旦那様を逃がすために
彼と初めて会った瞬間、衝撃が走った。
こんなに綺麗な男性を見たのは初めてだと。
髪の毛の一本一本、長い指先の爪、そして声まで美しく輝いている。
ぽわっと見惚れる私に、彼は嫌な顔をすることもなく、温かいうちに紅茶をいただきましょうと優しく勧めてくれた。
『そんなにぽわぽわしていてはいけませんよ、ソフィア。もう少しシャキッとなさい』
何をするにも何を喋るにも、人よりずっと遅くてぽわぽわしている私は、幼い頃から母にそう注意されて育ってきた。努力の甲斐も虚しく、年頃になってもぽわぽわと冴えない私に、ありのままで生きなさいと母は匙を投げた。
容姿も地味な私は、社交界でのご縁に恵まれなかったため、母の友人の紹介でお見合いをすることになった。
けれど、ぽわぽわ、地味に加え、私は頭もあまり良くない。気の利いた会話もできず、お相手の男性を困らせたり苛つかせてしまっていた。当然『また会いましょう』などと言ってもらえる訳もなく、やっと解放されたとばかりにせかせかと別れるお相手の背中を、何度も見送ってきた。
そんなこんなで、失敗続きのお見合いは今日で十回目だった。
こんなに素敵な男性が私を気に入ってくれる訳などないし、せめて失礼のないようにしなきゃと思うのに、最初からいきなりぽわぽわしてしまった。
男性が好みそうな話題は、一応毎回予習している。飽きられないよう早く口にしなきゃと焦る前に、彼の方から楽しい話題をたくさん提供してくれた。
社交界の華やかで美味しそうなグルメ話に、流行りの舞台の専門的な裏知識。さらに、私の唯一の趣味である、大好きなガーデニングの話までしてくれた。
ただ相槌を打ち、時折訊かれたことに答えるしかできない不器用な私に、彼は退屈そうな素振りを一切見せることなく、一緒にぽわんと笑いお茶を飲んでくれる。
こんなに心地よい空間は初めてだわと、ますますぽわぽわしてしまう私だったが、なんと『結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?』と言われてしまった。『さようなら』でも『また会いましょう』でもなく、いきなり真剣な交際を申し込まれてしまったのだ。
そうして何度目かのデートの後、私は彼と婚約し、結婚していた。
出会ってから僅か三ヵ月だった。
今日も庭で大好きな土いじりをしながら、大好きな旦那様のことを考える。結婚生活は想像以上に素晴らしく、毎日とても幸せだった。
なぜあんなに素敵な人が、私なんかと結婚してくれたのか、未だに不思議でならない。シャベルでかき混ぜた土の中に、優しい旦那様の笑顔が浮かぶたび、ぽわんと胸がときめいた。
ふと、熱い日差しが遮られる。なぜかしらと見上げれば、ずり落ちていた帽子を、旦那様が私の頭に被せてくれたからなのだとわかった。
きゃあぁ……もう本当に、私は世界一の幸せ者だわとぽわぽわする私に、旦那様は微笑みながら言った。
「ガーデニング、好きだったんだな」
「はぁい。今はぁ、トマトの苗を植えていますぅ」
こんなじれったい私の喋り方にも、旦那様は決して怒ったりしない。けれど少しでも早く喋れるようになりたくて、旦那様から教わった早口言葉をこっそり練習しているが、一向に変化はなかった。
会話だけでなく全ての動作が遅い私を、旦那様は急かすことなく付き合ってくれた。
私が半歩進む間に旦那様は十歩、私がちぎったパンをようやく二口飲み込んだ頃、旦那様は二つ食べ終えてしまうほど、私たちのペースは違う。何事にも要領のいい旦那様が、私のペースに合わせるのは大変なはずなのに、「焦らなくて大丈夫だよ」と、何事もおおらかに見守ってくれた。
一緒に外出する時は、必ず私を抱き寄せてさらりと誘導してくれるし、急がなければいけない時は、私を抱き上げてさっと目的地まで運んでくれる。
逞しい腕と温かい胸を思い浮かべぽわぽわしていると、旦那様から突然あることを問われた。
「……ねえソフィア、君は走れる?」
