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陰気な婚約者を罵倒した王太子の発言が、王宮議事録第417巻・最終項に登録されるまでの所要時間0.3秒

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/30

 王宮規則第12条――王太子妃教育に関する全工程は、双子の記録侍女により逐次記録されるものとする。


 この条文を、婚約者である王太子レオナルド殿下は、5年間ただの一度も読まなかったらしい。


 夜会の壇上で、殿下は私――伯爵令嬢クラリス・ローズベルク――に向けて、堂々と人差し指を突きつけた。


「お前のような陰気な女、王太子妃にふさわしくない! 婚約は、本日をもって破棄する!」


 会場に小さなどよめきが走る。


 壇下の招待客たちは、ある者は驚き、ある者は嗤い、ある者は眉をひそめて目線を逸らした。


 私の隣で、男爵令嬢ロザリーが甘ったるい声を上げる。


「殿下、あんまりですわ。クラリス様が、お可哀想……」


 可哀想、ですって。


 それは台詞ですか、それとも追加の暴言ですか――そう問い返したい衝動を、私は喉の奥に押し戻した。


 代わりに、視界の端でかすかに羽根ペンが動く。


 私の背後に控えていた双子の侍女、ミーナとリーナが、いつもの完璧な姿勢で羽根ペンを走らせた音だ。


「ただいまの『陰気』、王宮議事録第417巻・最終項に追加いたしました」


「魔法石への音声記録、所要時間0.3秒で保管庫へ転送完了でございます」


 ミーナの声は天鵝絨のように柔らかく、リーナの声は氷のように透明だった。


 2人の声に、ようやく――本当にようやく――王太子殿下の眉が、ぴくり、と動いた。


「……記録、だと?」


 はい、殿下。


 王宮規則第12条によれば、王太子妃教育の全工程は、双子の記録侍女により逐次記録される義務がある。


 つまり、5年間。


 貴方様が私を「陰気」と呼ぶたび、「気が利かない」と罵るたび、ロザリー様に「君こそ私の太陽だ」と微笑みかけるたび、その全てが、一字一句、欠けることなく、議事録に登録されていたのですわ。


 ご存じでした?


