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働かないエルフと封魔の森  作者: あずきまんま


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第01話|ついでに、これも

定時を告げる電子チャイムが社内に鳴り響いた瞬間、森川莉奈は静かにキーボードから指を離した。


オフィスの白い蛍光灯の下で、周囲の席から椅子を引く音や、帰宅を急ぐ同僚たちの足音が聞こえ始める。莉奈は凝り固まった首筋を手のひらで揉みほぐしながら、二十四インチの液晶ディスプレイに並ぶ設計書とテスト結果を見つめた。今日中に終わらせるはずだった修正は、まだ二つ残っている。


森川莉奈、二十九歳。システム開発会社でSEとして働いている。要件を整理し、仕様を詰め、開発担当と顧客の間を調整するのが本来の仕事だった。けれどここ最近の実態は、社内の雑用引き受け係に近い。


半年前、会社がAIを業務へ本格導入したことが、すべての発端だった。上層部は「これからはAIで開発工数を大幅に削減できる」と期待し、見積もりも納期も以前より厳しくなった。簡単な設計書やコードなら短時間で形になる。それを見た営業や管理職は、今まで数日かかっていた仕事まで「AIを使えばすぐ終わる」と考えるようになった。


だが、現場はそんなに単純ではなかった。


生成された仕様書には前提条件が抜け、コードには既存システムとの食い違いが混ざる。動いているように見えても、実際の業務フローに当てはめれば例外処理が足りないこともある。結局、人間が内容を確認し、影響範囲を調べ、必要なら設計からやり直さなければならない。その確認と尻拭いが、仕事を断れない莉奈のところへ集まるようになっていた。


「森川さーん、ちょっと今いいかな?」


背後からかけられた間の抜けた声に、莉奈は内心で深くため息を押し殺した。口元だけを営業用の形に整えて振り返る。立っていたのは営業部の佐藤で、手元には印刷された仕様書らしい紙が握られていた。


「どうされました、佐藤さん」


「いやさ、昨日AIで作った在庫管理システムの改修案なんだけど、先方から『承認済みのデータも後から修正できるようにしてほしい』って追加で言われてさ。これ、パパッと入れといてくれない? ついでに、修正した履歴も見られるようにしてほしいんだって。すぐできるでしょ?」


佐藤は悪気のない笑顔を浮かべ、印刷した要望書を莉奈のデスクの端へ滑り込ませた。


莉奈は手元のToDoリストに視線を落とした。付箋には、今日中に終わらせるべきタスクが五つ並んでいる。自分の担当案件の結合テスト、不具合一覧の確認、午前中に差し戻された設計書の修正。そこへ、また「ついで」が積まれようとしていた。


――すぐ終わるわけがないでしょうが。


承認後のデータを編集可能にするなら、単に画面へボタンを一つ追加すれば済む話ではない。誰が、いつ、何を変更できるのか。変更前の値をどこまで残すのか。権限設定や監査ログへの影響も確認しなければならない。すでに固まっている仕様へ後からねじ込めば、関連する処理まで洗い直すことになる。


「佐藤さん、それ、仕様変更です。権限と履歴の設計から確認する必要がありますよ。今から対応すると、今日予定している別案件のテストに遅れが出ます」


莉奈はできるだけ淡々と言った。責める言い方にならないよう、語尾を抑える。こういう時に声を荒らげると、なぜか頼まれた側が扱いづらい人間のように見られる。それも、莉奈は経験で知っていた。


佐藤は首をかしげ、紙の端で自分の手のひらを軽く叩いた。


「えー、AIに追加要件を入れたら修正版も出てきたよ? 森川さんはプロなんだから、確認して反映するだけでしょ。パパッと一時間くらいでお願いよ。クライアントが明日の朝イチで確認したいって言ってるんだからさ」


