「一週間だけ」と彼氏が女友達を部屋に泊めたので、私が出ていきました
玄関のドアを開けた瞬間、見慣れない白いスニーカーが三和土の真ん中に揃えて置いてあるのが目に入った。幅の狭い細身の靴で、私と駿が普段履いている靴の間を割り込むように堂々と収まっている。間違えて隣の部屋の扉を開けてしまったのかと思って表札を確かめ直したが、手元の鍵で普通に開いたのだから間違いなく私たちの部屋だった。
「あ、おかえり。絵麻、今日から泊まるから」
廊下の奥にあるリビングから顔を出した駿は、私がぶら下げていたスーパーのビニール袋を見るなり軽く手を伸ばしてきた。何を買ってきたのか確認しようとするその手に応じる気にはなれず、私は靴を脱ぐのも忘れて玄関口で足を止めた。
「誰?」
「高校の友達。前に少し話したことあるじゃん。ちょっとお姉さんと揉めたらしくてさ、今いる場所がないんだって。1週間だけだから」
私と駿は同じ大学の3年生で、21歳になる。半年前に同棲を始めてから、家賃も光熱費も食費も半分ずつ出してきた。1人では借りられない広さだけれど、2人なら払えるねと選んだ部屋だった。その部屋へ、私の知らない女の子が既に上がっているらしい。
リビングのソファの陰から、髪を高い位置でお団子にまとめた小柄な女の子が立ち上がった。
「日高絵麻です。ごめんね、いきなり押しかけちゃって。駿に相談したら、部屋空いてるから来ていいよって言ってくれて」
足元には中型のキャリーケースが置かれ、壁のコンセントから伸びた充電ケーブルの先にあるスマートフォンは、私が昨日まで読んでいた文庫本の上に平然と載せられていた。
「駿、ちょっとこっち来て」
私は玄関の扉をきちんと閉め、靴を脱いで廊下に上がり、リビングの絵麻さんから死角になる位置で駿を手招きした。
「私にも事前に一言相談してほしかったんだけど。ここ、2人で暮らしてる部屋だよね」
「だから、1週間だけの話だって。一緒に住んでる姉ちゃんと喧嘩して、泣きながら電話してきた友達に、他へ行けなんて言えないだろ」
「困ってる友達を助けたいのは分かったから、決める前に私に聞いてほしかったって言ってるの。私が講義と買い物で留守にしてる間に、泊まる約束まで勝手に進めちゃうのは筋が違うでしょ」
「悪かったよ。次からはちゃんと事前に聞くからさ」
次がある前提なのか。頭がカッと熱くなったが、まず今回は1週間で帰るのかと念を押した。駿が適当にうなずいたところで、買ってきた鶏肉を冷蔵庫へ運んだ。
キッチンでは絵麻さんが私の炊飯器を開けていた。電子レンジも炊飯器も、大学へ入ったときに自分で買って持ち込んだ物だ。2人分に取っておいた米を見て、足りないね、と首を傾げてくる。
「私が来るの、ほんとに聞いてなかったんだ?」
「うん。今、知った」
「駿、ちゃんと言っといてよ」
絵麻さんは私の返事を聞きながら、リビングの駿へ笑いかけた。私は無言で卵を1つ足し、玉ねぎを多めに切った。
駿は絵麻さんに温かいほうじ茶を淹れていた。そういう気の利くところが好きだったはずだ。大学で熱を出したときも、講義を終えて迎えに来て、ゆっくり歩く私に合わせて一緒に帰ってくれた人だった。
絵麻さんはリビングに布団を敷くことになった。その晩、流し台に溜まった3人分の丼とフライパンを洗っていたのは私だった。
洗い終えて戻ると、2人は私たちが時々集まる友人のグループLINEへ、ここでしばらく世話になると送っていた。大学の友人に駿が絵麻さんを紹介して以来、何度か一緒にご飯を食べていた5人のグループだ。私が知らない間に、友人たちまで知っている話になっていた。
「お姉さんのところには戻れそう?」
私が聞くと、絵麻さんはスマホを置いた。
「今は連絡したくない。生活費がどうとか、家事がどうとか、帰るたびに言ってくるし。実家だと大学まで1時間半掛かるから嫌なんだよね」
「それでこっち来たんだって。とりあえず1週間くらい休ませてやろうよ」
駿が先に返事をして、私は濡れた手をタオルで拭いた。2人分の生活費で3人が暮らすことについて、その晩は誰からもお金の話が出なかった。
