら両親に話して幾許かは気持ちの整理が出来て、娘たちを守る為に戦う気力を養った。

 滝川の舅と姑は、孫の美香と歩美をこよなく可愛がっていた。離婚に際して孫は、手放したくないと忠彦の親権を主張した。房恵が一歩も引かないのを見て孫を、忠彦の方に引き取る手続きを家裁に持ち込んだ。


 房恵は何があろうと絶対に娘の二人は、祥子には渡せない。娘達も祥子と一緒に暮らすのは嫌だと言った。娘達は房恵と一緒に居るのが、当然だと思い三人で房恵の実家に帰ったのだ。それを見た滝川の舅姑は、忠彦と一緒に家裁に持ち込んだのだった。

 房恵は生まれて初めて鬼になった。

 今まで自分を抑えて、忠彦や舅姑に仕えてきたつもりだ。それがこの仕打ちか…房恵の怒りは燃えあがった。

 それに房恵が離婚するに際して「美香と歩美は房恵が親権をもって引き取る」それが条件だった。忠彦も房恵との話し合いで同意しておきながら、両親に説得されたのだ。房恵は、忠彦の優柔不断さは良く知っているが、約束を反故にしてまでの今回だけは絶対に許せなかった。

 家裁に持ち込まれても、房恵は「裏切られたのは私の方」どう転んでも、向こうの言い分に整合性があるとは考えられない。


 房恵には住む家も仕事も持っている。経済的にも何ら引き下がる余地なんかなかった。離婚当初は、憤懣やるかたない思いで、怒り心頭し「私一人でも美香と歩美は、立派に育てて見せる」と見得を切った。その時の房恵は、滝川からの養育費など頭の隅にも置いてなかった。

 しかし、家裁に持ち込まれ、やがて離婚調停となろう、そうなってよくよく考えてみた。どうせ房恵と忠彦はお互い傷つけ合わなければならないだろう。

 ならば今後、また諍いにならないように、いかに自分の正当性を主張して我が方に、有利に持って行き今後の事も考え養育費を含め家裁で適正に調停してもらう事にした。

 そして、すべてスッキリさせた方がよいと思った。

 家裁の調停は、ほぼ房恵の思い道理になった。調停は思い通りになるにはなったが、忠彦が祥子と言う女を選んだ。その事実が、房恵のプライドを大きく傷つけた。


 忠彦が祥子に奪われたのは、房恵の所為ではない。それは家裁も認めてくれた。そう思うと余計に腹立たしさと情けなさで落ち込んで行った。そんな房恵の両親、とりわけ母の民子は心配した。

 実家の両親が用意してくれた家で、美香と歩美が待っている。房恵が帰ると美香も歩美も、けなげに以前より明るく振る舞おうとしているのがよく分かった。

 彼女達は、あの年で気遣っているのだ。歯を食いしばって父親のいない寂しさを乗り越えようとしているのだ。

 こんなにしてしまった自分達が親として恥ずかしい、房恵はそう思った。そして、この子たちにとって掛け替えのない祖母祖父、住田と滝川の四人の親達を巻き込んでの争いごとに、まだ子供の美香と歩美を引き込まざるを得なかった。

 致し方ないとは言え、この親の醜態をさらけ出す争いごとの原因に何の関係もない。理由は何にせよ親の都合のいい身勝手な言い分を通す為に争っているにすぎなかったのだ。房恵は美香と歩美に心から詫びるしかない。

 だけど房恵は「いつかは分かってくれるだろう、分かってほしい」そう叫んでいる自分を見ていた。


 房恵は、忠彦との別れ話が出て家裁に持ち込まれたその時も、有休を使いながら仕事は続けた。職場の同僚たちも、知っていながら面と向かって言う同僚はいなかった。だから、同僚が房恵の話でなくても、ひそひそ話していれば、もしやと気になり余り気持ちの良いものではなかった。

 そして悪意はないにしても、この手の話は、独り歩きして面白おかしく流布されて行く事は分かっていた。房恵は気にはなったが、自分の力で止められない以上、甘んじて受けるしかなかった。

 一日一日、神経を擦り減らすような日々が続いていた。その時に「房恵ちゃん、飲みに行こうか。一晩ぐらい、お婆ちゃんかお爺ちゃんに子供達を預けて…ね」そう言って誘い話を聞いてくれたのが弥生だった。


 房恵は飲むほどに酔うほどに、気を許した弥生に理不尽な出来事を、繰り返し繰り返し話した。弥生は房恵が言う事を頷きながら聞いた。双方とも酒は強く乱れる事はなかったが、房恵は酔った勢いで、「中森先輩に、何が分かると言うの」と言った。それに答えて弥生は、「房恵の気持ちか分かると言ったら嘘になる。貴女の気持ちを聞いて私の昔を思い出している」そう言った。

 そう言う弥生に、房恵は聞いた。「先輩も離婚経験が有るの」少々驚きの表情をした。「うわぁー驚く事はないでしょう、失礼な…こう見えても私にだって女よ。男性を、好きになって恋愛して辛い別れをした経験はあるわよ。結婚しなかったから離婚の経験はないけどね」弥生はそう言い房恵と話を合わせた。


 職場に弥生が居てくれるので、房恵はどんなに心強かったか。そして家には愛する掛け替えのない娘達の美香と歩美が居る。房恵の事も含めて孫たちの事を心配してくれている両親の為にも、過ぎ去った過去に囚われ落ち込んでいる訳にはいかない。

 気持ちを奮い立たせて生きて行くしかないと、自分に言い聞かせた。そして母娘三人生きて行く為に職場と家を行き来する毎日が続く。


 仕事に没頭している時はいいが、一人になって一息つくと係争中の出来事が甦る。信じていた人に裏切られる悔しさ、皆が皆、己を有利にしようと相手に浴びせる言葉の応酬。忘れようにも忘れられない出来事もあった。

 祥子に一度だけ会った時も、祥子は「忠彦は、もう貴女とは一緒にいられないんだって」そう口火を切って、房恵の至らなさを、ある事ない事あげつらい、まるで見てきたように事ここに至った非が全て房恵にあるかのように言い放った。

 その祥子の顔が、時々頭浮かび言い知れぬ怒りが込み上げてきた。そんな房恵を、我に戻してくれるのは、娘の美香と歩美だった。


 三人暮らしの生活にも慣れた。以前にも増して、娘達二人は明るく振る舞う。二人が気を使っているんだなと思うと、そのけなげさに房恵の心が痛む。一方で娘達が優しく育っている事が嬉しかった。日を重ね娘達との三人の生活にも慣れ、穏やかな日々を送る事が出来るようになっていた。

 だが房恵は、まだ忘れる事は出来ず、あの歯に衣着せぬ言い合い、夫婦の恥部までさらけ出し本性をむき出し争う修羅場は、苦々しく思い出すのだった。

 修羅場の渦中で仕事に行く為に、試みた修羅の自分の姿を必死に隠し、表面取り繕い出勤した苦しさからも抜け出した。ようやく房恵は、職場で日々平凡に過ごしていた時のように、自然に振る舞う事が出来るようになった。


 房恵に対する噂話も時には出るが、それも受けて流して一緒に笑えるようになった。房恵の気持ちが、ぐずぐずくすぶり続けているのに対して、日一日と、たくましく成長して行く美香や歩美の方が房恵より、よほど大人ではないかと思い度々苦笑いした。

 どんな事があっても、この娘達二人を一人前の大人に育て上げるまでは頑張らなくてはと仕事に精出す日々は続いた。


 あの苦しみの中を忠彦と別れて以来、当分の間は、もう男何んてと思っていた。けれど裕也と知り合って、お酒も一緒に飲み話す機会が多くなった。

 それが度重なるうちに房恵は、裕也に魅かれている自分に気付いていた。「だめだめ」裕也とは、このまま話し相手でいようと自分に言い聞かせた。

 こんな気持ちになるのは房恵が過去から脱却した証しと言えるのだった。


 仕事から帰り娘達との夕食を終え、美香と歩美を先にお風呂に入らせた後、房恵はゆっくりとお風呂に入った。今まであまり気にもしなかった自分の体の変化に、お湯をかけながら「まだまだ、そんなに悪くないな」と思った。

 まだ湯冷めしてない所為か、布団の中に入っても体は火照っていた。その体は、房恵に女の顔を思い出させていた。「ないんだよなー」寂しさを感じて、裕也や忠彦を思って眠れずに寝返りをうつ。そして浅い眠りで朝を迎えた。カーテンは、もう明るくなっていた。


