第十一話 おはよう
「おはよ、チカ」
朝、教室に入るとリツがいた。わたしの後ろの席に座る彼は、にこやかに笑い、耳の横を三回指でたたいた。頭上には『62』という数字が、何もない空間に張り付いている。
「あっ、お、おはよう……」
数ヶ月ぶりの言葉を発したせいか、すこしぎこちなくなってしまった。それでもリツは笑顔のままだから、安心してわたしも笑う。
「ねえ、チカ。昨日のことなんだけど……」
他愛のない会話をしたあと、リツは表情を硬くしてそう言った。
「チカは見たんだよね? 彼女の——彩音リンカのHALOを」
『46』
落下する二桁の数字。
赤く染まった、人間だったもの。
その光景がフラッシュバックして、軽い吐き気がした。
「あんまり思いだしたくないよね。ごめん、いまの話忘れて」
リツは慌てて手をふって、ごまかすように苦笑を浮かべた。
「見てたよ」
わたしは吐き気を抑えていった。
「『46』だった。わたしと変わらないくらい、彼女のHALOは低かった」
「そっか。僕も同じ数値をみた」
「でも、どうしてそれが気になるの? 自殺してもおかしくないでしょ?」
「たしかにおかしくはない。でもどうやら彩音リンカって人は、クラスの中でトップのHALOだったらしいんだ」
リツは目くばせするように、まわりを見た。
教室のなかで、クラスメイトたちはいつもより、活発に何かを話していた。聞き耳をたてると、「彩音リンカ」というワードが聞こえた。どうやらその会話は、一学年上の女子生徒が自殺した、ということだけではないらしい。
「つまり彼女は、一番だったHALOが急激に下がったから自殺したってこと?」
「まあ、そうだろうね。でも一つおかしなことがあるんだ」
「おかしなこと?」
「うん。うわさによると彼女は昨日『90』以上の数値をたもっていた。そして僕たちの他に、低いHALOを見た人はいないらしい」
『46』
見間違いではなかったはずだ。
リツも同じ数値を確認している。わたしが見たのは、確かな数値のはずだ。
でも、短時間で、急激にHALOが下がることなんてあるだろうか。ケガをしても痛みを感じないわたしたちに、そこまでの不幸が存在するだろうか。
「わたしたちの見間違いだったのかな。一瞬のことだったから、間違えたのかも」
「そうだったとしても、『90』以上のHALOで自殺するなんて、聞いたことがない。僕たちが見たのは、きっと確かだよ」
見たこと、あるよ。
わたしは心のなかでそう言った。
高いHALOをもったまま自殺する人——
わたしが見た彼女のHALOは『100』だった。
HALOの最高値を出したまま、美しい彼女は首をつった。
もしかしたらそれは、世界で最も幸福な死だったのかもしれない。
でもそんなこと、リツにも、誰にも、言えなかった。
「なにかが起こったのかもしれない」
リツはぽつりと、独り言のように言った。
その低い声は、どこか、不吉な予感を感じさせた。
わたしたちの間に沈黙がおりたとき、ドアの開く音がした。
教室が、凍りついた。騒がしかったクラスメイトたちの声が、ぴたりとやんだ。
『58』
「みんなおはよ! 今日はちょっと寝不足でだるいだけだから。みんな全然気にしないで!」
四宮カレンがそこにいた。
クラストップのHALOをもっていた彼女が、慌てた様子で弁解している。
「ほんと、今日はたまたまだから」
『58』
その数字はいつもより長く、彼女の頭上に浮いているように見えた。
——なにかが起こったのかもしれない。
リツの言ったことを、わたしは頭の中でくりかえした。