滞在が始まって3日目の夜、私の本が床の隅に重ねて積まれていた。
リビングに置いてあるカラーボックスの1段には、絵麻さんの大きな化粧ポーチとヘアアイロンが収まり、壁際に寄せられたキャリーケースの持ち手には湿ったフェイスタオルが掛けられていた。床の一番下に押し込められていた文庫本を拾い上げると、表紙の端が内側に折れ曲がり、白い筋が残っていた。
「ここ、私の本を置く場所にしてるから、元に戻してもらっていいかな」
折れた表紙の端を指先で慎重に伸ばしながら声をかけると、ソファでクッションを抱えていた絵麻さんがゆっくりと身体を起こした。
「ごめんね。その本、もう読み終わったやつかと思って。洗面台のところに私の荷物を置いとくと邪魔になるかなって思ったからさ」
「読み終わった本でも大事にしてるし、今もたまに読み返すから棚から退かされると困る。ここは空けられないよ」
「そっか。じゃあどこに置けばいいかな。駿、どうしよう?」
テレビゲームの画面に夢中になっていた駿は、コントローラーを握ったまま振り返りもせず、顎でテレビ台の横を指し示した。
「テレビの横あたりの隙間にでも置いとけばいいじゃん」
絵麻さんは化粧ポーチだけをテレビ台へ移し、まだ熱いからと言ってヘアアイロンを残した。後で片づけるよう頼んだが、寝る前にもそこにあったので、私は駿の机へ移した。
「絵麻、置く場所なくて困ってるみたいだけど。本、少し実家に持って帰れない?」
駿が言ってきたのは、その直後だった。私が1人暮らしのときから使っている棚だと話すと、もう読んだ本だろ、と返された。なぜ居候ではなく私の私物を退かす話になるのか理解できなかった。
翌朝は、洗面台の鏡の前が空かなかった。絵麻さんが前髪をコテで巻いてメイクを仕上げるのを後ろで待っていたせいで、いつも乗っている電車に乗り遅れ、1限の講義室に滑り込んだ時には息が完全に切れていた。
夜、帰宅した駿に、朝の身支度の時間をもう少しずらしてもらえるよう絵麻さんに言ってくれないかと切り出した。
「穂乃香の方が普段から支度早いんだから、穂乃香が少し早く起きれば解決する話じゃない?」
早く準備できる人間が睡眠時間を削って帳尻を合わせろという理屈に呆れ果て、かける言葉が見つからなかった。結局、絵麻さん本人に向かって、私は毎朝8時には家を出たいから7時半からは洗面台を使わせてほしいと直接伝えた。
5日目、当番だった駿に大学のレポートを理由に頼まれ、午後のバイト前に洗濯機を回した。絵麻さんからバスタオルも頼まれたので、干すところは手伝ってほしいと答えた。
「部屋の片付けが終わったらすぐ手伝うね」
絵麻さんを待っていたが、バイトへ出る時間になってもタオルは洗濯かごの底に残ったままだった。声を掛けると、もう出かけるなら帰ってからでいいよ、と軽く流された。私の予定が、他人の都合で勝手に書き換えられていく。
その晩、駿の帰宅は深夜近くになり、私は冷え切った焼き鮭の皿にラップをかけてテーブルに残しておいた。電子レンジで魚を温め直した駿は、今日のゼミで教授が口にしたおかしな発言について身振り手振りを交えて話し始め、私は疲れを感じつつもつられて少し笑ってしまった。
こういう穏やかな時間まで手放したかったわけではない。だからこそ、週末にはきちんと今後の生活について2人で話し合おうと心に決めた。
7日目の夜、約束の期限を迎えたところで、絵麻さんが実家へ戻る日程について駿に尋ねた。
「まだ姉ちゃんとちゃんと腹を割って話せてないらしいんだよ。もう少しだけ待ってやってくれないか」
「もう少しって、具体的にいつまで?」
「今そんなふうに期限を決めて追い詰めても可哀想だろ」
駿はそこで言葉を止め、私がうなずくのを待つように見た。寝室のドアの向こうでは、絵麻さんの見ている動画の笑い声がしていた。彼女がリビングのソファを使う間、こうして私たちは寝室で小声の話をすることが増えていた。
「1週間だけって最初に言ったのは駿でしょ。居候させる間のルールも、いつ出ていくのかも、ちゃんと責任を持って決めて」
