夢
手放した意識が戻り始めて、重い瞼をこじ開けて真っ先に見えたのは何よりも重要な衛生管理が徹底された天井と汚れ一つ見当たらない真っ新なカーテン。陽の光を代わりに浴びてくれているカーテンは開いたばかりの目には眩しくてちょっぴり痛い。
自分の心音よりも聞きなれた医療機器の一定の電子音に目を向けると、機械ではなくいつもの人影が見えた。
「……健人」
兄としての呼称が慣れなくて、照れくさくて友達のような呼び方をする。そんなこと知りもしない兄はいつものように顔をあげて私に笑みを見せると「起きたか」と一言だけ呟いて手元のノートを鞄にしまう。部活もやっている兄は時々休んだり早めに抜け出してはこうして私に会いに来る。
無理しなくても聞いてくれないのは兄としての意地のようなものだってお父さんが言っていた。
その意地とやらで私のためにと色々とゲームを用意してくれるようになってからは退屈しなくなったし、多忙な両親の代わりを務めるかのように、足繁く私に会いに来てくれていることには感謝している……ううん、感謝していた。
私の世界には兄がいて、兄の世界には私が強く根付いてしまっていて、何もない私にとっては幸せだったから感謝していたけれど、
与えられるばかりで、奪うばかりで、私は兄に何も返せなかったんじゃないかって。
十数年もの間、ただ兄だからと使ってくれた大事な時間を無意味にしてしまったんじゃないかって。
もっと長生きできなくてごめんなさいって――最期には凄く後悔した。申し訳なかった。
「……ごめん」
目を覚ました時に見える景色はいつも真っ白な天井だった。両親の計らいで少しでも良い個室を宛がって貰えはしたものの、少し歩く程度で息切れしてしまったりして満足に見て回ることもできなかった白を基調とした小さな箱の中。それが私が生きてきた世界。
窓の外には多くの緑があって、どこまでも続く青い空があって、私が死んでもできない自由気ままに動き回る人々がたくさんいるのに……寝ているか自由を羨むか本を読むかくらいしかできないのが私の人生。そこに彩りを加え、幸せだと言わしめてくれたのは間違いなく兄だったと思う。
だから感謝は絶えない。尽くしてくれた時間への対価を払えない後悔も絶えない。
「ごめんね。全部無駄にしちゃって」
「なんだよ。ゲームはちゃんとやってくれてるだろ」
「そうじゃなくて……今までの時間、全部無駄にしちゃうから」
何言ってるんだって、困り顔で私の額に手を当ててくる兄の手は硬くて擦り傷のちょっぴりざらざらとした感触がある。でも……これは私の思い出。あるいは夢。私が感じたことのある感覚を思い出しているだけ。でも温かいのは本当。
また明日と言ったのが最後で、お別れではなく約束のような最期だった。
私がいなくなって楽になっただろうか、悲しんだだろうか、喜んだだろうか。どうせなら喜んでいて欲しいと思うのは我儘だろうか。
これが夢だと分かってる。だって、起きているのに苦しくない。声を出しても苦しくない。どきどきしていても痛くない。あるはずの痛みがないから間違いなく夢。だからこれは私の我儘。
ありがとうと言うのも、ごめんねと言うのもそうしたかった私の後悔。
「ありがと……凄く、幸せだった」
それは良かったって笑ってくれる兄の笑顔が真っ白に染まって消えていき、天井とカーテンが混ざり合って世界そのものが光の中に溶けるように失われて――。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
はっと目を覚ました瞬間に見えてきたのは荒い造りの灰色の天井。次にお気持ち程度の木製の衝立が見えて、火の魔術を用いた魔導具であるランプが視界に入る。横を見ればお願いした通りにヒロインであるグラディウス男爵令嬢が静かに寝息を立てていた。
瘴気の暗く息苦しい雰囲気はすっかり消えて、聖気法の効果もちゃんと消えてくれたようで包み込む光も今は見えない。
良かった。と安堵した直後「体調は問題ありませんか」と反対側から声がかけられて体を起こすと「横になって頂いて構いません」と言いながら体に触れてきたのはまさかのプリムラ・サンビタリア公爵令嬢だった。どうしてここにという疑問が悟られたらしく「生徒会役員ですもの」と笑みが返る。
「まさか、殿方に淑女の寝顔を見て頂くわけにはいかないでしょう? 茶会で騒ぎを起こすような騎士の風上にも置けない人に見張らせるだなんて許せませんし」
「あれは……仕方がないことだったかと……」
「理由がどうあれ、貴族令嬢の顔を潰す暴挙など許されませんわ。貴女が辺境貴族だろうと貴族令嬢であるならば矜持を持ちなさい。学園が学生の国であるならば、そこで開かれるティーパーティーは淑女の国です――」
そこまで言ってから軽く咳払いして「叱りに来たわけでは」と軽く謝ったプリムラ嬢は私とヒロインを交互に見てから「話は聞いています」と切り出した。
「聞いた以上のことを問う気はありませんからご心配なく。ただでさえ国家機密ですし」
「助かります」
正直聞かれたからと言って何かを言えるわけでもないからどうにもならないけれど、何も聞かないと予め言ってくれるのは凄く助かる。沈黙してしまうことで変な空気になることはままあるから。
私が安堵したのを見てもプリムラ嬢は穏やかに笑みを浮かべて、気になるだろうからと話をつづけた。
意識を失ってからすでに1日経過していて、ヒロインについては肉体的にも魔力的にも快復して私よりも少し先に目を覚ましたものの私が目を覚ますまではどうすることもできないから、今はまた眠っているらしく……少し申し訳ない気がする。
そして第一王子殿下や検証官、フィッツバーン卿を含む護衛の証言により、私が魔女ではなく聖女であることが謁見の場にいたみんなに伝わったため、私の拘留や処罰に加えて元から問題の無かったヒロインについても処罰を避けることが出来たらしい。つまり、無罪放免ということだ。
「では、そろそろお医者様を呼びに行ってきますから大人しくしていてください」
その為にあらかじめ説明までしたんですから。と念押ししてくる優しさに「ありがとうございます」とお礼を返すと
「すべきことをしているだけですから」
彼女は少し気恥ずかしそうな表情を見せて足早に部屋を出ていく。それから数分も経たずにお医者様を連れてプリムラ嬢が戻ってきた。
――おまけに、フィッツバーン卿を連れて。