 いいえ、ご存じのはずがない。


 貴方様は、王宮規則というものを、5年間ただの一度も読まなかったのですから。


 王太子殿下は、しばらく口を開けたまま固まっていた。


 壇上で動きを止めた殿下の背後では、双子が変わらず羽根ペンを走らせている。


 動かない殿下を一瞥して、ミーナがにこりと微笑んだ。


「閣下、まだお続けになりますか? 第417巻・最終項、追記欄の余白に空きがございます」


「本日付けの侮辱発言は、ただいまの一件で17件目でございます。月間最多記録を更新中でございますわ」


 リーナが手元の魔法石を軽く撫でながら付け加えた。


 音声記録器の総録音時間表示が、ほのかに青く光っていた。


 絶句する者は、誰もいない。


 いない、というより、誰も双子の話の意味を理解できていなかったというのが正確だ。


 男爵令嬢ロザリーが甘えた声で殿下の腕に縋りつき、不思議そうに首を傾げる。


「殿下、議事録……? なんのお話ですの?」


「知らん。気にするな、ロザリー」


 殿下は気を取り直したように胸を張り、ロザリーの腰に手を回した。


 その手の動きすら、リーナが「本日7回目の身体的接触、男爵令嬢に対するもの」と魔法石に吹き込んでいることを、殿下はやはりお気づきにならない。


 哀れな、と思うべきだろうか。


 いいえ。


 憐憫を抱く資格は、5年前にお返ししてしまった。


 私は静かに腰を折り、淑女の礼を取った。


「殿下のご決断、謹んで承りますわ」


「フン、最初から素直にそう言っておけばよかったのだ」


 殿下が鼻を鳴らす。


 淑女の礼の角度が、規則上「敬意の最低限度」を示す15度であることを、双子だけが議事録に書き留めていた。


 ◇


 私は陰気だと言われている。


 夜会で笑わない。お喋りの輪に加わらない。流行のドレスにも興味を示さない。


 それは事実だ。


 ただし、私が笑わないのは、5年間にわたる王太子妃教育の全課程で、笑うべき場面が一度も提示されなかったからである。


 殿下は教育講師の挨拶を遮って自慢話を始める方だった。


 教育講師は困った顔で資料を捲り、私は黙って空白の欄に補足を書き込む。


 そういう5年間だった。


 双子の議事録によれば、私が王太子妃教育の場で「笑顔を見せた」回数はゼロ。


 殿下が私に「お疲れ様」と声をかけた回数も、ゼロ。


 殿下が男爵令嬢ロザリーに「君こそ私の太陽だ」と微笑みかけた回数――こちらは、直近半年で543回。


 完璧な対照実験データである。


 必要。


 その言葉は、ずっと前から知っていた。


 必要なのは王太子妃教育を完遂する忍耐であって、私自身ではない。


 必要なのは家格であって、私の声ではない。


 必要なのは沈黙であって、私の笑顔ではない。


 ならば、私は、何のために5年間ここに立っていたのだろう。


 答えは双子が416冊の議事録の中に、記録してくれているはずだ。


 私が記録される側でしかなかった、5年間の証拠として。


 春の終わりの夜気が、開け放たれた窓から滑り込み、双子の羽根ペンの軸を撫でていく。


 羽根の白さが、灯りに透けて、薄氷の縁のように淡く光っていた。


 ふと思い出す。


 5年前、王宮の渡り廊下で、私の歩き方を一度だけ褒めてくださった方がいた。


「歩幅が一定だ。淑女としてではなく、観測者として優秀だ」


 あの時、私は、その奇妙な褒め言葉に、何故か泣きそうになったのだった。


 名前は――確か。


「殿下のご決断、議事録第417巻・最終項に登録いたしました」


「本日付けにて完結。次巻より、新規記録は男爵令嬢ロザリー様の妃教育課程に移行いたします」


 双子の声が、夜会のざわめきの中で奇妙に澄んでいた。


 殿下は満足そうに頷いて、ロザリーを抱き寄せ、軽やかな足取りで壇を降りていく。


 背後で記録され続けている事実には、最後まで目を向けなかった。


 私は淑女の礼を保ったまま、視線だけを上げる。


 会場の高い天井に、シャンデリアの光が、凪いだ水面のように静かに揺れていた。


 沈むときは音も立てないであろう、その静謐な明るさを、私はしばらく見つめた。


 冷たさ、であった。


 怒りでも、悲しみでもない。


 胸の奥に落ちてきたのは、ひどく平らで、紙のように薄い「終了」の感触だった。


 ◇


「クラリス様」


 私が会場を辞して長い廊下を歩き始めたとき、背後から低く落ち着いた声が呼び止めた。


 振り返ると、月光が大きな窓から斜めに差し込み、相手の輪郭を縁取っていた。


 漆黒の正装に銀の細紐、王家の紋章を控えめに下げた胸元――王弟ヴィルフリード殿下。


 王宮監査会議の議長を務める、王国第2位の男性である。


「歩幅が、一定でいらっしゃる」


 ヴィルフリード殿下は、5年前と同じことを仰った。


 私は思わず立ち止まる。


「……お久しゅうございます、ヴィルフリード殿下」


「5年と2ヶ月ぶりだな。あのとき以来、私は遠目から君を見るだけだった」


 言葉が、静かに心臓を抑え込んでくる。


 遠目から、5年と2ヶ月。


「君が王太子妃教育の講義室で、講師の言葉を一度も遮らずに聞いた回数は、1324回。逆に、レオナルド殿下が講師の話を遮った回数は、1592回。この差を、私は毎週、双子の議事録から確認していた」


「殿下――」


「君が3年目の冬、左手首を痛めた時期がある。羽根ペンの筆圧が、3日だけ落ちた。議事録の補注に『令嬢、本日歩行時に左肩を庇うご様子あり』と書かれていて、私はあの3日間、ずっと君の手首を心配していた」


 声が、出ない。


 ヴィルフリード殿下は、ゆっくりと続ける。


「私情、と言われれば私情だ。だが、5年間、君を守るための制度を運用してきたのも、私だ。だから今日のこの議事録は、私情ではなく――王国の正義だ」


 月光の中で、その言葉は冷たくも温かくもなく、ただ静かに、揺るぎなく響いた。


 春の夜の風が、開いた窓から流れ込み、シャンデリアの光をふわりと揺らす。


 その光が、まるで初めて、私のために揺れているように見えた。


「殿下、1つだけ伺ってもよろしいですか」


「ああ」


「双子のミーナとリーナは、王宮規則の定める『記録侍女』として、王宮の人事課から派遣された者……ということに、なっておりますが」


「正しくは、王宮監査会議直属の監査記録官だ」


 殿下が微かに口角を上げる。


 その微笑みは、5年前と同じく、ひどく不器用だった。


「5年前、君とレオナルド殿下の婚約が決まった日に、私が王太子宮の人事に紛れ込ませて配置した。表向きは記録侍女、実態は監査記録官。彼女らの記録は、王宮人事課ではなく、監査会議室の機密金庫に直接送られている」