 「しまった」と時計を見る…飛び起きて大急ぎに身支度をした。寝室を出て子供達の寝室のドアの前を通り下に降りた。美香も歩美もまだらしい「ふぅー」と胸を撫で下ろす。

 住田家の朝は、三人で暮らすようになって母娘が揃ってワイワイガヤガヤ賑やかに弁当を作った。それが、ルールになっていた。房恵がキッチンでエプロンをかけた時に娘達が起きてきた。「セーフ」と房恵か呟くと、二人の娘が「何が」「何が」と聞いてきて、いつもの賑やかな朝になった。


 一緒に朝食を取って娘達は学校へ、房恵は職場へと出かけて行く。美香も歩美もショックを乗り越え明るく屈託ない様子で出掛けて行く。見送る房恵に「もう、あの娘達が居れば何もいらない」そんな思いにさせる一瞬だった。

 そして、その思いを胸に房恵は、出勤して行く。「美香、歩美二人の娘達の為にも自分がしっかりしなければ」その一念を、働く活力に変えていた。会社に行く足取りも重くはなかった。

 

 房恵本人は気付いてなかったが、とりわけ裕也と知り合って、二人で一緒に居る時間を持つようになってからの房恵は、裕也が会社に来る日や、裕也と二人で会える日は一段と足取りは軽やかだった。

 それだけ忠彦が抜けて痛々しく、ポッカリ開いていた傷口が癒えてきたのだ。忠彦と別れて以来これまでは、過去を振り返るだけの房恵が、ようやく前を向いて歩き始めたのだった。そんな房恵の気持ちの変化が、裕也にも伝わって来た。


 いつものように短い時間、二人は会った。二人で会う店は、二人だけの秘密の場所になった。そして近頃は、お互いの呼び名も「房恵ちゃん」「裕也さん」と親しみを込めたものになっていた。

 曜日は不特定だが、週一の割合で頻繁に行きつけの秘密の場所に通うようになった。


 「早いねー親しく、こうやって話するようになって…もう三年か」裕也がいつもの店で、コーヒーを一口飲んでそう言った。「あら…まだ二年足らずよ」房恵が言い返すと、裕也は少し考え…「そうだっけ…そうか…房恵ちゃん、今度二人一緒の休日を都合つけて昼間ドライブでもしないか」

 裕也は、親密になってから今まで言おう言おうと思い続けて喉元まで出かかっていながら飲み込んでいた言葉をとうとう口にした。

 それが、どうすると言う意味か房恵にも分かっていた。


 裕也は断られると思い、断られた後のバツの悪さが頭をよぎった。房恵は、うつむいた。

房恵は裕也の気持ちは痛いほど分かっていた。房恵自身も、いつ言ってくれるか気持ちのどこかで待っていた。

だから断る理由はなかった。すんなりオッケーをしてもよかったのだが、そこはそれ女の性と言う奴で、少々男を焦らすのは当り前のこと「すぐに誘いに乗って軽く見られたくない」と言う事だった。

 しかし房恵も、裕也と同じ気持ちなのだからと、うつむいて考えていた顔をあげ「いいわよ」そう答えた。


 裕也は房恵の返辞が、どんなふうに返ってくるかと待っていた数秒間が長く感じられ落ち着かなかった。うつむいていた顔をあげ「いいわよ」と言った房恵が愛おしかった。今まで思い続けてきた裕也の懸念は、払拭され胸のつかえが下がった。

 早々に「どこが、いい。日帰りで適当な所は」房恵に聞いた。房恵は「私には分からないから裕也さんに任せる」と裕也の顔を立てた格好にした。裕也は今までにない甘いコーヒーを飲みほした。実際に房恵は、いきなり何所と言われても答えようがなかった。

 裕也は、もう少し一緒に居る心づもりでいた。房恵は「じゃ…調べといてね」そう言って席を立った。「まだ時間が早いよ」裕也は房恵の顔を見た。


 その日、房恵は美香に買い物を頼まれていたのだ。裕也に、その事は話さず「おやすみの調整もしなきゃね」そう言い残して店を出た。何も知らない裕也も、房恵を追って店を出た。別れ難い気持ちだったが、送って行く訳にもゆかず、なすすべもなく店の前で房恵の後姿を見送った。

 房恵はその日、頼まれた買い物を済ませ美香と歩美の待つ家の入口まで辿り着いた。辿り着いてドアの前に立った時、何故か手串を入れていた。いつもするしぐさではない。家の中に入っても、落ち着かない自分に気付いていた。

娘達の父親以外の男性、裕也を受け入れようと二人の気持ちを通わせた事で、後ろめたさを感じているのだ。しかし母親だって一人の女、まして離婚して、もう時は充分に経っている。「私は、まだ女盛り」

 今はまだ娘達には、理解できないだろうが、女性として男性を好きになって付き合たっていいではないか。房恵は、開き直って気持ちを整理した。そして「いつもと変わらず平静に」と自分に言い聞かせた。


 幾日か経って、裕也との約束の日が来た。約束をしてからこの日まで、房恵は「これでいいのかしら」と母と女の狭間で揺れた。しかし、これから裕也と会えると思うと、もう迷いはなかった。

 三人暮らしを始めて数年が経つ。その間、娘達二人に言えぬ事で、口実を作って出掛けることなど一度もなかった。今朝は何と言おうかと前日まで考えた。そして前日の夕食時…

 「明日は休日なんだけど、お仕事仲間と出掛ける用事が出来たの。いつもの定時の時間には帰って来るからね」あながち嘘ではないが、いささか後ろめたさを感じた。

 裕也との逢引きを美香と歩美に気取られぬよう、いつもと変わらぬように家を出る事に集中した。


 裕也は、いつもより早く目覚めた。早く目覚めて時間が経つのが遅く感じながら待つ…待ち切れず、少し早めに駅の近くのパーキングに着いた。そして車の中で房恵を待つ事にした。待ち合わせの時間が近づいてくるにつれて一抹の不安がよぎった。「もしや…気が変わってはいまいか、この場所がすぐに分かるだろうか」

 裕也は房恵にケータイをした。「もしもし」房恵の声だった。「今何所に居るの」裕也が聞くと「電車を降りて、そっちに向かってる」「ここが、すぐに分かるかなー」「場所は知ってる。近いからすぐに行く」「外に出て待っていようか」「貴方の車、知ってる。だから車の中で待ってて」

 房恵の言う通り…見通しのきくパーキング内。迷わず裕也の車に房恵は、やって来た。房恵か助手席に乗って二人はアイコンタクトを取った。


 あらかじめ行く先は決めてある。房恵の帰宅時間から逆算すると、余りのんびりともしていられない。裕也は車を走らせた。もちろん行く先を告げられている房恵に異存はない。車中での会話は、お店での会話とは違い、途切れがちでぎこちなかった。

 一時間足らず走ったであろうか、車は高速から降り市街地へと向かった。二人の乗った車は、街外れのホテルの中に姿を消した。


 裕也と房恵は部屋に入り二人きりになった。二人はどちらからともなく唇を求め合い久しぶりに男と女になった。ベッドに移って思いを遂げるべく絡み合い激しく相手を求める。二人の荒々しい悶えるような吐息、その息が幽かな声になって小さな部屋に響いた。そして抱き合ったまま余韻に浸った。

 時間が過ぎるのが早く、もう少し居たいと思った。しかし帰着の時間を見計らってホテルを出た。

まだ太陽は、やや傾いた程度のように思え日差しが眩しかった。


 車は帰路に就き元来た道の反対車線を、ひたすら走った。あっと言う間に元のパーキングに着いたような気がする。人か居なかったので、軽く唇を合わせ房恵は駅へと向かった。駅へと向かう人々に紛れ建物の影に隠れて、房恵の姿が見えなくなるまで見送って車を静かに動かした。

 裕也は愛おしさの余り「帰るのは同じ方向だから一緒に帰りたい」事情は分かっていながらそう思うのだった。

 房恵は電車の中で時計を見ながら、もう夕食の買い物の事を考えていた。「今からならスーパーによって買い物もできる。夕食には充分に間に合う」と出掛けに娘達に言った時間を、たがえる事はあるまいと思った。


 スーパーによって娘達の、好みの夕食を作ろうと買い物をして帰った。いつもと同じように帰る事だけを考えていた。ただ、いつものように帰ればいいものを、やはり房恵の良心の呵責だろう気を使わなければ帰れなかった。

 その夜も三人の、いつもと変わらぬ賑やかな食事に房恵は、何はともあれ今日は凌いだと安心したのだった。

 だが、偽って出て女の性を通した事に、ちょっぴりだけど後ろめたさが無い訳ではなかった。最後にお風呂に入りベッドに身を横たえる。この一人だけになった時、裕也の残り香を肌に感じながら房恵は、久々に満ち足りた甘い疲労感で眠りに着いた。


