氷帝の軍帥1
時は近未来。
日本は未曾有の災厄に晒されていた。
異界の歪みから漏れ出した、魑魅魍魎。
妖怪とも異形ともつかない存在が現世を侵食し、旧来の兵器はその大半が通用しなかった。
人類は、技術と信仰、そして霊的な要素を統合させた「霊機術兵」と呼ばれる新たな兵力を開発し、かろうじて持ちこたえていた。
そして、その対妖戦線の最上層に立つ人物──
氷見 尊。
国家軍の最高指揮官にして、実質的な総帥。
冷徹にして静謐、着物に羽織という、戦場にはまるで似合わない格好のまま、軍中枢で指揮を執るその姿から、兵たちは彼をこう呼んでいた。
──氷帝。
その軍師としての才覚は確かに異常だった。
どれほどの劣勢でも、彼が指揮を取れば勝つ。
誰も死なせず、誰一人欠けさせず、まるで盤面を読むように勝利を引き寄せる。
だが、氷見 尊はあくまで「頭脳」であり、「非戦闘員」だと誰もが信じていた。
──彼が自ら戦場に出たことは、一度もない。
だからこそ、その日、誰もが絶句した。
彼は、たった一人で“あれ”に囲まれていた。
■■市上空、座標X-107、座標Y-82。
地上から広がる黒い影。無数の魑魅魍魎が街を覆うように出現し、その中心でただ一人、氷見 尊が立っていた。
羽織を翻し、ただ黙って立つその姿は、誰が見ても異常だった。
武器を持たず、防具もつけず、軍装も着ていない。
生中継されている映像の前で、司令部の兵たちは声を失っていた。
「なぜ……氷見様が……?」
「逃げて……っ、逃げてください……!!」
「くそっ!なんで現場に!?」
誰もが思った。
彼は“人間”だ。
幾ら優秀でも、“あれ”に囲まれては終わりだ。
──だが、氷見 尊は、笑った。
音もなく、静かに。
まるで、この瞬間を楽しんでいたかのように。
「……ふむ。やはり、そろそろかと思っていたよ」
口元に、わずかな笑みを浮かべながら彼は言った。
「トップに立つ者は、いつか狙われる。そう思って、ずっと準備だけはしていた」
「……誰にも言っていなかったが、私は"変わる"ことができる」
「──必要ないと思っていたから、黙っていただけだ」
その言葉と同時に、風が吹き荒れた。
周囲の魑魅魍魎が奇声をあげ、距離を取る。
まるで、“何か”を本能で察知したかのように。
氷見 尊の足元に、漆黒の紋章が浮かぶ。
羽織がふわりと宙に舞い、着物が裂ける。
その背から、黒き羽が“咲いた”。
金属のように重く、刃のように鋭いその羽は、まるで悪魔の鎧。
──彼の体に、禍々しい文様が浮かび上がる。
その瞳は光を失い、闇を灯す。
「……変身」
その声が響いた瞬間。
氷見 尊の姿は、“神”にも“悪魔”にも見える何かに変わっていた。
額には古の刻印、腕には神話の武具、そして背中から伸びた漆黒の翼。
彼は静かに、手を上げ、指を鳴らした。
瞬間。
──全ての魑魅魍魎が、消し飛んだ。
音すらなかった。
ただ存在が“なかったこと”にされたかのように、闇は静かに霧散していた。
映像を見ていた兵士たちは、誰一人言葉を発せなかった。
誰も知らなかったのだ。
氷見 尊が、自らの身一つで世界を変えうる存在だったことを。
そして、映像越しに彼が一言だけ呟いた。
「……さて。少し羽目を外しすぎたかもしれんな」
「これが、私の“もう一つの姿”だ。隠していて済まなかったな」
「だが、これで皆、分かっただろう?」
「──私は、誰にも護られなくていい」
「……護る側でしか、ありえないんだ」
その日以降、彼の存在は神話となる。
**「氷帝の軍帥」は、ただの軍師ではなかった。
国家の最終防衛、“人型の神話兵器”**として、密かに記録されることになる。
そして彼自身は、その翌日、何事もなかったように軍帽を被り、事務室で冷めた茶を啜っていた。