「分かってるって。今日の夜にでも絵麻にちゃんと聞いてみるから」
夕食の片付けが終わった後に確認してみると、絵麻がもう眠ってしまったから話すのは明日に持ち越しだと告げられた。
明日も朝から講義があり、午後からは夕方までアルバイトが入っていて、疲れて帰ってくればまた3人分の食事を用意することになる。冷蔵庫の野菜室を開けて残りの食材を確認しようとしたが、突然ひどい疲労感が押し寄せてきて、献立をメモしていたスマートフォンの画面を伏せた。
その時、画面に丹羽晴臣くんからのメッセージが表示された。大学2年の春、駅前の大型カフェで同時期にアルバイトとして採用された、他大学の同い年の友人だった。
『日曜の待ち合わせ、11時に駅の改札前で大丈夫そう? 最初は駅ビルの大型書店から回る予定で合ってるかな』
以前から約束していた、市内の書店を巡る予定だった。丹羽くんは好きな作家の新刊の発売日だけは几帳面に把握している男で、一緒に文芸書の棚を見に行くと、本を選ぶのに夢中になってお互いに時間を忘れかけることがよくあった。
11時で大丈夫、と返信を打ちかけて、指が止まった。週末になっても絵麻さんが居座り続けている場合、昼食の準備はどうなるのだろう。そこまで思考が及んだ瞬間、急激に馬鹿馬鹿しくなり、画面を強く叩いた。
『家のことで少しばたばたしてるけど、本屋には絶対行きたい』
『何かあった? 大変そうなら来週に延期してもいいよ。予定通りでも俺は全然平気だけど』
『予定通りに行きたい。11時に行くね』
『了解。駅ビルの大型書店を見た後、商店街の裏にある古本屋にも寄りたいんだけどいい?』
私もそこへ行ってみたいと返すと、すぐに店の位置を示す地図のリンクが送られてきた。画面に表示された小さな路地の地図を指先でなぞりながら、その夜は久しぶりに、寝室のベッドで誰にも邪魔されずに文庫本を数頁めくった。
絵麻さんが転がり込んできてから10日目の夜、アルバイトを終えて最寄り駅に着いたところで、7時半にはアパートに着くと駿へ連絡を入れた。メッセージにはすぐに既読がついた。
アパートの重いドアを開けると、廊下に香ばしいカレーの匂いが漂っていた。今日は珍しく駿が夕飯を作って待っていてくれたのかもしれないと思い、ささくれ立っていた心がほんの少しだけ軽くなった。
「ただいま」
リビングに入ると、駿と絵麻さんが向かい合って座っていた。2脚しかない椅子の片方に絵麻さんが腰掛け、テーブルには食べかけのカレー皿が2枚並んでいた。
「おかえり。今日のバイト、結構混んでた?」
「うん、割と忙しかった。……私の分、鍋に残ってる?」
コンロの上に置かれた鍋の蓋を取ると、底に茶色く煮詰まったルーの残骸と、透き通った玉ねぎの薄皮がわずかにこびりついているだけだった。保温が切れていた炊飯器の内釜を覗き込んでも、米粒1つ残っていなかった。
「あ、ごめん。駿から7時半って聞いてたけど、遅いからバイト先で食べてくるのかと思って。2人分しか作ってない」
絵麻さんがスプーンを置いた。その隣でスマホが光り、画面に2枚のカレー皿が写っているのが見えた。駿は福神漬けを飲み込んでから、私の手元を見た。
「なんか適当に買って帰ってくればよかったのに。駅前のコンビニ寄らなかったの?」
「7時半に帰るってメッセージ送ったよね」
「見たよ。でも、帰るって書いてあっただけで飯がいるとは書いてなかったじゃん」
肩にかけていたトートバッグには、バイト用のエプロンと分厚い専門書が入っていた。それを床に下ろすと、ドサリと鈍い音が響いた。
駿は残ったカレーにウスターソースを回しかけていた。同棲を始めてから今まで、私が駿の分の夕飯を取り分けておく時に、わざわざ食べるかどうか確認したことなど1度もなかった。帰ってくる時間が分かっていれば、当然一緒に食べるものとして作るのが私たちの生活の前提だったはずだ。
目の前にいる2人は同じ鍋から温かいものを分け合って食べ終え、今日もこの狭い部屋で夜を過ごす。私は生活費を半分支払っている自分の家に帰ってきて、今からまた1人で外へ出て冷たい弁当を買いに行かなければならない。