 ――守られて、いた。


 5年間、ずっと。


 知らないところで、ずっと。


 私は、月光の落ちる廊下の真ん中で、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 それから、双子の方を振り向く。


 いつの間に背後に立っていたのか、ミーナとリーナが、揃って淑女の礼を取っていた。


「お嬢様、5年間、お側に侍ることを許されました幸運を、私たちは心から感謝しております」


「お嬢様の議事録は、ただいまより監査会議の正式証拠として、ヴィルフリード殿下のお手元へ移送いたします」


 守る。


 記録する。


 証拠とする。


 その3つが、5年かけて重なったとき、初めて私の盾になった。


 ◇


 翌朝、私は実家のローズベルク伯爵邸に戻った。


 戻った、というよりは、双子が荷をまとめ、ヴィルフリード殿下が手配した馬車が私を送り届けたというのが正しい。


 私自身は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 屋敷の玄関で、兄が腕を組んで仁王立ちしていた。


 ローズベルク伯爵家次期当主にして近衛騎士団副団長、リオネル・ローズベルク。


 兄は私の顔を見るなり、低く一言唸った。


「クラリス、お前、また顔色がない」


「兄上、おはようございます」


「『おはようございます』じゃない。婚約破棄されたんだろう、夜会で。父上が王宮から戻られたら、その足で殴り込みに行かれるところだったぞ」


「殴り込みは、規則違反でございます」


「規則違反でも何でも構うか。妹に陰気と言った王太子の顎は、騎士団副団長の右拳で粉砕されるべきだ」


 兄が真顔で力説する。


 私は思わず、5年ぶりに、ふっと唇の端を緩めた。


「兄上、お気持ちだけで十分でございます」


「気持ちだけで済ませるな。お前は健気でいい。父上と俺が代わりに、王太子殿下に対する一切合切を激怒する」


「では、私は何を担当いたしましょう」


「お前は、ヴィルフリード殿下の隣で、淑女の礼を完璧に保て」


 兄は鼻を鳴らした。


「あの方は、5年も妹を遠目に見守るだけだった不器用な男だ。お前が一歩踏み出してやらねば、また5年遠目に立ち尽くすぞ」


 兄上、と私は静かに微笑んだ。


「ご家族の代弁機能、まことに見事でございますわ」


「うるさい」


 ◇


 一方、王太子レオナルドは、晴れやかな朝を迎えていた。


 寝室のカーテンを侍従が引き開けると、春の光がたっぷりと差し込み、ロザリーの寝顔が枕の上にあった。


 昨夜、ロザリーは嬉しそうに彼の腕にしがみつき、王太子妃に内定したのだ、いや実態としてはもう私こそが妃なのだ、と何度も繰り返し、彼の胸の中で甘えて眠った。


 あの陰気で不愛想なクラリスの顔がもう見られないと思うと、清々する。


 あの女は、5年間、ただの一度も自分に微笑まなかった。


 ロザリーは、この半年で543回も――いや、レオナルドは数えてはいないが――微笑みかけてくれる。比べるまでもない。


 書類が机に積まれていた。


 昨夜の婚約破棄に伴う事務手続き、王太子妃教育課程の継承書類、監査会議への提出書類――どれも長く、面倒くさい。


「全部、サインだけしておけ」


 レオナルドは侍従にそう告げ、机に羽根ペンを投げた。


「確認はよろしいので?」


「読まずとも判は同じだろう。王太子の判だ」


 侍従は深く一礼し、書類の束を彼の前に差し出した。


 レオナルドは中身を一切読まず、表紙のサイン欄にだけ、流麗な署名をしていく。


 その中に、1枚――。


「王宮議事録第1巻〜第417巻、王宮監査会議への正式提出および婚約破棄に伴う妃教育課程完結に関する承認書」


 というものが、混ざっていた。


 王太子の署名と捺印は、王太子妃教育課程の議事録を「監査会議の調査資料として正式提出する」こと、ならびに婚約破棄に伴い妃教育課程を完結させることへの承認となる。


 通常、長期にわたる議事録は王太子妃の即位と同時に保管庫へ封印されるのだが、婚約破棄により王太子妃が変更となる場合、監査会議の事前審査を経なければならない――という規則が、実は存在する。


