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聖女


「うっ……っ……」


部屋から漏れ出てくる空気からは生物が酷く腐り果てたかのような死臭に似た臭いがする。辺境では森林の奥地や山岳地帯に入ると魔獣によって食い荒らされた魔獣や力のない動物、無謀な冒険家達の死骸が良くそんなにおいを漂わせていたから、死臭など慣れたものだと思っていたのに、堪えがたい刺激に体が震えてしまう。口を開けば言葉の代わりにダメなもの吐きそうだ。と、すぐそばにいたフィッツバーン卿の袖を掴む。


「ユーリア嬢?」


声が出なくて首を振ったけれど、離れることは許さないとばかりに騎士団長が私の腕を掴んで部屋に引き入れられた。

執拗に言い聞かせられる「王命」という言葉は言われなくたって分かっているけれど、どうしようもないと言葉にするよりも早く引き入れられた私の体が膝から崩れ落ちた。


「立て」

「ロドロフ団長、令嬢の様子がおかしいです。少し休ませては――」

「これは王命だルイス・フィッツバーン。なにより魔女の疑いがある者に心を許してはならないと出立前に言われたことを忘れたか」


冷徹な声色で言われてもなお異を唱えてくれる優しい騎士様に対して「出ていけ」と団長様は一蹴する。魔女に魅入られたのならば害になりかねないというその判断は間違っていない。けれど万が一にも聖女である可能性だってあるのにと文句さえいえない体の不調が疎ましい。

いっそこのまま気を失おうかとしかかっていた私の腰に手を当ててきたのは、意外にも第一王子殿下だった。


「気休めですがこちらを。魔力干渉を抑える魔導具の部品の一つです。本来であれば魔術の発動を安定させるためのものですが役に立つかと」

「殿下!」


近付かないでください。とすぐに引きはがされたけど手渡された石のおかげで、さっきまでよりは気分が良くなった。そのサファイヤの様な青い石には見たことの無い魔術陣が刻まれていて、全体が淡く光りながら徐々に色が滲むように汚れていく。

ゲームでの説明通りであれば、魔吸石と呼ばれていた魔力を吸収しため込んでおける消耗品で、石の大きさや純度で容量が変わり、手元にあるのは片手に収まる程度ではあるものの純度が高い高級品だろう。


「少し楽になりました……ありがとうございます」

「無理せずにと言いたいところですが、状況が状況ですのでお願いしますヒスペリム辺境伯令嬢」


厳しい団長の一方で、飴のように気遣ってくれる第一王子殿下に一礼して深呼吸する。部屋の窓は開いているのにどす黒く淀んだ死臭は部屋の中に留まって循環する気配が全くない。それどころか部屋の一部……死んだように眠っているヒロインから漏れ出ているのが目に見えていた。


「一つ確認させていただきたいのですが、皆様は特に何も感じていないのでしょうか。魔力的にも視覚的にも物理的にも」

「私には何も感じられないな……」


この部屋の異常さをまるで気にしていないのはすでに体験した可能性もあると考えて念のため確認をしてみたけれど、第一王子殿下同様に全員が首を横に振り、何も異常は感じられないと答える。魔力に敏感で検証を行うことが出来る検証官ですら違和感を覚えないにもかかわらず、私だけが感じ取れるのはつまり……そういうことだろう。


ゲームの設定を鵜呑みにするわけではないけれど、ゲームでは聖属性という特殊な属性を備えている聖女のみが知覚可能な瘴気と呼ばれる魔力の滞留現象が存在している。

本来、大気中に紛れている魔力は精霊達によって浄化されて大きな影響を及ぼすことはないけれど、稀に浄化しきれていない魔力溜まりがそういう設定で、近く的にはどす黒く淀んだ霧のようなもので、においは極限まで発酵しきった耐えがたい刺激臭……今まさに目の前に広がっているものだ。

聖属性という抗体のような力を持つ聖女にとっては強烈な毒となって過敏に影響が出る一方で、それを持たない一般の人々は気づかないうちに侵され取り返しがつかなくなっていく恐ろしいものでもある。