「私、この部屋を出ていくね」
声にした途端、喉の奥のつかえが取れたような気がした。
「駿とも別れる」
「は? ちょっと待てよ。何言ってんの。晩飯がなかったくらいでそこまでキレるなよ」
駿が勢いよく椅子を引いて立ち上がり、床を擦る大きな摩擦音が部屋に響いた。その音に肩がびくりと跳ねたが、視線は逸らさなかった。
「晩ご飯の話だけじゃないよ。何回も言ったよね。誰かを泊める前に相談してほしいって。私の本を勝手に床に下ろさないでほしいって。いつ実家に帰るのかちゃんとはっきりさせてほしいって」
「だから、それは今夜これから話し合おうと思ってたところだし。飯だって俺が今からコンビニでなんか買ってくるからさ」
「自分が帰ってくるたびに、何に困っていて何が嫌なのかをいちいち説明しなきゃいけない生活がもう限界なの」
奥歯を噛み締めても喉の奥が引き攣れて、語尾が掠れた。ここで取り乱して泣いてしまえば、感情的になっているだけだと処理されて有耶無耶にされるのが分かっていたため、爪が手のひらに食い込むほど拳を強く握り締めた。
「私も、バイトから帰ってきたら普通に温かいご飯を食べて休みたかった」
駿は困惑したように私の顔を見つめ、それから助けを求めるように絵麻さんの方を振り返った。
「絵麻がいるせいで気まずかったっていうなら、そう言ってくれればよかったじゃん」
「ずっと言ってたよ」
乾いた声が出た。絵麻さんは気まずそうに自分の皿を持って立ち上がり、逃げるように流し台へ運んでいった。私はそれ以上何も言わず、寝室に入って押し入れの天袋から旅行用のボストンバッグを引っ張り出した。
実家の母に電話をかけ、今夜これから帰ってもいいかと尋ねた。
「いいけど、どうしたの急に。何時頃に着く?」
「9時過ぎには着くと思う。駿と別れたから、しばらく実家から大学に通いたい」
電話の向こうで母が一瞬息を呑み、事情を根掘り葉掘り聞くこともなく、駅に着く前に連絡をくれれば車で迎えに出るとだけ言ってくれた。
引き出しから下着や靴下を乱雑に鞄へ詰め込んでいるうちに、視界が滲んで涙が床に零れ落ちた。こういう時に限って靴下の片方が見つからず、引き出しの奥を引っ掻き回している自分が惨めで仕方がなかった。昨日洗った分は、まだベランダの物干し竿に干されたままだった。
寝室のドアの隙間から、駿が落ち着かない様子でこちらを見ていた。
「今日実家に帰るっていうなら止めないけどさ。頭を冷やして、落ち着いたらまたちゃんと話そう」
「荷物を取りに来る日は改めて連絡する。家賃と光熱費の精算のことも、その時に決めたい」
「そんな先の話、今ここで決めなくてもいいだろ」
スマートフォンの充電器をコンセントから引き抜き、明日の1限で使う教科書を鞄へ詰め込んだ。私には、明日も講義を休まずに出席する日常が残っていた。
実家の机には、引っ越す前に使っていた問題集が積んであった。奥へ寄せて教科書を出すと、母が小さいおにぎりを持ってきた。食べていないと伝えた覚えはなかったが、1つ口へ入れたら急にお腹が空いて、2つとも食べた。
駿の着信を伏せようとして、グループLINEの通知に気づいた。
『絵麻に嫉妬して、穂乃香が実家帰っちゃった。友達泊めただけなんだけど』
すぐ下に絵麻さんの言葉もあった。
『私も帰れって言われて困ってる。駿はいいって言ってくれてるんだけど』
少し上まで戻ると、7時過ぎに2枚のカレー皿の写真が送られていた。駿と2人で食べる、と絵麻さんが書いている。友人の1人は、おいしそう、と返していた。
そこへ駿の、穂乃香が戻るまで少し待ってやって、という一文が加わった。まだ私が戻る日を、この人が決めている。
私は食べ終えた皿を机からどけ、両手でスマホを持った。
『嫉妬して実家へ帰ったという説明はやめて。駿とは別れました。私の荷物を引き取って、同棲も終わりにします』
駿から個別の着信が来た。もう夜が遅いので、荷物と費用の連絡は明日すると返し、電源を切った。