得意ではないけれど、もちろん走れる。
「はぁい」と返事をすると、旦那様はこう言った。
「じゃあさ、そこからあそこの木まで走ってみて」
「わかりましたぁ」
私はシャベルを置いて立ち上がると、土で汚れたエプロンを、ぽんぽんと叩く。
子どもの頃は、よく母と一緒に走る特訓をしたけれど、大人になってからは全然走っていない。どのくらい走れるかしらとわくわくしていると、旦那様が私の前に立ち、「おいで」と腕を広げた。
この「おいで」は、旦那様が私を抱き上げて運んでくれる時の合図だ。嬉しくて、逞しい腕にぽわんと飛び込む私を、旦那様はふわりと抱き上げてくれる。
『ソフィアは綿毛みたいに軽いから、心配しなくても大丈夫だよ』と旦那様は言うけれど、本当は結構重いと思う。旦那様がゆっくり食事を摂らせてくれるものだから、結婚式の時に比べて2キロも太ってしまったんですもの。
私のせいで腕を痛めてしまったらどうしましょうと心配する間に、旦那様は私を抱いてさくさくと歩き、スタート地点で下ろしてくれた。
旦那様の合図で、私は走り出す。
前だけを見て、思いきり腕を振り、ゴールの木に到着した。
「はいっ」
普段はぽわぽわしている私がこんなに走れると知ったら、旦那様は驚くに違いない。キリッと顔を引き締め反応を窺っていると、旦那様から新たなミッションを与えられた。
「じゃあソフィア、君はこうやって……少し姿勢を低くして歩ける? あ、こうしてハンカチで口と鼻を覆って、さっきスタートした所まで戻ってごらん」
「はぁい」
旦那様から渡されたハンカチを口元に当て、私はさっきのスタート地点を目指す。低い姿勢で歩くのはなかなか難しく、転んだり道を大きく逸れないように真剣に挑んだ。
ぽわり、ぽわり。
走った時より大分時間はかかってしまったが、なんとか無事にスタート地点まで戻れた。
「はぁぁぁい」
着きましたよと振り返れば、旦那様は私を見て楽しそうに笑っている。ミッションをクリアできたのかしらと嬉しくなって、私も得意気に笑い返した。
ぽわぽわしているうちに、いつの間にか目の前に立っていた旦那様は、さっきの笑顔から一転、真剣な顔で私に言った。
「ソフィア、今日から僕と避難訓練をしよう」
「訓練ですぅかぁ?」
「うん。この間、隣街の伯爵邸で放火事件があっただろう? 火事じゃなくても、いつ、どこで災害が起こるかわからない。だから、いざという時安全に避難できるように、一緒に訓練をしよう」
放火事件……火事……災害……
私はゾッとする。旦那様だけなら素早く逃げられるかもしれないけれど、もしぽわぽわな私と一緒の時に災害が起きて、旦那様が逃げ遅れてしまったら大変だ。
だから旦那様は、私がどのくらい走れるか、正しく避難できるかを試していたのねと納得する。もっと早く走れるように、もっと器用に避難できるようになるためには、旦那様の言う通り、訓練が必要だ。
私は緊張しながらも、「はぁい」としっかり返事をした。
汗ばんだ私の額を、優しく拭ってくれる旦那様を見て決意する。
火事だろうが地震だろうが雷だろうが、旦那様には指一本触れさせない。旦那様だけは、絶対に無事に逃がしてあげるのだと。
それから私たちは、休日のたびに避難訓練をした。
旦那様が立てたプランどおり、まずは屋敷の脱出ルートを確認し、素早く外へ逃げる練習から始める。また、旦那様が揃えてくれた防災グッズや、防災に関する本で知識を身に付けたり、夫婦で街の防災訓練に参加したりもした。
結婚してから数カ月が経ち──
旦那様が十歩進む間に半歩だった私が、三歩も進めるようになった頃、ちょうど旦那様の事業が閑散期を迎えたため、長期休暇を取れることになった。
新婚旅行も兼ねて、港町のホテルに泊まらないかと旦那様に提案され、私は嬉しくてぽわんっとはしゃいでしまった。