「一時間では無理です。影響範囲を確認して、仕様を詰め直してからでないと触れません」


「そこを何とか。俺、もう先方に『直せます』って返しちゃったんだよね」


莉奈は、息を吸ったまま数秒止まった。


今なら断れる。佐藤が勝手に返事をしたのだから、責任は佐藤にある。自分の担当案件を優先します、と言えばいい。言うだけなら簡単だ。だが、その後に発生するやり取りが頭の中で勝手に並んでいく。佐藤からの不満、上司への相談、なぜ協力できなかったのかという確認、結局こちらが工数の説明資料を作る流れ。正論を通すにも、体力が要る。


「……分かりました。確認して修正しておきます」


口に出した瞬間、莉奈は自分の声がひどく平坦になったのを感じた。


「助かる! さすが森川さん、頼りになるわー!」


佐藤は満足げに手を振り、早々に自分のデスクの片付けへ戻っていった。残された莉奈は、紙の仕様書を裏返しにして、深く長い息を吐き出す。善意で引き受けているのではない。ただ揉めるのが億劫で、自分の領域外の仕事まで抱え込んでいるだけだ。頼まれると断れない自分の悪癖が、どれほど自分自身をすり減らしているか、莉奈自身が誰よりも痛感していた。



莉奈は佐藤から送られてきた資料と、AIが出力したという修正版を開いた。


「……うわ、何これ。酷すぎる」


追加された処理だけを追っても、承認後のデータを誰でも変更できる作りになっている。変更履歴は残るものの、操作者を特定する情報が足りず、既存の権限設定とも噛み合っていない。しかも、変更されたデータを参照する別機能への影響は考慮されていなかった。


画面をスクロールするほど、莉奈は目の奥が重くなった。要求された機能だけなら形にはなっている。だが、そのまま組み込めば後から必ず問題になる。既存仕様と照らし合わせ、影響する機能を洗い出し、変更条件そのものを整理し直す必要があった。


「どこがパパッと一時間よ……。先に仕様を決めないと、こんなの入れられないでしょうが」


莉奈は要望を分解し、権限ごとの操作範囲と履歴に残す項目を書き出した。関連する設計書を開き、既存処理への影響を一つずつ確認する。営業が一言で済ませた「ついでに」のために、修正対象は予想以上に広がっていった。


一通りの確認を終え、暫定の修正案をまとめた時、オフィスの時計は十九時半を回っていた。


莉奈が背筋を伸ばし、凝り固まった肩を回した、その時だった。


「森川さん、まだ残ってたんだ。ちょうどよかった!」


今度は制作部のディレクターである高橋が、ノートパソコンを小脇に抱えて莉奈のデスクへ駆け寄ってきた。


「高橋さん、何かありましたか」


「明日の朝の役員会議で使う企画書のプレゼンスライドなんだけどさ。AIで自動レイアウトしたら、図表の位置がズレて文字が枠からはみ出しちゃってて。俺、これからクライアントとの会食に行かなきゃいけないんだよね。森川さん、スライド全体の体裁とフォントサイズ、パパッと整えておいてくれない? ついでにグラフの色味も見やすく調整しといてよ」


「……あの、私、これから自分の担当案件のテスト作業があるのですが」


「大丈夫、森川さんの作業スピードならすぐ終わるって! 頼んだよ!」


高橋は莉奈の返事を待たず、共有フォルダのリンクをチャットツールに投げると、コートを羽織ってオフィスを出ていった。


チャット通知が画面右下で軽く跳ねる。莉奈はそこに表示されたファイル名を見て、こめかみを押さえた。資料は全二十六枚。図表の位置調整だけで済むはずがない。タイトルのフォントサイズも揃っていなければ、本文の行間もページごとにばらばらだった。


「何が『ちょうどよかった』よ……。なんで他人のプレゼン資料の体裁崩れまで私の仕事になってるのよ……」


愚痴を吐き出しても、誰もいないオフィスに消えていくだけだった。放置して帰れば、明日の朝にトラブルとなって現場の空気が悪くなるのは目に見えている。莉奈は椅子に座り直し、歪んだスライドの図表を一つずつ手作業で整え始めた。



時計の針が二十一時を回った頃、オフィスには莉奈のデスク以外の明かりが消えていた。


静まり返ったフロアに、キーボードの打鍵音だけが乾いた音を立てて響く。佐藤から押しつけられた仕様変更をまとめ、高橋の会議資料を整え、ようやく本来の自分のタスクを終わらせたところだった。莉奈は納品前チェックの項目に最後の印を入れ、椅子の背もたれに体を預ける。