翌日、図書館で家賃と共通の生活費を計算した。当月の家賃は半分払ったままにする。冷蔵庫と洗濯機は駿が使い続けたいと言ったので、残っていた共通のお金と合わせて清算を決めた。私が持ち込んだ電子レンジと炊飯器、本棚は持って帰る。土曜の朝に父の軽トラックで運ぶと伝えた。
駿からは、分かった、と返事が来た。その後にも洗剤の詰め替えはどこ、買い物はどうする、という質問が続いたので、自分たちで買ってと返した。
金曜の夜になって、土曜は友人2人も来ると告げられた。グループにいる、私と同じ学部の女子2人だ。
『2人も話聞いてくれるって。お前も1回、他の人の意見聞いてみたら』
私は画面を見たまま、しばらく返事ができなかった。荷物を取りに行くだけのつもりだった場所で、知らない話を聞かされた人に説得される。それを思うと、指先が冷えた。
それでも、私が何も言わない間に2人の説明が本当になっていくのは嫌だった。
『分かった。私からも話す。その後、予定通り荷物を運びます』
土曜日、父には先に荷物の確認をしてくると伝え、アパートへ上がった。リビングには友人2人がいて、駿と絵麻さんは並んでソファに座っていた。
「なんか、大ごとにしてごめんね」
友人の1人が私に言った。私は小さく首を横に振り、畳んだ段ボールを壁に立て掛けた。
「私から2人に聞いてもらいたいことがある。嫉妬して絵麻さんを追い出したっていう話、違うから」
「別に、穂乃香が悪いって責めてるわけじゃないよ。1週間くらいのことで別れるの、もったいないと思ってさ」
駿は友人の方を見ながら言った。絵麻さんも小さくうなずく。
「私が出た日は10日目だよ。7日目にいつ帰るか聞いたら、もう少し待てって言ったよね」
「姉ちゃんとまだ話せてないって言うから、仕方なく」
「延ばすって、穂乃香にも相談したの?」
友人に聞かれた駿は、私の方へ視線を戻した。
「話はしてたよ。2人で何回も」
「私がいつ帰るか聞いて、駿が決めないで終わる話ね。最初に泊めるときも、絵麻さんはもう部屋にいた」
「駿、穂乃香には言ってあると思ってたから」
絵麻さんが友人に向かって答えた。私は彼女を見た。
「来た日に私に聞いたよね。本当に聞いてなかったのかって。私、今知ったって答えたよ」
「……それは、そうだけど」
「私の本を動かすのもやめてって言った。家事も手伝ってほしいって言った。駿には私の方から場所を空けろ、早く起きろって言われた」
「本はもう読んだやつだったし。絵麻だって、世話になるだけじゃ悪いって飯作ったんだよ」
駿がそう返したので、私は息を吸い直した。
「そのご飯、私の分はなかった」
友人の1人が、スマホを持っていた手を止めた。
「木曜のカレー? 写真送ってたやつ?」
「うん。私が帰ったとき、鍋にもご飯にも何も残ってなくて。帰る時間は送ってあった」
「だって駿が、穂乃香は遅いから2人で食べようって」
「俺、穂乃香の分を作るなとは言ってないよな?」
駿がすぐに絵麻さんを見た。絵麻さんは膝の上のスマホを握り直した。
「そういう言い方はしてないけど、2人分でいいって言ったじゃん。私だけが意地悪したみたいに言わないでよ」
「2人とも帰る時間を知ってて、2人分にしたんだよね。帰ってきた私には、コンビニで買えばよかったって言ったよね」
駿は口を開け、私を見てから、友人の方を見た。
「……飯なら、今から買ってくるって言ったんだよ、あの日も」
「その前の話、ずっとしてるんだけど」
声が少し震えた。友人にまで、カレーを食べ損ねて怒っているだけだと思われるのが嫌だった。
友人の1人が駿へ向き直った。
「それで私たちに、穂乃香を説得してほしいって頼んだの? 聞いてたのと全然違う」
「だから、俺も悪かったと思ってるし。今日帰るならそれでいいだろ、絵麻」
絵麻さんが隣を見た。今度はうなずかなかった。
「急に言わないでよ。まだお姉ちゃんと話ついてない」
「そこは2人で話して。私、荷物を運ぶから」
私は棚の前で箱を広げた。友人のもう1人が、手伝っていい、と聞いてくれたので、本を詰めてもらった。顔を見られるとまた泣きそうで、ありがとうと言って下を向いた。
薄い詩集を入れて箱を閉め、炊飯器のプラグを抜いたところで、駿が立った。