運河で舟に乗ったり、浜辺で夕陽を見たり、豪華な海鮮料理を食べたり。そんな素敵な体験を、素敵な旦那様と一緒にできる。楽しみすぎてずっとそわそわぽわぽわしていたけれど、旅行の前日、荷物の隙間に防災グッズと手製のハンドブックを押し込む旦那様を見て、私はハッとした。
そうよね。旅先で何が起こるかわからないもの。しかも旅行の間、旦那様はずっと私の傍にいる。つまり、旦那様が逃げきれない危険性が増すということだ。
避難訓練のおかげで多少慣れてきたとはいえ、旦那様と比べれば、私は歩くのも走るのもずっと遅いのだから。
私は旦那様に向き合うと、ずっと言おうと思っていたことを口にした。
「旦那様ぁ」
「ん?」
「もしぃ、私とぉいる時にぃ災害がぁ起きたらぁ、私を置いてぇ、逃げてぇくださいねぇ」
すると旦那様は、荷造りする手をピタリと止め、悲しそうな顔をこちらへ向けた。
「なぜそんなことを言うんだ? 僕が君を置いて逃げる訳ないだろう?」
「でもぉ、もし私のせいでぇ、旦那様がぁ煙や炎にぃ巻き込まれたりぃ、何かの下敷きにぃなったらぁ、私はとってもぉ悲しいです」
話しているだけで泣いてしまいそうな私の手を、旦那様は優しく握り、赤子をあやすような柔らかな口調で言う。
「ソフィア。あのね、もし君を置いて僕だけ助かったとしても、僕は死んだも同然なんだよ?」
「……どうしてぇですかぁ?」
「だって、君が傍にいてくれなきゃ、僕はうまく息ができないんだから。たとえ生きていても、一人ぼっちになってしまったら、僕は死んだも同然なんだよ」
──旦那様は交際中から、ことあるごとに、『君が傍にいると息ができる』と口にする。
それがどういう意味なのかはわからないけれど、旦那様のこの苦しそうな顔を見れば、本当に息が止まってしまいそうで怖くなる。
旦那様が息をするために私が必要なら、私もがんばって逃げなければと思った。
そのためには……
私はあることをお願いするために、勇気を出して口を開いた。
「あのぅ、旦那様ぁ。私ぃ、避難訓練もぉがんばったぁしぃ、旦那様のためにぃ一生懸命ぃ逃げたいぃです。でもぉ……夜がぁ……」
そこから先をなんと伝えたらいいのか。壁にぶつかり、私は言い淀んでしまった。
どんなに避難訓練をがんばっても、夜は役に立たない気がして不安だった。なぜなら旦那様と一緒に眠ると、疲れ果てて足腰が立たなくなってしまうからだ。自分の足で逃げられるように、もう少し加減してほしい。
──それが、私のお願いしたいことだった。
ただ正直、この『加減』の部分がよくわからない。
私たちの夫婦生活が普通なのか、もし普通じゃないとして、何をどれくらい加減すれば、毎朝シャキッとベッドから起き上がれるのか。
夜のことは全て旦那様にお任せしているし、そんなことは恥ずかしくて誰にも訊けなかった。
それでも旦那様は、もごもごもじもじする私を見て、お願いしたいことを察してくれたようだ。
「ああ」と神妙な顔で頷き、「一緒にいる時は、僕が抱いて運ぶから大丈夫だよ」と爽やかに微笑まれてしまえば、私はもうそれ以上何も言えなかった。
こうしていよいよ迎えた旅行当日。
三日かけて辿り着いた国境の港町は、大変素晴らしかった。
初めて訪れた場所は初めて見るものばかりで、ぽわぽわとはしゃぎ続けてしまう。そんな私を、旦那様はにこにこと見守ってくれていた。何もかもが輝いて見えるのは、旦那様が隣にいるからだと思えば、ぽわんと胸が熱くなった。
予定どおり、運河でしっとりと舟に乗り、浜辺でうっとりと夕陽を見て、豪華な海鮮料理をたっぷりのんびり食べた。
夜になり、海が一望できる部屋で身を寄せ合えば、すぐに空気はぽわぽわと甘くなる。
大好きな旦那様に触れられて、始まりはいつも幸せなのに、抱き締められているうちに、私の息は止まりそうになってしまう。
いつにも増して激しく切ない波を何度も超えた後、私は気だるい瞼をぽわぽわと閉じた。
ねむ……い……
「……か……です! すぐにひな……てください!」
何やら騒がしい気もするがどうでもいい。
旅行はまだ続くのだし、明日に備えて眠らせてほしかった。
