大山彗は傘をさす
四月の終わり、いつもより遅い桜の花びらがまだ大学の舗道に散っている。
それでも、今日の雨で、そのすべてが流されてしまうのだろうか。
大山彗は赤い和傘をさして歩いていた。
長く真っすぐな黒髪を揺らしながら、彼女は雨の日も風の日も、日差しが強い日ですらも、その真っ赤な和傘と一緒に堂々と歩いていた。
彼女の髪や服は、どんなに風が吹いても乱れたところを見たことがない。
同じ学部にいることは知っていた。
でも、教室で隣に座られたのは、あの日が初めてだった。
水曜日の四限目、僕は最後方の窓側の席に座っていた。
授業を真剣に聞くでもなく、ただ窓の向こうで降りしきる雨を眺めていたのだ。
授業が始まってしばらく経つと、カツンカツンと聞き覚えのない音が教室の後方の入口から聞こえてきた。
音につられて目を向けると、そこに現れたのが大山彗だった。
遅れてきても彼女は堂々としていて、真っすぐに僕と同じ長机の席に向かってきた。
長机の通路側の席に赤い和傘を脇に置いて、一つ内側の椅子に浅く腰かけた。
教室の外にある傘立てに和傘を置かなかったのは、余程その和傘を大切にしているからなのだろう。
和傘と机がコツンとぶつかる音が、耳の奥に残っている。
リュックから何かを取り出したとき、彼女は手を滑らせてそれを落とした。
黒色の革張りのペンケースだった。
ファスナーの部分に付けられたキーホルダーが床にぶつかり、小さな音を立てたので、視線を下に落とす。
思いがけず、音を立てたそれは流行っているアイドルグループのものだった。
思わずそれに反応してしまうと、ペンケースを拾い上げた大山彗と目が合った。
彼女は少し笑いながら、「知ってるんだ?好きなの?」と言った気がした。
突然のことに動揺してはっきりとは聞き取れず、僕は首を縦に振ることしかできなかったが、彼女は微笑んでもくれていた。
今年のゴールデンウィークは毎日が快晴で、絶好の行楽日和ではあったが、僕は早く授業が再開すればいいのにと思っていた。
そんなことばかり考えていると気付けば連休も終わっていて、明けてから最初の水曜日を迎えた。
四限目の授業は退屈ではあったが、学生には人気だった。
理由は単純で、出席をせずとも単位が貰えることで有名だからだ。
受講している学生は多いはずなのに、教室はいつもがらんとしていた。
そんな授業に律儀に僕が顔を出すのも、熱心に教授から教えを乞いたいわけでもなく、あの日の再現をどこかで期待しているからだ。
授業が始まる五分前になっても彼女は姿を現さず、始業のチャイムが鳴ってもあの赤い和傘が視界に入ることはなかった。
しかし、その五分後――大山彗はあの日と同じように、少し遅れてもいるのに、あの赤い和傘と一緒に堂々と後方の入口から現れた。
僕はそんな彼女をずっと見ていたのかもしれない。
目が合ったためか、彼女が僕に気付くと僕の隣まで来て、何でもないように腰をかけた。
それからの水曜日は、僕にとっては彗の曜日となった。
彼女は決まって五分遅れて教室にやって来るが、それを咎める者はここにはいない。
歓迎しているのは、きっと僕だけだ。
授業が終わると、彼女はすぐに教室をあとにする。
教室の外では、五月晴れというには少し暑い日差しが降り注いでいて、赤い和傘はまた彼女の肩の上で花を開いていた。
雨の日も晴れの日も、赤い和傘の色は決して褪せなかった。
気が付けば、昼休みが終わるよりもだいぶ早く、僕はあのいつもの席を陣取るようになっていた。
万が一、この教室に他の学生がやって来てあの席を奪わないように、彼女が僕を見失わないように。
授業の内容は右から左に抜けていったけれど、和傘の赤だけはずっと目の端に残った。
彼女のことを観察している内に、分かったことがいくつかあった。
彼女が大学に来るのは月曜日と金曜日、それから水曜日だけだった。
大学には数人の同性の友人がいるようで、彼女たちとの会話の中で、僕は大山彗が地方の出身だということを知った。
そして、彼氏はいないとも言っていた。
自分でも驚くほど、心臓の奥が熱くなるのを感じた。
初めて二人で昼を食べたのは、五月の終わり――その日は真夏日だった。
僕は水曜日の三限目も授業を取っていたのだが、その日は休講となってしまった。
やることもなく、四限目の席取りにはまだ早かった。
なんとなく――いや、何かを期待して、僕は学内を隈なく歩いた。
偶然立ち寄った学内の小さな喫茶店に、彼女がいた。
彼女はそこで軽食を取っていた。
ブラックコーヒーとツナとたまごのサンドイッチ。
コーヒーに甘みは入れないみたいだ。
翌週、僕は三限目の授業には出ず、喫茶店で彼女を待った。
コーヒーは苦手だが、ブラックを頼んで席を取っていると、やはり彼女は現れた。