「ちょっと、それ持ってくの? 炊飯器は置いてってよ」
「私が買った物だから持っていく。昨日もそう送った」
「2人で使ってたじゃん。俺、明日からどうすんの」
何を食べるかも、米を炊くかも、私はもう決めなくていい。内釜を出して水気を拭き、別の袋へ入れた。
「来月の家賃もさ、半分急になくなると困るんだけど。今から1人で払うの無理だし」
「今月分までって確認したよね。来月からは払わないよ」
「急に別れるって言われたのこっちだし、次の部屋決まるくらいまでは」
「私のご飯は要らなくても、私が払う家賃は要るんだね」
駿の顔が赤くなった。私も耳が熱かったが、口にした言葉を取り消すつもりはなかった。
「絵麻がしばらく住むなら、絵麻に相談して。私はここで暮らさない」
駿は黙って絵麻さんを見た。その視線を受けた彼女が、先に声を上げた。
「私が半分払うの? 泊めてくれるって言ったよね。そんなお金出すなら、ここにいる意味ないんだけど」
「じゃあ、何も払わずずっといるつもりだったのかよ。家事だって、穂乃香が出てってからほとんど俺がやってるし」
「私、ここの住人じゃないし。友達泊めて、そんなこと言う?」
「だったら、私の棚を空けさせないでよ」
絵麻さんが私を見た。私はレンジの扉をテープで留め、箱のふたを閉じた。
駿は、絵麻のことを思って言ってやったのに、とまだ何か続けていた。絵麻さんはそんなにお金が大事なら最初から言ってほしかったと返した。2人の声が重なり、友人が本の箱を持ち上げて、先に玄関へ運ぶね、と私に言った。
普段ならここで、誰が何をするかを決めて、足りない分を自分でやっていた。私は父に、荷物を下ろすから来てほしいと連絡した。
絵麻さんが、箱を運んでいた友人の袖を引いた。
「今日、そっちに泊めてもらえない? 2、3日でいいから」
「うちは無理。妹と住んでるし、今の話を聞いた後で頼めないよ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「お姉さんと話したら?」
「戻りたいなら約束した生活費払って、自分の家事やれって。それが嫌で出てきたのに」
玄関に上がってきた父の前で、絵麻さんは言葉を切った。友人もそれ以上は答えず、父に会釈して箱を渡した。
まだ彼女は駿の方を見ていたが、駿はもう、泊まっていいとは言わなかった。今夜からどこへ行くかを、私に決めるよう求める人もいなかった。
最後に棚を運び出し、私は鍵を返した。玄関は、誰か1人が出るたびに身体を避け合うほど狭かった。この先ここで誰が何をするか、2人には話すことがたくさん残っている。
「管理会社への連絡、お願いね。清算のお金の振り込みも、決めた日までに」
駿は鍵を握ったまま、何も答えなかった。私は返事を待たず、父の後ろを追って階段を下りた。
外へ出ると足が少し震えていた。助手席に座るまで、駿にも絵麻さんにも見られたくなくて、鞄を握ったまま歩いた。
翌日は、11時の待ち合わせに間に合うように身支度を整えた。洗面台の鏡を覗くと少しだけ瞼が浮腫んでいたので、冷水で絞ったタオルをしばらく押し当てた。これから好きな本を見に行くのに、暗い顔をして出かけるのは嫌だった。
11時ちょうどに駅の改札を出ると、丹羽くんは柱の横で文庫本を読んでいた。私に気づいて本を閉じた拍子にしおりが落ち、2人で同時にかがみ込んだ。
「ごめん、拾ってくれてありがとう。……おはよう」
「おはよう。その本、もう最後まで読めた?」
「あと20ページくらい。たぶん、最初の章に出てきた刑事が犯人だと思う」
「結末は言わないでね。私、まだ真ん中くらいだから」
「まだ俺の推理が合ってるかどうかも分からないよ」
駅ビルへ上がる途中、丹羽くんが嫌いだと言った登場人物を、私は結構好きだと答えた。私が怒った箇所で彼は笑っていたし、彼の気になる台詞を私は読み飛ばしていた。後で読み返すから、ページを教えて、と頼んだ。
大型書店の新刊コーナーで目当ての単行本を無事に見つけた後、私は奥の郷土資料や古い街並みを扱ったコーナーへ足を向けた。個人経営の古い喫茶店や、地方の商店街の歴史を記録した写真集が好きで、この書店の棚にはそうした趣味に合う本が多く揃っていた。