 一方裕也は、行き付けのコンビニで弁当と酒のつまみを買って一人のマンションに帰っていた。テレビを見ながら弁当を食べ終えて、買ったつまみを肴に酒をちびりちびりと口に運んでいた。テレビは付いていたが、何一つ頭には居るでもなく上の空で通過していた。

 今夜の裕也は、房恵で頭がいっぱいと言ってよいほどだった。そして気持ちよく房恵と酒に酔って眠りの中に吸い込まれて行った。

 早く眠ったせいか夜更けに目が覚めた。だがすぐに…これから先、息苦しいほどの緊張感の中で房恵との逢瀬が続く事を夢見ながら、また眠った。


 住田家は、何も変わらぬ朝が続いていた。そして、いつもと同じ朝を迎えていた。ただ妹の歩美がいつもの元気がないのが気になった。「歩美、どうかしたの…元気がない。ちょっと来てごらん」そう言って歩美のおでこや頬に手を当てて「熱はないようだけど測ってみる」と言った。

 「いいよー、何ともないから。じゃ行って来るね」そう言って歩美は美香と一緒に家を出た。その時はまだ、母娘三人家族の穏やかな生活や、それを取り巻く人々を巻き込む予期せぬ事態が進行しつつある事に、房恵は気付いていなかった。


 裕也と房恵は、仕事がらみで度々顔を合わせた。人目を気にすることなく自然に振る舞おうとした。しかし何事もない他人顔を装おうとして挨拶するが、自然にアイコンタクトを取っていた。事情を知っている弥生が見れば、二人の姿は何となくぎこちなく見え苦笑したかもしれない。

 裕也と房恵は、以前と同じように、いつもの店で会った。裕也は時間の短さに物足りなさを感じていた。房恵には家で待つ娘達が居る。裕也と会う時間が長引くと娘達の事の方が気になった。


 裕也の心に房恵が住み着いてしまった。暇になると房恵の事が頭に浮かび愛おしくて堪らなくなった。そして次に会いドライブに行けるる日を待っている。オープンな付き合いではないので仕方ないと思いながらも、待つだけの日々は長かった。

 二人の折り合いのつく日は、当然の事ながら房恵の都合に合わせた。二回三回と逢瀬を重ねた。三回目の時、ベッドの上で体を求め合った後に裕也の腕からすり抜けた房恵は、衣服を身に付けた。そして房恵がポッリと言った「もうこれで、お仕舞いにした方がいいのかなー」予期せぬ房恵の言葉に裕也は戸惑った。


 「俺の事…嫌になったの」裕也は聞いた。「そうじゃないけど」と房恵は曖昧だった。裕也は、それ以上問い詰めてはいけないと思った。だが、「嫌でなかったら、やっぱり時々はこうやって逢いたいな」そう言った。房恵は、にっこり笑顔を見せただけだった。

 その笑顔を、自分の言った「逢いたい」と言う了解の返辞だと裕也と受け止めた。このまま房恵との関係を続けられるものと思っていた裕也は、その後も房恵を誘ったが、房恵はのらりくらりと言い逃れをして応じなかった。


 房恵の態度が変わり、裕也と距離を置くかに思えた。時が経つにつれて裕也はイライラして来たけれど落ち着いて考えて見れば「これからも逢いたい」と言った時に黙って返してきた房恵の笑顔は、了解ではなかったのだ。

 房恵の気持ちを確かめもせず、裕也の独りよがりの思いにすぎなかったのである。房恵の今置かれている状況は、裕也のように何事も自由に出来る気楽な一人暮らしではないのだ。


 離婚して母娘三人が仲良く暮らしている家族持ちの房恵は、裕也とは全く環境が違うのだ。今の房恵は女である前に美香と歩美の母親なのだ。よしんば房恵と合意の上で、裕也が二人の関係を続けたいと思っても今のまま永続できるとは思えない。

 それは房恵が母としての顔と、女としての顔を秘密裏に使い分けると言う事である。房恵が躊躇するのは、裕也にも分かる気がした。


 房恵にとって裕也は、あくまで信頼と言う危うさの上に成り立っている異性。それ以上でもそれ以下でもない。その前に房恵は美香と歩美の切っても切れない母親なのだ。

 その親子を丸抱えする包容力も、養う甲斐性も裕也にない以上、裕也は現実を注視し受け入れなければならなかった。思えば思うほど裕也は、無力感を感じざるを得なかった。

 去りながら愛おしい房恵に変わりはなく「また逢いたい」と言う欲求は、時間が経つにつれ強くなっていった。


 二人でいつも会う店でも、会うのが遠のきがちななっていた。声をかけて店で会う事にした。そこで迷いながら裕也は、思い切って誘った。房恵も久々にその気になった。

 だが約束の日の前日になって房恵が、「ごめん明日は、行けなくなった」そう言ってきた。「どうして何かあったの」裕也は聞いた。「うーん…下の娘がね…ちょっと」房恵が口籠った。

 裕也は聞いても仕方ないと思いながら成り行きの勢いで「ちょっとじゃ分からないよ」と言ってしまった。言った後、裕也の不安は増幅して行く。

 「これー…言わなきゃいけないかなー」房恵の困った様子に、裕也は返す言葉がとっさに出てこなかった。やっとの事で、「言えないのなら無理に言わなくてもいいよ」平静を装って答えた。

 房恵が、すまなそうに「ごめんね、約束したのに…本当に、ごめん」そんな房恵の声を聞いた裕也は「じゃ、またね。今度会える時を待っているよ」と優しく言う、「うん、じゃ…」房恵は、すまないとも残念とも取れる反応のように聞こえたが、それは裕也の願望が聴かせた幻の声だったのだろうか。

 房恵に娘達の事を持ち出されても、それが病気であろうと何か問題でも起こしたにしても、今の裕也には、房恵を支えて力になってやる事も出来なかった。


 誰にも知れてはならない二人の仲なのだから、そこに隔てる壁が存在しているのは仕方ない。成すすべも無く無力感をどうする事も出来ず、裕也は立ちすくむだけだった。

 房恵にとっては、娘達との生活が最優先で、美香と歩美が大人になるまでは何が起ころうとも守らなければならないのだ。

 房恵は多感な思春期の娘達に裕也の事は、噂にも聞かせてはならない。それには裕也と会わなければいい。そんな事は分かり切っている。でも、「裕也と逢いたい」と思う気持ちは、まだ心の底に残っていた。自分を愛してくれる裕也は失いたくないのだ。

 そんな裕也との約束を、心ならずも断らなければならなかったのは、次女の歩美が忠彦の所に行って一晩帰ってこないと言う事態が起こったからだ。


 母娘三人で暮らし始めて、こんな事は一度もなかった。歩美は何処に行ったのだろうか夕食を作る前には必ず帰って来ていたのだ。それが夕食の時間がきても帰ってこない…房恵は慌てて探した。もしかして、美香が知っているのではないかと思い、「美香、何か聞いていない」と聞いた。

 美香は、「私あまり詳しい事は知らないけれど…歩美は、パパが大好きっ子だから…」そう答えた。「そうね」と房恵は言ったものの…いくらパパが好きでも、あの祥子の居る家に行く筈がない。

 何かが起こっているのは確かだ。「ママ、警察へ相談してみるわ」意を決して房恵が、うろうろ、うろついていた足を止めた。

 「ママ待って」と美香が慌てて止めた。


 美香は言うか言うまいか迷った。これを言えば房恵が、怒る事は必至だ。美香は歩美が忠彦の所に行ってると思っている。今、房恵に警察へ連絡でもされたら、せっかくの三人暮らしが壊れてしまいそうな気がした。

 「歩美は最近、時々だけど前の家に行って、パパと会ってるみたい」美香が恐る恐るそう言った。

 「嘘でしょう、それで今日も行っていると言うの」房恵は怪訝そうな顔をした。「それは…ハッキリとは分からないけど…たぶん」美香は、うつむいて房恵の顔を窺いながら房恵がどんなリアクションを起こすか心配した。

 房恵は考えられないと言うふうに茫然とした。その隙に美香は気を利かせたと言うより房恵に黙っていた贖罪からか房恵より早く忠彦の所にケータイを入れた。それを見た房恵は、もう少し大きくなってと思っていた歩美にケータイを持たせとくべきだったと思った。


 「ママ、歩美…パパの所に居る」と言って、また恐る恐る房恵にケータイを渡した。房恵は黙って、ケータイの中から聞こえる歩美の声を聞いた。「ママ、アユ泊っていいでしょ」房恵は、深呼吸一つして「パパはそこに居るんでしょ、変わってちょうだい」歩美が「パパぁー」と呼ぶ声がして忠彦が出た。