 規則第24条。


 レオナルドが、5年間ただの一度も読まなかった条文の、ひとつだ。


 羽根ペンが軽やかに、サイン欄を撫でる。


 所要時間0.3秒。


 規則を読まない男の最後の仕事は、自分の罪状にサインすることだった。


 ◇


 王宮監査会議室。


 円形の議場の中央に、楕円の長机が置かれている。


 議長席にヴィルフリード殿下、書記席に双子のミーナとリーナ、傍聴席に国王陛下、宰相、各派閥の派遣議員、そして――。


 被告席に、王太子レオナルド。


 その隣に、震える指で扇を握り潰している、男爵令嬢ロザリー。


 長机の上には、革装の議事録が417冊、整然と積み上げられていた。


 背表紙の金文字が、ランプの光を吸って静かに鈍く光る。


 私は証人席に立ち、淑女の礼を取った。


 ヴィルフリード殿下が、議事録の1冊を開く。


「王宮規則第24条に基づき、王太子妃教育課程に関する正式監査を開始する。資料はすべて、こちらの議事録全417巻」


「殿下、お待ちください!」


 レオナルドが声を上げた。


「私は、確かにそのような書類にサインをしたかもしれぬ。だが、内容を読んでおらぬ! よって、無効だ!」


「王太子レオナルド殿下」


 ヴィルフリード殿下の声が、議場を貫いた。


「王宮規則第31条。『王族の署名は、その内容を熟読したものとして、規則上完全な効力を有する』。ご存じですね?」


「そ、それは――」


「5年間、ただの一度も読まれていない条文ですね」


 沈黙。


 議場が、凍る。


 レオナルドが顔色を失っていく傍らで、ロザリーが甲高い声を上げた。


「議事録なんて、そんなもの! 偏見に決まっておりますわ! クラリス様の侍女が、勝手に書いたものでしょう?」


「ロザリー嬢」


 ヴィルフリード殿下は、ロザリーを見もしなかった。


 視線は手元の議事録に落ちたまま、淡々と1冊を捲る。


「議事録第134巻、項目52。『男爵令嬢ロザリー、王太子の腰に手を回した回数、本日付け7回』。同じく項目53、『男爵令嬢、王太子に「私こそ妃にふさわしい」と耳打ちした回数、本日付け11回』。これらは双子記録侍女の口頭速記と、魔法石の音声記録の双方で、同時刻に確認されています」


「そ、そんなの、捏造です!」


「魔法石の音声記録は、王宮認定魔法師の封印を経たものです。捏造は、原理上、不可能です」


 ロザリーの顔から、血の気が引く。


 ヴィルフリード殿下は、議事録の積み上げの一番下から、1冊を引き抜いた。


「対照実験データを、議場にご提示します」


「対照実験……?」


「王太子レオナルド殿下の対人発言記録、集計結果」


 ヴィルフリード殿下が、双子に小さく頷く。


 ミーナが朗々と読み上げ始めた。


「クラリス様への侮辱発言、年間平均203件。総計、1015件」


「同じくクラリス様への称賛発言、年間平均、ゼロ件。総計、ゼロ件」


「ロザリー嬢への称賛発言、直近半年で543件」


「ロザリー嬢への身体的接触、直近半年で72回……」


「もうやめろ!」


 レオナルドが拳を机に叩きつけた。


 ミーナは表情ひとつ動かさず、続ける。


「閣下、議事録第418巻、項目1に追加いたしました。『王太子、議場の机を拳で叩く、所要時間0.3秒』」


 くす、と。


 誰かが笑いを噛み殺した音が、議場に響いた。


 国王陛下である。


「レオナルド」


 陛下が、低く、重く、息子の名を呼んだ。


「お前は、5年間、何を学んでいた」


 レオナルドは、答えられなかった。


 顔は赤と白の間を行き来し、ロザリーの肩越しに、私の方を、ようやく見つめた。


「クラリス、すまない。私が悪かった。婚約破棄を撤回する、戻ってきてくれ」


 ああ、と私は心の中で頷いた。


 来た。


「殿下」


 私はゆっくりと、淑女の礼を取り直した。


「議事録第417巻は、本日付けで完結しております。規則上、再開することは不可能でございますわ」


「そんな規則が――」


「規則第12条第4項。『議事録の巻は、王太子の正式な署名により完結された場合、いかなる理由があっても再開できない』。殿下が今朝、ご自身の手で承認なさいました」


 レオナルドが、ぐらりと、椅子の背に倒れ込む。


 その隣で、ロザリーが甲高く叫んだ。


「あんまりですわ! クラリス様、私は何も悪いことをしておりません! 私はただ、殿下に愛されていただけです!」


「ロザリー嬢」


 ヴィルフリード殿下が、初めて彼女を見た。


「あなたが王太子に近づいた最初の日、議事録には『男爵令嬢、王太子妃教育中のクラリス様の不在を確認した上で、王太子に接触』と記録されています。あなたは、クラリス様がその場にいない時を、計算して狙った」