それをはっきり見えていることはやっぱり……疑われた通り、ということだ。


魔吸石がどす黒く握っていくのを横目に、そっと胸に手を当てて生臭い毒を肺に取り込んでいく。吐きそうな嫌悪感と内臓をかき乱されるような苦痛にふらつきそうになりながらゆっくりと息を吐いて。


「……聖気法」


呟いた言葉をトリガーとするかのように、ふわりと周囲に小さな風が巻き起こって瘴気を僅かに弾き飛ばし、私の体を覆うように薄い光がゆらゆらと揺れる。自身の聖なる魔力を解き放って瘴気を浄化する聖属性魔法と呼ばれる技の一つ。聖女が最初から使える技の一つだと言われていたから試してみたけれど、運が良かったらしい。いや、良くはないけれど悪くはなかったというのが正しいかもしれない。

これで、私が聖女であることが確定してしまったわけで……。


「やはり……貴女は聖女なのですね」

「そうみたいです。見えていますか? 今のこの状態が」

「いえ、ただ少し空気が変わったような感じがしました」


そう言いほほ笑む第一王子殿下からヒロインへと視線を移す。ヒロインを飲み込もうとしている汚れた魔力は私が自分自身を包むために使った聖気法と似た微かな光によって阻まれて滞留してしまっているのだとようやく分かった。


「やっぱり、私のせいですね……」


魔法は魔術のように古代文字や陣を描いて発動させるのではなく、祈りや呪いのように強く思い描くことで発動する奇跡のような力だ。

あの日、あの時、私が面会をしたあの場所でヒロインを抱き、この酷く傷ついてしまった子を救いたいと強く願ったことがまさにその祈りとなって魔法が発動し、ヒロインの体を包み込んだのだろう。

地下牢獄という環境は淀んだ空気が滞留しやすいため、その聖気に向かって瘴気が集まったことで聖気法が活性化しヒロインを守るために魔力を根こそぎ奪っていた……と言うのが答えのような気がする。


「フィッツバーン卿」

「はい、聖女様」


聖女様はやめてと潜めながら笑みを返して「私のことは任せます」と一任した。団長殿は気遣いにかけているし第一王子殿下に迷惑はかけられないというほとんど消去法みたいな選び方で申し訳ないけれど。


「近辺の瘴気を全て浄化するので恐らく今の私では耐えられずに気を失います。できればグラディウス男爵令嬢と同室で寝かせてください」

「しかし――」

「でないとまた、彼女に瘴気が集まりかねないので」


聖女である私と一緒に居た方が、衰弱したヒロインの回復も早くなるだろうからそれが一番いい。殺しかけた加害者と被害者だとかなんだとか問題は色々あるだろうけれど命にかかわることの上、聖女の願いであれば無碍には出来ないはず。

もう一度だけお願いしますと念を押してから、私の祈りによって微かに発光して見えるヒロインの傍に寄る。

聖気法を使っていてもなお、息苦しさを覚えるような重い瘴気に充てられ続けてどれほど苦しかったのか私には想像もつかない。けれど、きっともう、これで大丈夫なはずだから。と、細く小さな手を優しく握って静かに祈りを捧げる。


魔法に言葉は要らない。ただ祈るだけでいい。けれどもイメージが重要とされる魔法の発動において、ゲームで技名として固定化されていた私には言葉こそ重要だった。

その言葉に紐づいてどんな効果が得られるのかどんな影響が出るのかを私は熟知しているから、ただ想像するよりも遥かに精度が高くなるはず。


聖域(サンクチュアリ)


言葉を祈りとして捧げ、自分の身体の中に巡る魔力の全てを解き放っていく。容赦なく魔力が体から抜けていき、まるで、魂までもが引き抜かれていくかのような感覚に陥る。間際、フィッツバーン卿の鬼気迫った呼び声が聞こえた気がしたけれど、私にはどうすることもできないまま全てが白い光に包まれて、意識が途絶えてしまった。

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