「もしもし、暫くだね」久しく忘れようとしていた忠彦の声だった。「そうね。そう言う言い方もあるわね」房恵は複雑な気持ちで、そう言った。「アユの事だけど、送って行こうとしているんだけどアユが、今晩だけって聞かないんだよ」忠彦は説明した。房恵の心にムラムラと湧いてくるものが有った。

 美香が、かたずをのんで心配そううに見ているのが房恵の眼に入る。「そう…それは分かったわ。忠彦さん、特にパパ大好きだった歩美だからね。あなたの娘だもの、どうぞ泊めてやって下さいと言いたいところだけど…あなた、ちょっと間違っていない」房恵は普通の調子で言った。

 「何が」と忠彦の声が返ってきた。「いい加減にしてよ。今何時だと思っているの、とっくに帰って来る筈の子供が帰って来ない、私母親よ。警察に届けるところだった」怒り気味に言った。


 「すまない…早く連絡すべきだった」向こうで忠彦から歩美が電話を取った「ママ、ママ!パパを叱らないで、パパは帰れって言ったの…それをアユが言う事を聞かなかったの」歩美の言う事が本当だろう「アユ、分かったよ。分かったからパパと変わってちょうだい」

 「あなたは、美香も歩美も可愛がっていた。捨てられても慕ってくれる。あなたって幸せ者ね。そうか…捨てられたのは私だけだったんだよね」房恵は、まだまだ嫌味たらたら言ってやりたかった。

 「何を言われても、俺に返す言葉はないよ」弱々しく言った。房恵にとって絶対に許せない男だけど「これから、そちらに行って連れて帰ってもいいけど…歩美の気持ちを考えると…そうね、許す訳じゃないけど。いいわ、明日の朝、朝一で私が迎えに行く」そう言った。「それでいいのか」忠彦が、そう言い終わらない内にケータイを切った。


 心配そうに見ていた美香に、房恵は「明日の朝、ママが迎えに行って来る」笑顔を作ってそう言った。美香は一応安堵の表情で食卓に着いた。房恵は祥子の声が聞こえなかったのが腑に落ちなかった。

 房恵の眠れぬままに、夜は勝手に更けて行った。翌朝早く、「これからママ歩美を迎えに行く。連れて帰って来るから留守番頼むね」そう言って出掛ける準備をして玄関まで出た。

 房恵の後ろで美香が、「ママ、歩美の事、叱らないでね」そう言った。後ろを振り返ると美香は涙目になっていた。房恵は美香を抱き寄せ「分かってる。心配しないで大丈夫だからね」美香の涙目を見て頷いて見せた。

 房恵が玄関を出る時、美香は涙目の笑顔で「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。


 何はともあれ今は、歩美を取り戻さなければ。その一心で忠彦の家に向かった。何年も来てないとはいえ勝手知った、元住んでいた家。

 祥子が出てくるか忠彦が出てくるか、どちらにしても緊張と言うより怒りが、むらむらと甦って来るのを感じていた。

 連れ戻すにあたっては、祥子と言い合いになるのでは。と覚悟を決めて着た房恵だったが、そこには祥子が居なかった。居間で歩美と忠彦がゲームをしていた。

 少々拍子抜けした感はあったが、怒りの矛先を忠彦に向けた。強い口調で「どうしてこんな事をするの、しかも黙って。歩美が例え半日でも行方知れずになったら一緒に暮らす者は、心配するのは分かっているでしょう」と言った。


 忠彦は何を言われても仕方ないと思っていた。「すまなかった。俺が悪かった」素直に謝った。房恵は、「悪かったじゃないわよ。泊らせるなら早く電話ぐらいしてよ。警察に届ける寸前だったんだら」その時、歩美が割って入った。

 「パパの事、叱らないで…パパは悪くない。遅くなった送って行くから帰れ、パパが言ったの…それをアユが泊まるって言ったんだから」歩美はそう言って房恵の前で泣いた。

 泣きながら「だって…あの小母ちゃん出て行ったんだよ。今、パパ一人でこの家に居るんだよ」房恵は泣いてる歩美を抱き寄せ「分かったよ。歩美…もう泣かなくていいよ」そう言って抱きしめた。

 そして、忠彦に「祥子さんが、出て行ったって本当なの」と聞いた。忠彦は房恵に聞かれて一瞬顔をゆがめた。子供達と接触している以上、いずれ房恵に知れる事は覚悟していた。だが、いざ房恵を前にすると二年足らずで出て行かれた事を、自分の口から房恵に言うのは屈辱だった。

 忠彦は、平静を装って「あぁ…二年近く一緒に居たかなー」と淡々と答えた。房恵は唖然として、後の言葉が中々続かなかった。


 あれだけ強く房恵を否定して、二人の娘まで手放しておきながら…何の事はない二年と持たなかったとは…。一瞬、房恵は可笑しかった。それ見た事かと思うと同時に、あの別れる時、激しく言い争って互いに憎しみを抱いた。大きな代償を払い、生涯消す事のできない心の傷を残した。あれはいったい何だったのか…。

 忠彦は祥子と一緒に暮らして居るものと思っていた。それが破綻したからと言って、母娘三人の暮らしに慣れた今更。何で掻き乱さなければいけないの。と房恵は怒りを覚えると同時に、忠彦が惨めに見えた。

 「とにかく歩美は、連れて帰ります」そう言って「今後は、こう言う事のないように」と念を押して歩美を連れて帰った。

 歩美が近頃、少し変だと思っていたが、忠彦と会っていたとは。それを美香も知っていた。房恵は釈然としなかった。


 帰りの途中にバーガー店の前を通った。「歩美、ハンバーカーでも食べようか」いつも美香と三人で来る店の前でそう言った。この店前を通る時は、真っ先に「アユ、食べたい」と駄々をこねるくらい、好きな店なのに今日はうつむいている。房恵は、それが…かわいそうだった。

 店の中に入りテーブルをはさんで、向かい合い座った。うつむいていた歩美が、少し上目づかいに房恵の顔を見て「ママ―…怒ってる…」と言った。忠彦の家を出てから初めて口を聞いた言葉だった。

 房恵は笑顔で…「いいや、もう怒ってもいないし…叱りもしない。だけど、これからは黙って何所にも行かないでね、ママもお姉ちゃんも心配するから」そう言うと歩美は「うん」と答えた「うんじゃないハイでしょ」と言うと「ハイ」と元気な声が返って来て、歩美にようやく無邪気な笑顔が戻った。

 いつもは美香と三人てくるこのバーガー店たけど、今日は歩美と二人は、たぶん初めてだった。そして二人でハンバーガーを食べた。

 歩美が「お姉ちゃんにも、おみやげを」とメニューを見ながら自分の好きなものを、先に注文しているのを見ていた。房恵は可笑しくなって口元が緩んで笑顔になった。


 休日に房恵と会えなくなった裕也は、気が抜けて昼過ぎになっても、まだベッドの布団の中に居た。房恵と昨今会えなくなったせいでもあるまいが、裕也は近頃あまり眠れなくなって、近くのクリニックで見てもらった。不眠症と診断され、睡眠導入剤を処方いてらって飲んでいる。

 この手の薬今まで使った事が無いので、よく効いて眠る気が有ればいくらでも、眠れるような気がした。

 今確実に目覚めて少々お腹がすいてきた。起きようか…どうしようか思案中なのだ。その時ケータイが鳴った。


 ケータイを取って出ると弥生だった。「今日の飲み会どうするの。他に用があって来ないなら来ないでいいけれど…部課長連中も来るから顔だけでも出しといた方がいいわよ」と言った。

 忘れていた訳ではないが、裕也は今、房恵の事が最優先になっている。そんな事は、弥生は知るよしもない。弥生は、いつもの親切心で知らせてきてくれたのだった。

 裕也には当て外れの日だったが、いつまでも滅入っている場合ではなかった。弥生の言う通り今後の取引を考えれば、顔を出しておくべきなのだ。

 もし弥生が言ってくれなかったら、裕也は、もやもやした気持ちで、このまま寝ていたかもしれなかった。裕也は弥生に感謝しながら、まだ早いにしても起きなければと起きた。


 昨夜から何も食べずに、房恵の諸々が頭に浮かべ寝ていた。他の事は頭になく寝ていたので、起きた途端にお腹のすいている事に気付いた。手近にあるカップラーメンをすすって腹ごしらえをした。