「……終わった」


声に出しても、達成感はほとんどなかった。あるのは、体の芯に残った重さだけだ。


「何が『ついでに』よ。ついでに発生する工数が一番重いって、なんで分からないのかしら」


AIで仕事が早くなったはずなのに、空いた時間などどこにもなかった。「すぐできる」と判断された仕事が次々に追加され、その確認と後始末まで莉奈のところへ流れてくる。以前より早く帰れるようになるどころか、残業時間は確実に増えていた。


莉奈は作業端末をシャットダウンし、重い体を持ち上げてオフィスの施錠を済ませた。夜風が冷たく吹き抜ける通りを抜け、駅前のコンビニへ立ち寄る。陳列棚からツナマヨのおにぎりとペットボトルの緑茶を手に取り、無言で会計を済ませた。


帰宅ラッシュを過ぎてまばらになった上り電車に揺られながら、莉奈は窓ガラスに映る自分の顔を眺めた。目の下にはくっきりと隈が浮かび、表情には生気がない。二十代最後の年を、こんな不条理な雑用処理と他人の尻拭いに費やしていていいのだろうか。その疑問すら、疲れ果てた頭には重すぎた。



深夜二十三時過ぎ、アパートの一室に辿り着いた莉奈は、玄関の鍵を閉めると同時に革靴を脱ぎ捨てた。


部屋の明かりをつける気力すら湧かない。手提げ鞄を床に置き、スーツのジャケットを脱いで、リビングのソファーへ倒れ込む。顔を埋めたクッションから、乾いた布の匂いがした。


「疲れた……」


声に出すと、体の奥底から重みが広がっていく。お腹は空いているはずなのに、買ってきたおにぎりの袋を開ける気力すらない。メイクを落とし、シャワーを浴び、明日の出勤準備をしなければならないことは分かっている。だが、指先一つ動かすことも億劫だった。


「もう働きたくない……」


誰に聞かせるでもなく、本音が口から漏れた。


責任感だの社会人としての義務だのに縛られ、頼まれた仕事を断れず、他人の都合のいい道具として消費される日々。そんな生活から逃げ出したい。せめて一日でいいから、誰にも呼ばれず、誰にも急かされず、自分のためだけに眠っていたい。


「誰もいないところに行きたい。朝から晩まで昼寝して、誰の指図も受けないで……静かに暮らしたい……」


深く息を吐き出して目を閉じると、暗闇の中にオフィスのディスプレイの残像が揺れていた。このまま眠ってしまえば、数時間後にはまたアラームが鳴る。満員電車に詰め込まれ、オフィスへ向かい、誰かが笑顔で「ついでに、これも」と仕事を押し付けてくる。


その想像だけで、莉奈はクッションに額を押しつけた。


――ザザッ……ジジッ……。


暗い部屋の中で、奇妙なノイズが聞こえた。


最初は、疲労による耳鳴りかと思った。しかし、その音は少しずつ形を帯び、部屋のどこからともなく、擦れたスピーカーのような無機質な響きを伴って届いてくる。


『:::::::貴方は:::::::で::::::に::::選ばれました;;;;;;;;;;;;;:』


「……は?」


莉奈はソファーの上で眉をひそめた。テレビの電源は切れている。スマートフォンの画面も暗いまま床に転がっている。近隣の部屋から漏れ聞こえる音にしては、あまりにも近い。耳ではなく、頭の中心に直接流し込まれているような感触だった。


『……ツーツー……接続を、確立シマ……』


途切れ途切れの声はそこで一度止まり、砂嵐のようなノイズだけを暗い部屋に残した。


莉奈はスマートフォンを握りしめたまま、ソファーの上で固まっていた。疲労のせいだと思いたかった。けれど、胸の奥に残った小さなざわめきが、これはただの耳鳴りではないと告げている。


数秒後、無機質な音がもう一度、莉奈の頭の内側で鳴り始めた。

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