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バタフライエフェクト

ヒロインであるはずのアリアの瞳は深淵のように暗く、私を見ているようでまるで見ていない抜け殻だった。

没落して平民になるはずだったのが、ならなかっただけ。

大貴族ほどではなくても貴族として裕福な暮らしをして、両親とともに幸せに生きていくことができたはずなのに。

なのに……。


「ア――」


私がもう一度声をかけようとした途端、ヒロインは椅子をけ飛ばすような勢いで立ち上がり、壁際へと逃げて縮こまってしまう。

ゲームで見ていた面影の無い、華奢とさえ言い淀むほどに不健康そうな小さな体を震わせている姿は酷く痛ましくて、自分のことではないのにもかかわらず心が痛む。


「ユーリア嬢」


忠告を聞かなかった私を責めるでもなく穏やかに声をかけてきてくれたプリムラ様は彼女を一目見ると首を横に振り「だから言ったでしょう」と呟く。

本当はこんな子じゃない。もっと明るくて、いい子なのだと言いたい言葉が喉にまで差し掛かる。


「先生曰く、極度の対人恐怖症だそうですわ。ただ……それが事実かどうかは疑わしいところではありますが」


その根拠はないけれど、でも、お茶会に呼べば参席することがあるし授業にも来ている。

やらなければならないことについてはたとえ人との接触があるとしても対応してくれるらしい。

まだ5日間の接触しかない為、それ以上は何も分からないが同じように学ぶ貴族の子息子女が慮って距離を置くほどにはヒロインの人格が壊れてしまっているようだった。


「貴女が領地で非常に社交的で貴族らしからぬ快活なご令嬢であることは窺っています」

「えっ……あ」

「ふふっ……これでも公爵家の娘ですし、学び舎を共にするご令嬢の噂程度はわたくしも耳を通していますから」


取り戻した記憶の私は酷く病弱で一切の運動をすることが出来なかったこともあって、

健康的すぎるユーリアとしての人生はその鬱憤を晴らすほどに激しく生きようとしてきた私は、馬車は極力使わずに自らの足で駆け巡っていたし、乗馬を習って駆け抜けたこともある。

溺愛してくれる両親に我儘を言い、ヒペリカムの剣術を身に着け、先んじてちょっとばっかり魔術を習いもした。

快活とはそれでも頑張って言い含めた言葉に違いないが、他国のみならず、魔力を宿した獣を相手にすることも多い盾の血統である私は、その言葉こそが誉れだとも言える。

本来のユーリアはひび割れた盾を支えるのに必死で非力な令嬢と大差なかったことを考えれば、大きすぎる変化だ。


そう――まるでヒロインのように。


「……バタフライエフェクト」

「バタフライ……エフェクト? とは?」


ぼそりと零れた言葉に疑問符を浮かべたプリムラ様に「特に意味のない言葉ですよ」と嘘をついて笑みを浮かべて見せたけれど、鏡を見なくてもそれが引き攣っているのが分かるほどに心が乱れていた。

小さな蝶の羽ばたきでさえ、どこかでは大きな力となっている可能性を現した言葉で、それは主に時間を超越し、過去改変を行うような作品に登場する概念。

何か一つ、細やかでも変化を齎したことがきっかけで未来が大きく変わってしまうことへの葛藤として扱われることが多かったように思う。

そして……今まさに、私の及ぼした影響が目の前に現れているのではと、不安を覚えたからだ。


私の知っている設定ではヒペリカム辺境伯家とグラディウス男爵家に一切のかかわりはなかったしそれぞれの死に関係はまったくない。

けれど、ヒペリカム辺境伯が死の運命を回避したことにより行われなかったことが多く行われ、

逆に、行われたはずのことが行われなかったことも多いと思う。

それが巡り巡ってヒロインの父親の命を救い、その果てにヒロインの心が壊れてしまうような何かが起きた可能性は否めない。

あるいは……そう、私がこの世界で目を覚ました時に夢だと否定した『転生』という現象が発生していて、ヒロインもまた転生者であり、その事実にもがき苦しんで生きてきたのかもしれない。


けれどそれを確認するには、あまりにもヒロインが壊れすぎていて。


「そこでなにをしている! 講義を始めるぞ!」


いつ入ってきたのか分からない歴史学の先生の張り上げた声にもプリムラ様は一切動じることなく笑みを浮かべると「問題ありませんわ。先生」と、淡々と答えたのちに「ユーリア嬢」と私の肩に軽く触れて離れるように促す。

悪役になるとはとても思えない、穏やかな様子のプリムラ様に従ってヒロインから距離を取ると、怯えたまま私達の方を一瞥したヒロインがゆっくりと席へと戻っていく。

私の介入が境遇を変えすぎてしまったのなら、彼女を救うのは私の責任。

もしそうでなかったとしても、たとえ彼女が転生者と混じった結果だったとしてもどうにかしてあげたい。


機械仕掛けの人形のように無理矢理生かされているかのように動きが覚束ないヒロインは、

本来であれば屈託ない笑みを浮かべ、謀略に病む王太子の心に寄り添い、数多くの人々の心を照らす聖女であるはずだったのだから。

そうでなければならないと強制はしたくない。けれど、今の彼女が正常であるとはとても思えないから……これは私の義務だ。

少なくとも、私の介入による変化が齎したバタフライエフェクトではないと確信出来るまでは負わなければならない責任だと思う。

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