 数時間後の飲み会には、ちょうどいい腹ごしらえかもしれない。裕也はそう思った。外はまだ明るく

まだ時間は充分にあった。これから身支度をして電車で行けば、丁度繁華街に灯の入る時刻になるだろ少しぐらい遅れてもかまわないと裕也は考えた。

 今日は始まる時間も早い、会が終わって二次会程度付き合って帰れば終電には帰れるだろう。元々行く気のなかった飲み会だから弥生には悪かったが、その程度に考えていた。そうは言っても、一応時間は合わせた。


 マンションを出て電車に乗った。繁華街の最寄りの駅に着く頃は、もう日は落ちて街のネオンが付いて、取引先のよく使う小料理屋に着いた。弥生に駅から着いた事を連絡していたので、店に入って弥生の名前を言うとすぐに座敷に案内された。裕也の席は、もちろん担当者である弥生の席の隣に設けてあった。

 裕也の元居た親会社の部長クラスの顔も見える。子会社である裕也が課長している会社は、もちろん社長が出席していた。

 今夜は、弥生の会社に招待されたという形だった。弥生が言っていた通り、弥生の会社の部課長連中も来ている。さながら二社の関係強化を図る合同飲み会の態をなしていた。


 最初は、いつもよく知った人たちといえども少々緊張気味だった。それがお酒がまわり座が崩れると気分もほぐれた。弥生は隣の席で上司と裕也の間に入り気を利かせ旨く対応してくれた。裕也は何かにつけて弥生と一緒に居る時は、自然体で居られる自分に気付きかけていた。

 そんな二人を、「君達両方とも独身だろ、お似合いだよ」とからかい気味に言う人間もいた。そう言われても弥生も裕也も悪い気はしなかった。ほろ酔い加減で小料理屋での宴会は終わった。

 外に出る時も、裕也と弥生は一緒に出た。まだ時間が早く繁華街のネオンは、真っ盛りを告げていた。


 「さぁー次だ。次に行くぞ」と二、三人が言ったようなに聞こえた。「さぁ大島君、君も行こうよ…行こう」と裕也が誘われる。その知人達の方に着いて行った。しばらく行くとそれぞれの人間関係か、店の好みか、どちらかは分からないが…グループが出来て、そのグループに分かれてそれぞれの店に向かった。

 一番後ろの方を着いて歩いていた裕也と弥生だった。裕也の後ろを歩いていた弥生が、裕也のスーツを引っ張った。

 振り向いた裕也に弥生は、首を横に振った。裕也は、前を歩く人たちと距離を取った。弥生が、「あっち」と小声で言って横道の路地に入るように促した。その路地の中には、弥生と房恵、それに裕也の三人が行く「すみれ」と言うスタンドバーがある。二人は前の人達に気付かれないように、そっと路地の中には言った。


 弥生が「すみれ」の扉の取っ手を持って引いた。カランコロンと、いつもの音がして扉が開いた。先客の男二人がカウンターに居た。その客達と離れたカウンターの隅に、裕也と弥生は座った。

 濃い目の化粧のママ、雪江が弥生のボトルを持ってきた。「おやまぁーお珍しい今日は、お二人さん…」水割を二つ作った。弥生が「そうなの、今日は取引先との飲み会。みんな二次会に行ったけど、雪江ママの顔見たさに抜けてきたの」そう言うと「本当なら嬉しいけど…どうだかねー」と雪江は、にわかに信じがたい顔で、ニヤリと笑った。「後は、お二人さんにお任せするわ…」意味深に言った。

 雪江の身体は、向こうの歌っている二人の方に向いている「ママ…何か誤解してない」弥生が雪江に聞く「大丈夫この家は、五階も六階もないから」そう答えて声を出して笑った。頷きながら歌っている二人の方に行った。


 裕也と弥生は、改めてグラスを少し当て乾杯をした。水割りを口にして落ち着いたところで、弥生が房恵の事を聞いた。「その後、どうなの」裕也は、水割りをゴクリと飲み…「弥生さん、見てて分かるでしょう」自棄気味に言うと「あら、私まだ人の心の中まで分かるほど…そう言う手の修行はしてないもんで」と突き放した。

 「またまた意地悪だなー」と裕也は水割りを口にした「てことは…もう破綻したの」弥生も水割りを口に運んだ。「また、そう言う過激な発言をする」裕也は弥生の言う事に、明確な否定もしなかった。

 房恵が何を考えているか分からず裕也自身も、今は悲観的に思っていた。もちろん今日裕也が房恵と会う約束で予定通り会っていれば、飲み会をすっぽかすつもりでいた事など言える筈がなかった。「まぁ私が、どうこう言う事じゃないけど行きがかりじょう一応私が紹介したと言う事らしいので…ちょっとね」弥生はそれ以上は突っ込まなかった。


 弥生は水割りを、作りなから「私ね、あなたと同じで毎年一回は、父の所に帰っているの」そう言った。「尾道の…」裕也は聞き返した。「そう、そして正弘君にも会っている」弥生は答えた。

 裕也には、意外な事だった。「正弘に…」と驚いた。「ええ…正弘君は、海が好きで学校の休みとかに漁に出る父の船に乗っているんですって」弥生は、裕也にそう言った。「そうか、そうだったの初耳だなー」裕也は水割りを口にした。「やっぱり…内緒か。叱らないでね」弥生は悪い事を言ったかなと思った。


 「叱りゃしませんよ。それに内緒も何も、行ってあってもお互い会話が無いんだよなー」そう言うと裕也は、水割りの氷を見詰めながら続けた。「行って会って(おー…元気でやってるらしいな)(あぁ、元気だよ)(成績が良くて、マーちゃんの行きたい学校に入ったんだって叔母さん喜んでたぞ)(叔母さんの買いかぶり、それほどでもないよ)(そうか…正弘、まぁぼつぼつ頑張れ)(あぁ)そんな調子で終わっちゃうから」裕也が言った。

 「男同士って…そんなもんかな」と弥生も氷を見詰めた。裕也は「父親と言っても小さい時から年に一回、同じ屋根の下に数時間一緒に居るだけだから…。それに美月も和雄君も正弘を、我が子以上に思ってくれているから」そう言って水割りを事口飲んだ。「そっかッ…」そう言うと弥生は、もうその事には触れなかった。


 弥生が水割りの御代りを作っている。裕也の眼は、弥生のしぐさに注がれていた。弥生は、裕也の眼を見て、「何だか不思議そうね…私だってこのぐらい出来るわよ」そう言って水割りを、裕也前に置いた。「そんな意味じゃ」そう言って裕也は眼をそらした。

 裕也はその時にハッキリと弥生が、秋乃の従姉であることを確信した。それは弥生の一寸した…しぐさが秋乃にそっくりだったからだ。

 今までは似たところはあるな…と思った事はあるが、今日ほど明快に見えた事はなかった。裕也が、そんな事を考えているなんて、弥生は知らない。


 弥生は、自分の父親の近況を話し始めた。

「私の父だけど…足を痛めたらしくて、もう漁師止める時期が来たのかなー…なんて寂しそうに言ってるの」寂しく笑った弥生に「そりゃー寂しいでしょうね。長年やって来たんだから」裕也は同情した。

 「でね…私、昔取った杵柄で、父が船に乗れる間に…帰って漁師の仕事を継いで漁師になろうと思っているの」思いもよらない弥生の言葉に、「えっ…弥生さんがですか」と裕也は耳を疑った。


 「そうよ…おかしい」当然と言う弥生の顔に裕也は、「おかしい…と言うより信じられない」そう答えた。弥生は、「そうね。でもねー昔、父と一緒に漁に出てた頃が懐かしくて…今の仕事よりも私は漁師の方が気分的に似合っている気がする」と笑った。裕也は、あの写真を思い出していた。

 亡くなった妻、秋乃と高校時代に写ったと言う写真…あの写真の弥生なら裕也にも分からぬでもないような気がした。「本当に…本当に決めたんですか」百パーセントないと思いながら裕也が聞いた。

 弥生は、秋乃によく似た白い指でグラスをもちながら淡々と「決めた」と言った。裕也は、まだ酒に酔って言っているとも思えない弥生に頭をひねった。


 カラオケのメロディだけが流れている。雪江ママの声が聴き取れた。「あらー、もう帰るの。あまり悪い事しないで、真っ直ぐ奥さんの所へ帰るのよ」そう言って最前からいた二人の男性客を送り出した。

 客を送り出して雪江ママが、そっとカウンター越しにやって来た。「お二人さん…やけにしんみりとしちゃって、歌でも歌わない。…それとも私、お邪魔無視かな」そう言ってウインクをした。

 弥生がニコッとして、「ママ―実はそうなの、だけどママが独りじゃかわいそうだから…仕方なく入れてあげる」そう言った。「どうよ…この言いぐさ、可愛くない。ねぇ裕也ちゃん」ママが、裕也に振って来た。「けっこう可愛いですよ」と裕也は自然に答えていた。