「私、あっちの棚もじっくり見たいんだけど、少し時間かかっちゃうかも」
「俺は文庫の新刊をもう1回見て回るから平気だよ。12時くらいにレジの前で落ち合おうか」
「12時ね。丹羽くんの方も時間がかかりそうならメッセージ送って」
1冊を手に取り、見返しや目次をじっくりと眺め、気になった箇所を拾い読みしてから次の本に手を伸ばした。ふと、帰りに夕飯の買い出しをしなければならないという日常の義務が頭をよぎったが、今日は母と交代で夕食を作る日であり、買うべき食材のリストは既に昨晩のうちに母と相談して決めてあったことを思い出した。
腕時計を見ると、約束の12時までまだ10分もあった。
レジの前で合流した丹羽くんは、私が小脇に抱えていた本を見るなり小さく吹き出した。
「その著者の本、この前のバイトの休憩中にも読んでたよね。昭和の看板建築を集めたやつ」
「よく覚えてるね」
「バイト先で焼きそばパンを口にくわえたまま、この本がいかに素晴らしいかを力説されたら嫌でも覚えるよ」
「それは忘れてくれていいんだけど」
私が抗議すると、丹羽くんは楽しそうに笑いながら、今度の本にはどんな建物が載っているのかと尋ねてきた。路地裏の古本屋へ向かう道中、私は買ったばかりの本を紙袋から半分引き出し、表紙に写っている木造の金物屋の造りについて歩きながら話した。
週明け、駿から同居人が退去したことを管理会社へ伝えたと連絡があった。清算のお金も振り込まれていたので、受け取ったと返した。
絵麻さんが実家へ戻ったと知ったのは、その翌日だった。グループLINEに、朝は6時台に家を出なければ間に合わず、もう通うのが嫌だと届いた。
『駿が急に出ろって言うから。本当に困ってるのに、誰も泊めてくれないんだね』
週末に泊めてほしいとまた頼まれた友人が、前にも断ったよ、と返した。もう1人も、姉と決めていた分担の話を先に済ませるようにと答えた。
『じゃあもう頼まない。駿も、2度とうちに連絡してこないで』
それを最後に絵麻さんはグループを抜けた。実家が遠いことも、姉と話すことも、初日から同じだった。ただ、今度は駿も引き止めなかった。
その後、2か月ほどかけて、大学の講義とアルバイトの合間に部屋探しと引っ越しを進めた。
両親からの仕送りの額を増やすわけにはいかないため、1人暮らし用のワンルームは当然ながら駿と同棲していた部屋よりも手狭になる。父と母に初期費用の一部を立て替えてもらい、アルバイトの給料から毎月少しずつ返済していく約束を交わした。駅から自転車で10分ほど離れた木造アパートの6畳間を契約し、内見の際には駐輪場の空き状況と、カラーボックスを並べる予定の壁の寸法を入念にメジャーで測った。
部屋を見に行き始めて2週間ほど経った日、駿から、前のアパートを解約すると連絡が来た。
『仕送り増やしてもらえなくて、今の家賃は払えない。来月中に出ることにした』
了解と返すと電話が鳴った。もし共通の支払いで確認が残っているなら、終わらせておきたかった。
「清算のお金、何か間違ってた?」
「それは終わってる。ただ、引っ越す金も掛かるしさ。新しい部屋の物も買わないといけないし」
内見でもらった間取り図を机へ伏せ、私は椅子に座った。
「頼むから、もう1回だけ考えてくれない? 戻ってきてくれたら、引っ越さなくて済むし」
「戻らないよ。私も自分の部屋を探してる」
「俺、あそこで穂乃香と暮らすつもりでいたんだよ。急に1人になってさ、絵麻も、私を泊めたからこうなったって責めたら怒って」
「駿が泊まっていいって言ったんでしょう」
黙った後、駿が、そうだけど、と言った。
「絵麻、お前から何か言ってもらえない? 俺が全部悪いって言いふらしてるみたいで。穂乃香なら、話聞くかと思って」
「自分で話して。私はもう2人の間には入らない」
「……分かった。ごめん」
通話を終えて、今後の連絡はやめてほしいと送った。今度は返事を待たずに連絡先を消した。