「な――」


「これも、対照実験データです。ご納得いただけますか」


 ロザリーは、何かを言いかけて、口を開いたまま、固まった。


 遅い。


 たった4文字が、こんなにも遅い。


 彼女はこの半年で、自分の振る舞いの全てを、誰かに見られていることを、知らなかったのだ。


 ◇


 監査会議が結審し、議場が静まり返ったとき。


 ヴィルフリード殿下が、議長席を立った。


 彼は議場の中央まで歩み出ると、私の前で、ゆっくりと片膝をついた。


 国王陛下が、目を細める。


 議員たちが、息を呑む。


 私は、その光景を、どこか遠い水底から眺めているような気持ちで見ていた。


「クラリス・ローズベルク伯爵令嬢」


「……はい」


「5年間、君を記録される側に置いてきた責は、私にある。本来であれば、私が君に直接声をかけ、君を守るべきだった。だが私は、規則と議事録という遠回りでしか、君を守ることができなかった」


「殿下――」


「これからは、私が君を、記録する側でいたい」


 ヴィルフリード殿下は、私の左手を取った。


「君の歩幅が一定であること。羽根ペンを持つときの薬指の角度。3日に1度、議事録の余白に小さな花の落書きをすること。冬になると左手首を庇うこと。夜半を超えると、赤茶のインクのほうが滲みにくいことを知っていること」


「……どうして、そんなことまで」


「5年間、毎週、議事録を読んでいたからだ」


 殿下は、いつものとおり、ひどく不器用に微笑んだ。


「君の笑顔も、寝起きの寝癖も、欠伸の仕方も、これからは私が直接見て、私の記録帳に書き留めたい。双子の議事録ではなく、私の手で。許してくれるか」


 春の夜気が、議場の高窓から、また流れ込んでくる。


 光が揺れる。


 その揺れが、もう、私のために揺れていた。


「殿下、1つだけ、訂正してもよろしいですか」


「ああ」


「それは、私情でございますわ」


「……ああ」


「ですが――王国の正義より、私のほうが、ようやく嬉しゅうございます」


 ヴィルフリード殿下が、ふっと、声を漏らして笑った。


 5年と2ヶ月で、初めて聞く、彼の笑い声だった。


 ◇


 半年後の春。


 王宮の庭園では、薄紅色の花弁が風に乗って静かに散っていた。


 ヴィルフリード殿下は、王弟領アシュレイの公爵位を継ぎ、私はその公爵夫人クラリス・アシュレイとなった。


 元王太子レオナルドは、王太子位を廃され、北方の修道院で「規則熟読修養課程」に従事しているらしい。


 年限は10年。


 1日も読み飛ばしは許されないと、修道院長から定期報告書が届く。


 父である国王陛下が、このうえなく満足げな顔で、その報告書を眺めていらっしゃる。


 男爵令嬢ロザリーの実家は男爵位を剥奪され、彼女自身も平民として地方都市に降った。


 社交界では「対照実験データ嬢」という、彼女が最も嫌うであろう異名で語り継がれている。


 双子のミーナとリーナは、王宮監査会議直属の正式記録官として、王宮人事録に登録された。


 給金は2倍、地位は伯爵令嬢相当。


 今は私の私邸にも常駐し、夫の身辺記録に従事している。


「お嬢様、本日のヴィルフリード様の発言を本日付け個人記録帳に登録いたしました」


「『今朝の君は、いつもより半歩早く起きた』」


「『寝癖が、私が見た中で最も愛らしい角度だった』」


「ロマンチックな発言、所要時間0.3秒」


「相変わらず工学的でいらっしゃいますわね」


 双子の声が、朝の食卓に乱れもなく重なる。


 夫は赤面してパンを齧り、私は静かに微笑んだ。


 5年間、私の笑顔は議事録にゼロ件と記録されていた。


 半年で、543件を超えた。


 議事録第1巻、項目1――。


 『公爵夫人クラリス、本日も笑った。所要時間、生涯の続く限り』


 明日も、私の議事録は、続く予定でございますわ。


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