 「おやまあ…熱」ママは手で顔を扇ぐ格好をした。「ママ、マイクマイク」照れ隠しか酒の所為か少々赤みをおびた顔でマイクを請求した。


 房恵も一緒に来た時は、気を使って二人でデュエットする事はほとんどなかった。今日は弥生も裕也も貸切状態のスタンドバーで、誰はばかることなく思いっきりムードを出して二人は歌った。

 「ひゃー、いい感じ」と雪江ママに囃されて、ますます調子に乗った。近頃色々と暗い気分になりがちだった二人は、久々の憂さ晴らしに心から気持ちよく歌った。

 そして裕也と弥生は、普段出来ない秋乃の従姉だから出来る話もした。それは裕也と弥生が、時を忘れて過ごした初めての夜だった。


 店を出て路地を抜け通りの繁華街に出て、つい、さっきのスタンドバーでの騒ぎとは裏腹だった。どちらからともなく寄り添って無言のまま歩いた。

 弥生は今はいない従妹の夫、裕也も今はいない妻秋乃の従姉。お互いそう思おうと努めた。だが心の揺れは、お互い感じていた。

 タクシー乗り場近くまで来て立ち止まった。二人は向かい合って見詰めあった。しかし弥生が笑顔になって「ありがとう、今日は楽しかったわ」と言って手を差し出した。「こっちこそ、ありがとうございました」と裕也は握手をした。

弥生は、その手を離しクルッと向きを変えタクシー乗り場へ走って行った。弥生はもう振り返らなかった。弥生の乗ったタクシーを裕也は見送った。


 歩美が忠彦に会いに行って泊まって以来房恵は、歩美と美香二人の娘に「叱らない」と言っただけで房恵に内緒で忠彦と会っていいとは言ってない。もちろん滝川の祖父や祖母までも、なんてもってのほかである。

 房恵が会社から帰るまでは、美香や歩美の帰る時間帯に居てくれるよう近くに住む両親に頼んだ。定年過ぎて老いたといえど、まだ両親はしっかりしていた。両親は、もちろん孫可愛さも手伝って異存はなかった。今まで少々遠慮気味にしていたが、遠慮なく来る事が出来るのでむしろ喜んだ。

 房恵も会社が引けると、いつものように買い物をして真っ直ぐ帰る日々が続いていた。裕也とは会社で会って話をする程度だった。裕也との関係を続けるのは難しいと思った。しかし関係を断ち切る決断も出来ないまま悩んでいた。


 裕也は房恵の家で何が起こっているのか知らされてはいない。房恵も裕也に本当の事を言おうかと迷ったが、忠彦がからんでいるので言わない方がいいような気がして黙っていた。

 訳の分からない裕也は、そんな房恵が優柔不断で自分を翻弄しているように思えた。時には腹が立ったが、房恵の笑顔を見ると愛おしくこのまま終わる事はないと信じた。

 しかし房恵はこのまま関係を続けて裕也と離れられなくなる。その方が苦しかった。いくら好きで愛していても娘達の事を考えると、これから将来にわたって続けられるとは思えないからた。

 房恵と裕也は、思い思いに悩んでいた。まだ微かな望みをもちつづけている裕也は、人が聞いたら未練がましいと笑うだろうなと自嘲した。


 諦めきれずにいる裕也の気持ちは、房恵にも痛いほど分かっていた。だが如何ともしがたい今の現実は、房恵も耐えがたかった。

 ことに忠彦が祥子に出て行かれたあと一人で暮らしている。娘達が自由に行く障害が取れてしまった事にあった。美香と歩美には、両親が別れる原因が祥子であって忠彦ではなかったのだ。

 美香と歩美は、房恵と忠彦が別れて以来。房恵の気持ちを察して表面穏やかに笑顔で過ごしていた。しかし歩美が、父の忠彦と会っても母の房恵に叱られなかった。その事に歩美は元より美香までも、安堵していた。


 留守番に来る爺ちゃん婆ちゃん…特に婆ちゃんには、美香も歩美も心を許して房恵に言えない事も話すらしい。婆ちゃんの民子は房恵に直接話す訳ではないが、何となく房恵にも伝わってきた。

 娘達が、それぞれ大人の身体に変化してゆくにつけ時の経つ速さを、房恵は感じずに居られなかった。夜ベッドに横になりながら、それだけ私も齢を取っているってことなんだよなーそう思い…つらつらと裕也の事を想った。

 その後も何ら変わることなく日々が、続くかに見えた。お爺ちゃんお婆ちゃんは、二人の孫たちを甘やかしながらもよく面倒見てくれていた。そんな折、房恵は近くの実家に呼ばれた。


 母の民子が口重そうに、「房恵、お前…忠彦さんと別れて何年になる」と言った。房恵は「六年、いや七年かな…どうしてそんなこと聞くの」いぶかしがった。「いやー子供達を見ているとね…かわいそうに思えてくるんだよ」そう民子が言った。「子供たちが、何か言ったの」房恵は聞き返した。

 「何も言えないから、かわいそうなんだよ。こんな環境でよくまぁ今の状態で育ってくれたと思う」一息ついて民子は、「こんな環境で、よくまぁー今の状態で育ってくれたと思う。子供たちを誉めてやりたいよ」そう言った。房恵は誰の所為よ、と思った。

 民子は続けた。「美香は小さい頃から習っていた柔道に打ち込む事によって、お前達二人の両親が離婚したと言う衝撃の現実から逃れようとして頑張っていたんだよ。そうこうしているうちに本人も柔道が本当に好きになって大会でもいい成績を残しているけどね」齢の所為か咳き込む民子の背中を、房恵は擦った。


 房恵が、「大丈夫」と聞くと民子は、「私ゃ大丈夫だよ」そう言って続けた。「別れてすらも試合のある時は、後ろの方で隠れるように来て応援してくれているんだって。悲しそうに美香が、言っていたよ」

 房恵は、「隠れて応援って、誰が…」と聞いた。民子は、「決まってるじゃないか…忠彦さんだよ」そう聞くと、房恵が、「何でそんなことするんだよー、今になって。娘が気になるのは分からないでもないけど、あの時に有無もなく別れさせておいて今更…しかも、こそこそと」まだ平静を装っていた。

 次に民子が「それが…親ってもんだろうよ」と言うと房恵は少々声を荒げた。「都合のいい親が有ったもんだ。それで母さんは私に、どうしろって言うの」顔が高揚している自分に房恵は、気付いていた。

 母の民子は、そんな房恵を見て「思うように行かないねー」そう言って目線をそらして遠くに目をやった。


 民子は房恵の気持ちも、よく分かった。そして、忠彦は房恵や美香や歩美の気持ちも酌んでやって、もう少し旨くやってくれないものか…と思うのだった。

 房恵の落ち着いたのを見計らって民子は、「歩美の事だけど…」言いかけた。房恵はすぐ「また歩美に…」と反応した。「そうじゃない。私の許しを得て歩美は、忠彦さんに会っている」それは房恵も薄々気づいていた。

 「知ってるわ、いくら黙っていても分かるわよ。そんな事…」そう言うと民子は、そうかい…と言う顔で「歩美は誰に似たのか、あれで中々気が強いから無理に会わせないようにすると何をするか分からないからね」と心配そうに言う。


 「母さん、ありがとう。一番難しい時期を母さんに、預けっぱなしで悪いと思ってる」房恵は心底そう言った。「それは仕方ないよ。お前は働かなくてはいけないんだから、そんな事は気にしなくてもいいんだよ」

民子は優しい笑顔を房恵に向けた。「そうなんだよねー。別れていなくても仕事はしていたと思うし、おんなじ事かもね…。だけど母さんにこんなに世話になっては、いなかったかも知れない」そう房恵は言った。

 民子が、話題を変えた。「お前…男の人は出来ないのかい」と突然聞いてきた。房恵はドキッとした。もしや裕也の事が、知られてしまったのではないか…不安がよぎる。

 「突然…何を言うのかと思ったら、そんな事。でも、そんな人が出来たらいいなって思うけど…残念ながら居ないんだよね」と良心の呵責を感じながら気取られぬように至って平静に答えたつもりだったが、しかし民子の顔は、まともに見られなかった。


 老いた母の民子が娘の行末を案じて言ったのか、母親の直感で男と付き合っていると思ったのか…。民子の心の中は、例え親子といえども房恵には覗けなかった。

 民子は房恵の言った事には答えず、遠くを見つめて「時の経つのは早いねー…美香も歩美も今まで順調に育ってくれた。親の一時の迷いで深く傷ついたろうに…。こんな言い方をしたら…お前は怒るだろうが、美香は父親の忠彦さんが陰からでも見守っていてくれた事で…どれだけ心強かった事だったか」