それからも毎週、彼女は決まって三限目のタイミングでそこに現れたので、僕も一緒に軽食を取るようになった。
初めのうちは、僕は彼女とは別のものを頼んでいたけど、気が付けば同じメニューを選ぶようになっていた。なんとなく、それだけで近づけた気がした。
なんだか彼女と共に過ごしているようで、嬉しかった。
僕が初めて彼女と同じ席になったあの水曜日以来、雨は降っていなかった。
とある午後、彗は友人たちに土日にどこかへ行こうと誘われていた。
しかし、彼女は「アルバイトがあるから」と笑っていた。
僕も誘おうかと考えていただけに、彼女たちが断られるたびに胸の奥に小さな棘が刺さったような気がしたけれど、水曜日にはまた同じ笑顔で隣に座っていた。
六月の最後の水曜日、その日の大山彗は授業が終わったあと真っすぐに帰らず、大学の総務課のある棟に向かっていた。
僕もそれについていくと、その道中、廊下に貼られていた花火大会のポスターを見かけ、彼女はそのポスターの前で足を止めた。
誰かが掲示板に貼ったままのそれは、少し端が剝がれていたが、彼女はそれをしげしげと眺めていた。
そういえば、彼女は花火が好きだと言っていた。
僕たちは、初めて一緒に外に出ることになった。――花火大会。
梅雨の時期だというのに、六月も結局、雨が降らなかった。
七月に入っても、暑い日々は続いた。
雨が降る気配は全くないのに、湿気だけがしつこくまとわりつく蒸し暑さは、人々に不快感を与えていた。
しかし、僕だけは違って感じた。
この熱さは、ただの夏じゃない。
自分の胸の中で燃え続けている何かが、空を焦がしているみたいだった。
花火大会の直前、水曜日の三限目の頃、僕はいつもの喫茶店に向かったが、いつも彗が座る席はポツンと空いていた。
授業には遅れてやってくる彗だが、喫茶店には必ず先にいたというのに。
仕方なく、僕は喫茶店を出て、いつも通りの最後方の窓側の長机を陣取った。
試験が近いからか、いつもより学生の数が多い気がしたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
授業が始まって、五分が経ったが彗は現れなかった。
それから、また五分、十分と経っても、あの赤い和傘が視界に入ることはなかった。
結局、その日は彗は大学にやって来なかった。
彗の曜日だというのに。
太陽だけが、やけに眩しかった。
花火大会の当日は、今年一番の猛暑日だった。
ただ、それ以上に湿度が高く、川辺の近くにいるというのに、一切涼しさを感じられなかった。
直前の水曜日のことをふと思い出し、僕は彗が本当に来るのかと不安になっていた。
額から頬を伝ってダラリと流れる汗は、きっと湿気のせいだけじゃない。
待ち合わせの時間になっても、彗は現れなかった。
まだ大丈夫だと思いながらも、不安はどんどん強くなっていった。
しかし、川沿いの人混みを分けるように、いつもの五分遅れであの赤い和傘が目に映ると、僕の心の内には湿気が吹き飛ぶような、からっとした熱風が吹いた気がした。
右手には赤い和傘を、左手には小さな巾着袋。
赤い金魚の飾りが可愛らしい。
浴衣姿の彗は、いつもの長い髪を高い位置でまとめていた。
初めて見た瞬間、この夜が終わらなければいいと思った。
花火が終わり、音の残骸が夜空に散って、川面にだけ小さく残った。
大勢の観客の流れに逆らうように、彗はその場で立ち止まったまま、目の前に流れる川を見つめている。
花火の残響を名残惜しむように、彗は何も語らなかった。
僕もそれに付き合っていたが、視線は彗を中心にぼやけ、通りすがる人々の雑音よりも、左胸の奥の鼓動だけがやけに大きかった。
しばらく経つと、川沿いに残ったのは自分と彗だけだった。
沈黙はさらに深く落ちた。
沈黙が続けば続くほど、身体は火照り、熱を帯びていく。
僕は意を決して、口を開こうとした。
その時、それよりも先に彗のうっすらと色づいた唇が動いた。
「やっと、ここまで出て来てくれたのね」
遠くで雷鳴が響いた気がした。
彗は川面を見たまま、小さく息を吸い込んで、こちらを振り返った。
「大学だと、人が多すぎるから」
赤い和傘の先端が、ゆっくりとこちらに向けられる。
「……あなたのせいなの。ずっと暑いのは」
意味が分からずに、息を飲んだ。
「全部、あなたが乾かしたんだよ」
声は穏やかだったけれど、夜風よりも冷たかった。
「……だから、あなたがいなくなれば、ちゃんと雨は降るの」
和傘の骨が左胸を冷たく突き刺したとき、頬にひとしずくの冷たいものが落ちた。
視界の端で、赤い和傘が花のように揺れた。
そうか、だからあの和傘は赤かったのか。
痛みと、雷鳴。
さっきまでの熱気はどこかへ消えていた。
――雨の音が、する。