翌月の終わり、駿から残った4人のグループへ、ワンルームへ引っ越したと連絡が来た。前の部屋は引き払ったこと、1人用の小さい冷蔵庫に買い替えたことまで書いてあった。
大学で会った友人の1人は、通りかかったときに駿が箱を運んでいるのを見たと話した。駿は穂乃香に何か聞いていないかと尋ねたそうだが、その子は自分で伝えてあることが全てでしょう、と答えたという。
「もう戻ってって頼まないから。あのとき、ごめんね」
「話、聞いてくれてありがとう。本も運んでもらったし」
今度借りたい、と彼女が言ったのは、箱に詰めたあの薄い詩集だった。私は来週持ってくると約束した。駿の話はそこで終わりにして、午後の教室へ一緒に向かった。
私の引っ越しの日も、日が暮れてなお段ボールが2つ残っていた。先に炊飯器と電子レンジを置き、棚へ本を並べて満足してしまった。肝心のお皿がまだ箱の底だ。完全に順番を間違えたと思いながら、紙コップのお茶を飲んだ。
前の部屋で荷物をまとめた夜を思い出して、少し寂しくなった。2人で暮らすのを楽しみに選んだ家具もあったから、何もかも忘れたわけでもなかった。それでも自分の棚から読みかけの本を抜き、まだシーツを掛けていないベッドへ寝転がると、気づけば夕飯の時間を過ぎていた。
丹羽くんとは、引っ越しの準備中も何度か本屋へ行った。新居の話も、駿と別れたことも私から話した。彼は少し黙り、そうだったんだ、と言った後で、自分の飲み物を私の肘へぶつけそうになって慌てて避けた。私まで落ち着かなくなって、持っていたマグをテーブルへ置いた。その日は新人の子が泡立てに失敗したミルクを2人で引き受け、やたら量の多いカフェラテを飲んだ。
4度目に2人で出かけた帰り道、駅前の改札の手前で丹羽くんがふと立ち止まった。
「次、もしよかったら、普通にデートとして誘ってもいいかな」
私は持っていた書店の紙袋の持ち手をぎゅっと握り直した。返事の言葉を探すよりも先に、頬が緩んでしまった。
「うん。私も丹羽くんと付き合いたい。次は私から誘おうと思ってた」
「ほんとに? 毎回本屋ばかり付き合わせてるから、退屈させてるんじゃないかって少し不安だったんだよね」
「私も丹羽くんと行きたい場所、本屋以外にあんまり思いつかなかったからお互い様だよ」
顔を見合わせて笑い合った後、丹羽くんは次は映画を観に行こうと提案してくれた。私は小さく頷き、それからずっと考えていたことを言葉にした。
「付き合っても、今の部屋でしばらく1人暮らしを続けたい。せっかく見つけたし、自分の生活にも慣れたいから」
「もちろん。俺も今のワンルーム、先月更新手続きを済ませたばかりだしね」
丹羽くんが更新料の高さについて愚痴をこぼし始めたので、私も駅から自転車で10分かかる道のりの不便さを語った。雨の日の通学の面倒さについて笑い合いながら歩いた後、どちらからともなく初めて手を繋いだ。丹羽くんの指先は少し冷たく、私の手も同じくらい冷え切っていることに気づいて、私たちは夜の駅前でまた顔を見合わせて笑った。
その週末、丹羽くんは待ち合わせの時間の5分前には改札の前で待っていてくれた。映画を観て、遅めの昼食を取り、帰り道には結局いつも通り駅前の大型書店へ吸い寄せられた。
夜、自分の部屋に戻ってから、今日新しく買った文芸誌をカラーボックスの端へ差し込んだ。隣には、まだ文庫本が1冊分だけ収まる隙間が残されていた。
机の上のスマートフォンを手に取り、来週は商店街の路地裏にある古本屋へもう1度行きたいとメッセージを送った。11時集合はどうかなと書き足すと、すぐに画面が光り、昼ご飯も一緒に食べるなら12時集合にしようと返ってきた。
12時にしようと返信を送った後、この前自転車で見かけた小さな定食屋の地図のリンクを貼り付けた。日替わりの献立表を眺めていると、丹羽くんの方からも、魚の煮付けが美味しそうだね、とメッセージが届いた。
私も来週はそれを食べたい、と返した。返事が来るのを待つ間、届いたばかりの本を手に取り、ベッドへ寝転がった。
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