 房恵もそれは否定しないが。しかし、それを面と向かって言われると腹立たしさの方が先に立つ。房恵は、「私は、許さない」とポツリと言った。


 民子は房恵の言葉を受けてか、「私が、お前の立場でも許さない。…だけどねー私ゃ嬉しかったー。歩美が黙ったまま、初めて忠彦さんの所へ行った時に…お前が歩美を叱らず諭しただけだと聞いて房恵もいい母親になったなーってね」満足そうな顔をした。

房恵は「私は子供達には、すまないと思っている。だけど彼女達が、大人になった時きっと分かってくれると信じている」

 そう言うと、民子は、「子供達は、もう分かっているよ。お前が考えているより美香も歩美も大人かもしれないよ。だけど二人ともまだ思春期の難しい時期だ、本当の大人じゃない。このまま素直に育ってくれるといいんだがねー」

 民子が…わざわざ呼んで話したかったのは、こんな話だったのだろうか…。もしや裕也の事が…いやいや、そんな事はない。と思いながら一抹の蟠りを残して実家を後にした。


 相変わらず出勤して退社して帰ると言う日常が続いていた。二人の娘達も今、志望校の受験を目指して勉強をしている。房恵は、「あまり無理して体調を崩さないように」と言いながら夜食など作ってやった。裕也の事は、忘れていた訳ではないが…今は子供第一と思うようにしていた。

 裕也の方はと言うと、房恵との約束をキャンセルされて以来まだ何も聞いていなかった。職場で会っても挨拶程度で終わっていた。裕也は、房恵には裕也に言えない家庭の事情があるのだろうと思った。娘さん達と皆で元気にしていれば良いのだがと考えていた。


 裕也も房恵もお互いに…まだ未練は残していたが、二人は、二人で会うのが難しくなっているという実感を共有していた。このまま燃焼せずに別れる事になるかもしれない。二人の中でくすぶり続けていた。

 房恵は歩美が忠彦の所に通うほど、忠彦を慕っているのがショックだった。優しかった父親だから当然の事だと言われれば返す言葉はなかった。房恵は皆から責められているような錯覚さえ覚え、捌け口のない息苦しさを感じていた。そして裕也には、以前のように甘えられる雰囲気が、無いような気がした。


 房恵には裕也が会社に来る日は、あらかじめ分かっている。その日を待っていつもの休憩時間、人のいない場所に裕也を連れて行った。房恵は、そこで…「約束守れなくてごめんね。もう私が嫌になったでしょう」そう言った。

 裕也は、「娘さんも色々あったんだろ、嫌になる訳ないじゃないか」と言うと房恵は、「本当、じゃ行こうか」裕也は自分の耳を疑った。今まで何度も何度も口説いて、ようやく承知していた房恵の言葉に、裕也は、この房恵の大胆さは一体何だろうかと思った。

 房恵の言う通り裕也は、その日…会う約束をして別れた。裕也は房恵が、その時は何を考えているか分からなかった。


 行く先は、あらまし裕也が探していた。アーチ形の門をくぐって車を止めて部屋に、房恵は今まで以上に裕也を求めた。そして終わって車が門の外に出た。房恵はその時、我に返って裕也との関係はこれで終わり。これでふっ切らなければ、そう思っていた。

 裕也は上機嫌だった。これからも時々、こうやって逢えればそれでいい。そう勝手に、房恵との関係に思い巡らした。

 房恵と裕也は、それぞれの思いで今日と言う二人の日を終えようとしていた。車は快調に高速道路を走って行った。


 裕也は房恵が、身の回りに漂う息苦しい空気や、房恵自身の気持ちを切り替え、これでの生き方を払拭する為に、今日裕也と会った事を裕也はまだ知らなかった。

 裕也は、おそらく永遠に房恵の思いを知る事はないだろう。それがこれから先の裕也の人生を変えて行く事に、裕也はまだ気付いていなかった。裕也には、まだ房恵は可愛い、愛する恋人だったからだ。

 職場では、いつもと同じように振る舞った。


 暑い夏がやって来て、房恵はいつものように、まだ明るい内に家に帰った。今、美香と歩美は受験勉強の真っ最中だった。房恵が食事を作り、三人で食卓を囲んだ。そこで房恵は、「今度のお盆にママが行っている会社の町内会で盆踊り大会が有るの、会社の広い敷地に町内の人達が皆で寄って色んな夜店を出して賑やかにやるらしいよ…。どう美香も歩美も行く…」と話した。

 美香も歩美も、「試験勉強が有るから」と言って難色を示した。「そう言うと思った。最近二人が一生懸命に勉強してるのは、とっても嬉しいの。でもね、時には息抜きだって必要よ。ねー、久しぶりに浴衣着て行こうよ。一晩だから考えといて」


 盆踊り当日の会場は、真ん中にやぐらが組まれ、それを取り巻くように町内会の人々手作りの屋台が取り巻いていた。弥生と裕也は、夕方からきて町内会の手伝いをしていた。

 陽が落ちる頃には、盆踊り音頭の曲が大きなスピーカーから流れていた。弥生と裕也は、入り口から遠い奥の屋台に居た。

 房恵と美香それに歩美三人揃って、浴衣姿で出掛けた。房恵は踊りが始まるまで、屋台を見て回ろうとした。房恵は今夜、裕也が来るのを知っていた。もしかしたら…ではなく確実に出会う。


 少々複雑だった。ふと気付くと、歩美が居なかった。何処に行ったのかと見回す、すると入り口付近でカジュアルな格好をした忠彦の手を引っ張って来る歩美を見つけた。房恵は慌てた。今居る入り口付近で食い止めようと二人の所に駆け付けた。

 月日は経ったとは言え…忠彦が房恵の元亭主だった事を、誰も忘れてはいない…。房恵は恥ずかしさと怒りで顔色が変っていた。

 「あなた…どう言うつもり、また私に恥をかかせに、のこのこ来たの」忠彦と歩美が無言で顔を見合わせている。房恵の後ろを追いかけてきた美香が、「ママ、違うの。今日此処に来ると決めた時に、私とアユが話し合って決めた事なの」と房恵の顔を見た。


 房恵は、「そう…ママの立場なんて、どうでもよかったの。此処は、ママの職場よ。離婚したパパの事だって知ってる人だってたくさんいるのよ」と忠彦を睨んだ。

 忠彦は美香と歩美に向かって、「ほらごらん、ママが困るって言っただろう。パパは此処までだよ。さぁ、後は三人で楽しんで帰るんだ」そう言った。

 房恵は先ほどから裕也と弥生が、遠くから見ている事に気付いていた。房恵の頭は、こういう展開を予想だにしていなかった。房恵の頭は、混乱してオロオロした。

 「私達のパパは、パパ一人なのに」と美香が悲しく言った。美香の言葉が、房恵の胸にグサッと突き刺さった。この娘達、もしや裕也との関係に気付いているのではないか。房恵の混乱した頭が、とっさに、やましい心を隠そうとした。

 帰ろうとする忠彦に寄り添って、「ありがとう、パパ…」と二人の娘に、これで良いか。と言うように房恵は、言った。美香と歩美が笑顔になった。


 今まで入り口から離れた奥の屋台で、浴衣姿の弥生と機嫌良く話していた裕也の口と手が止まった。裕也が房恵の姿を見たからだ。弥生も予期せぬ忠彦の出現に、良からぬ胸騒ぎがしていた。遠くから見た房恵達の家族は、和気あいあい仲のいい、ごく普通の家族に見えた。

 裕也は呆然と眺めていたが、房恵が忠彦に寄り添うのを見て、居た堪れなくなり歩き出していた。出入口が一緒なので、裕也は房恵達の居る方向へ歩いて行くしかなかった。

 そんな裕也に弥生は、声さえ掛けられずに成す術もなく見送るただけだった。


 会場の出入口に居る房恵の家族の傍をすり抜けて裕也は、外に出なければならない。裕也は房恵と、その家族を見ないように外に出ようとした。房恵も裕也が近づいて来ている事に気付き、裕也と眼を合わさないように裕也に背を向けた。

 背を向けた時の房恵が忠彦と丁度向かい合い、二人がより一層寄り添う格好になった。裕也は出口を目指し真っ直ぐ脇目を振らず通り過ぎようとした。しかし、その時ラフな服装の男性に房恵が寄り添うのが見えた。