もぞもぞと布団に潜る私を、大好きな声と手が揺さぶる。
「……フィア! ……きろ! ……じだ!」
眠すぎて、何と言われたのかわからない。
とにかくもう無理だと訴え、さらに布団の奥へと潜り込み──そこで意識は途絶えた。
涼しい風が、ふっと瞼をくすぐる。
息を吸えば、潮の香りに混ざり、薄荷みたいな旦那様の匂いと、焦げ臭いにおいが微かに鼻腔に流れ込んだ。
ここはどこかしらと開けた目に、ぽわんっと飛び込んできたのは、息を呑むほど美しく幻想的な景色だった。
「綺麗ぃ……ほらぁ、お月様がぁ海に映ってぇ、上もぉ下もぉ空みたい~」
「そうだね」と答え、私の髪を優しく撫でてくれる旦那様にホッとする。
ここがどこでも、夢でも現実でも、大好きな旦那様の腕の中なら何も怖くはなかった。
私は旦那様の頬にチュッと唇を落とす。いつもどおり、恥ずかしくてすぐに唇を離してしまったけれど、もしこれが夢の中なら、もっとぽわぽわくっついていてもよかったかなと思う。
くすりと笑う旦那様の声を子守唄に、私は海のように深い眠りの世界へ吸い込まれていった。
翌朝、ホテルのボヤ騒ぎで外へ避難したことを旦那様から聞かされ、私は驚く。大騒ぎだったらしいけれど、眠すぎたのか、ほとんど覚えていなかった。
厨房の一部が燃えただけで、怪我人もいないと聞き、私はよかったと思う。出火原因も放火などではなく、火の不始末だったらしい。
やっぱり夜は避難訓練を活かせなかったわと少し悔しくなるが、本当に私を抱いて避難してくれた旦那様を、より頼もしく愛しいと感じていた。そして、整った高い鼻が普通に息をしているのを見て、旦那様が無事でよかったと心から安堵していた。
「火でもぉ煙でもなくぅ、旦那様とぉ月夜の海にぃ浮かぁぶ夢を見ましたぁ」
そう言う私に、旦那様は、「本当に海にいたんだよ」と悪戯っぽく教えてくれた。
そんなハプニングはあれど、私たちは無事に新婚旅行から帰って来た。
伯爵邸の放火事件の犯人も捕まったらしく、適度に避難訓練は続けつつも、最近はぽわんと穏やかに暮らしている。
今日は休日。
二人で街の避難訓練……ではなく、流行りの舞台を観に行った。物語も演技も素晴らしいし、初めて会った日に旦那様が話してくれた、最新の舞台装置に注目しながら観るとより楽しめた。
そしてこの後は、旦那様お勧めの、社交界のマダム御用達のスイーツを食べに行く予定だ。
二つの軒先の二つの看板を、私はぽわんと見比べる。
うーん。チョコレートとナッツのタルトも美味しそうだけど、今はやっぱり旬の……
「ソフィア、こっちが食べたい?」
苺のケーキの看板を指差してくれる旦那様に、私はぽわんとときめき、「はぁい」と返事をした。
それにしても、どうして旦那様は、こんなに私のことをわかってしまうのだろう。子どもの頃から、『わかりづらい』とか『掴みづらい』などと言われてばかりだったのに。
不思議ねと、旦那様の顔をぽわぽわ見上げる私の頬に、綺麗な唇がチュッと降ってきた。嬉しくて嬉しくて、私も腰を屈めて待つ旦那様の頬にキスをお返しした。
ぽわぽわくっついていたら、恥ずかしくて溶けてしまう。私はいつもどおり、素早く頬から唇を離すが、旦那様にぐっと腰を抱き寄せられてしまった。
旦那様は、私の肩にぽわんと顔を埋め深呼吸している。吸って吐いてのリズムは、私に負けないくらいぽわぽわしていて、すごく楽そうに感じた。
私といるとなぜ息ができるのかはわからないけれど、お仕事の時はキリッとしている旦那様が、私の傍を少しでも楽だと感じてくれているなら嬉しい。
広いのに赤ちゃんみたいな背中を、私はぽわぽわと撫でてあげた。
「さあ、ケーキを食べに行こうか」
「はぁい」
お店から漂う甘い香りに、私たちはぽわんと笑顔を交わし、温かい手を繋いだ。
そうね。私たちはきっと、こんな感じでいい。
焦らず、ぽわぽわと呼吸できるような、そんな心地よい速さで歩いていこう。
ありがとうございました。