 無視して通り過ぎたと言うより裕也には、無視して通り過ぎると言う選択肢しかなかったのだ。やっとの思いで外に出た。


 外に出て歩く、これから満丸になって行くであろう月が、宵の空にクッキリ出ていた。背後から盆踊りの、盆踊り音頭やお囃子が聞こえている。その盆踊り音頭やお囃子を振り切るように、裕也は駐車場に急いだ。

 その夜マンションの近くの居酒屋で酔えぬ酒を飲んだ。何をどう考えても仕方ない事だ、そう思って飲むのを切り上げマンションに帰り眠る事にした。睡眠導入剤を飲んでしばらく経った。その時ケータイが鳴った。

 「もしもし裕也さん…今何所に居るの」弥生の心配そうな声だった。「あぁ…弥生さん、家、マンションに居ますよ」そう言いながら裕也は、酒と睡眠導入剤の相乗効果で眠く「そう、家に帰っているのね。良かったー」と言う弥生の声を聞くか聞かない内にケータイ切ったような気がする。眠ってしまって何を言ったか憶えていないが、弥生の耳には「じゃー…」と言う裕也の声が届いた。切れたケータイに弥生は「おやすみ」と小声で言った。


 どうやら夜が明けて、もう時間が経っているらしい。裕也はふらふらしながら、用を足しまたベッドに戻り目を閉じた。うつらうつら睡魔と闘いながら「これでいい、これで良かったんだ」そう呟いた。

 房恵に夢中になった時、弥生も女心は何とか言っていた。所詮遠からずなる事は、初めから分かっていた事だ。そう思って、また眠った。


 数日が過ぎ裕也は、弥生との商談の日が迫っていた。矢崎が裕也の所にやって来て、「大島さん、何かやっちゃったの」と言った。裕也は意味が分からず「どうかしましたか」と聞いた。「うん、中森さんから連絡が有って、私と大島さんと変わってくれないかと言ってきたんだよ」と頭を傾げて矢崎が言った。

 「それで、中森さんは何て…」裕也は聞いた。「いゃーそれが、何かこちらのミスでも。と聞いたけど違うって、理由を聞いても要領を得んのだよ。」と矢崎はもう一度頭を傾げた。裕也は弥生が気を利かしたんだと思った。とりあえず向こうの言う通りに、今回は矢崎と変わる事にした。

 一回だけと考えていたらしい矢崎だったが、その後も要望に答えて続いた。数ヵ月後の事だった。矢崎が弥生との商談から帰って着て「おいおい、大島君…中森さん会社辞めるらしいぞ」矢崎は驚いたと言うふうに言った。裕也はとうとう決めたんだなと思った。いずれ近い内に裕也にも、連絡が来るものと思った。


 それから数日後に、弥生からプライベートで会いたいと連絡があった。日曜日に昼食を一緒にしたいと言う事だった。指定の店に出かけて行った。弥生は開口一番「裕也さん、私の事を嫌な女だと思ったでしょうね。でも、あの後に房恵と会わせる訳にはゆかなかった。私の独断と偏見だったかな」そう言った。

「いいえ、ご心配かけました。正直…有り難かったです。房恵さんもそうじゃないですか」裕也は今、落ち着いて心からそう思っている。「そう言ってもらえると救われる。実は余計な事をしたんじゃないかと思っていたの」弥生と裕也はそう話しながら食事をした。


裕也が「それより弥生さん…本当に本当ですか」そう聞くと弥生は、「本当に本当よ、父の所へ帰って父を手伝って漁師になる」言い切った。

 「強いなー」と裕也が言った。「その言い方、嫌だ。私こう見えても女よ」商談の時には見せなかった女性らしい弥生だった。裕也は秋乃を、思い出していた。「ねえ、裕也さん…正弘君も、もう役所勤めの立派な社会人になった事だし無理しないでね」そうなのだ正弘は地元で役所に入つた。

 「美月と和雄君夫婦の御蔭ですよ」と裕也は感慨深げにいった。「違うわ、そればかりじゃない。いつも思っていてくれる貴方と言う、お父さんがいたからだよ」弥生は、強い調子でそう言って「もう正弘君の近くで暮らしたら…」とも言った。


 以後…裕也は矢崎と交代した所為もあって、弥生とも房恵とも仕事で会う事はなかった。弥生が、いつ辞めるのかハッキリ聴いた訳ではないので分からずじまいだった。日々過ぎて行き弥生の事よりも、裕也はやっぱり房恵が思い出された。忘れなければいけない事は分かっている。分かっていても思う…裕也の思いは、それを繰り返しながら徐々に薄らいで行って、気楽に暮らせるようになっていた。

 矢崎が会社に帰って来て「大島君、中森さん今月で辞めるんだって。何と後任誰だと思う」と言った。「誰ですか」と聞くと「住田さん、あの君と変わってくれと言われた後、少し経って商談の席に中森さんと住田さんが一緒だったからね。中森さんは後継ぎをちゃんとして去って行く。最後までカッコ好い人だったね」矢崎はしきりに感心して言った。


 裕也は弥生の意図が分かり、弥生らしい気の使いようだと思った。矢崎がまた話しかけた「住田さんは元の旦那と縒りを戻したんだと…あれだけ派手に遣り合ったのにねー、子供には負けたらしいよ。もっとも旦那の方は若い女にすぐ逃げられて一人でいたらしいからねー、子は鎹ですか…良く言ったもんですな」妙に感心して言っていた。

 裕也は、そうか房恵には一番良い所へ収まったな。そう思ったが、何故か心が疼いた。この疼きはいったい何なのか、忘れた…忘れなければならない房恵への幽かに残っている未練の残り火か。そうだとすれば、もう吹き消さなけれはならない。


 金曜日の夕方、マンションに一人裕也は居た。房恵とも別れた、正弘も社会へ巣立った。室内は奇妙な安心感と物寂しさが充満していた。

 ケータイが鳴って出ると弥生だった。「もしもし私、やっぱり貴方は…真っ直ぐ帰っていたのね」もう当分の間、弥生の声は聞いてない気がしていた。「ああ…お久しぶり、これから夕食に出かけようかと思ってた処だけど」裕也はそう言った。弥生は、「そう、丁度良かった。今、お酒でも一緒に飲もうと思って来ているの」と言う。裕也は訳が分からず「来ているのって何所へ」と言うと弥生は、「貴方のマンションの前」と言った。


 裕也は、「ええぇ」とびっくりしてマンションの入り口の見える場所に飛んで行った。マンションの入り口を見ると、弥生が買い物袋をいっぱい持って重そうに立っていた。急いで迎えに出て部屋に案内した。キッチンのテーブルに、持ってきた買い物を置いて…弥生は、「びっくりした。私まるでストーカーね、うふっ嫌かなー」と笑いながら言った。

 「嫌とか何とかじゃなくて、一体どうしたんですか」裕也は聞いた。「私ね…前にも言った通りに父の所に帰るの」予期していたとはいえ、いざ弥生の口からその時が来たと聞くと、「そうですか…寂しいなー」と裕也は本音でそう言った。

 弥生は裕也の気持ちが嬉しかった。「もう必要なものは全部送って、大きなものは処分しちゃったから私の部屋はガラガラ。ガラガラの部屋にポツンと居たら急に貴方に会いたくなって来ちゃった」


 まだ酒は飲んでいない。弥生は、今まで裕也の前で絶対に見せた事のない女性の色っぽい表情を見せた。裕也は、「じゃ飲みますか…綺麗な部屋じゃないですが、此処で。コップ、コップと」と立ちあがろうとすると弥生が、「あっ…私がする」と言ってキッチンに行った。

 買い物袋を開き何やらコトコトやっていた。裕也は、もう何も言わなかった。ただ黙って弥生を見ていた。弥生が何を想い…ここに来ているか分かっているからだ。

 弥生の持ってきた酒を、弥生か作った肴で二人は飲んだ。その夜、弥生は裕也の腕に抱かれて、裕也のベッドで眠った。

 翌朝裕也は、久々の味噌汁の匂いで眼が覚めた。小さなテーブルに朝食が作ってあった。裕也と弥生は二人で朝食を食べた。今日帰ると言う弥生を、裕也は最寄りの駅まで送って行くと言った。弥生は、「離れたくなくなるから」と、それを断って「裕也さん、正弘君と尾道で待ってるから」そう言って帰って行った。

                                                            了


 

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― 新着の感想 ―
[良い点] これは素晴らしいですね。 [一言] 見事な人間ドラマです。つい、一気に読んでしまいましたよ。正直言って好きですね。
[良い点] 素晴らしいです。 文字・活字をこれだけきちんと隙間なしに綴られた文章には初めてお目にかかりました。 一人ひとりのキャラを公平に、等分に丁寧に書き上げておられるのも驚きでした。  [気になる…
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