隣人の死
空は曇っているのか、それとも晴れているのか、わからない灰色の光が地面を魅せる。都市は静まり返り、人影はほとんど見えない。ひび割れたアスファルトに足音を響かせる男は、ただ光を見つめて歩いていた。名前は黒瀬 結城。何もない日々を生きているだけの1人の人間。
「どうせ人は死ぬ」
彼の口から漏れた言葉は誰かに語りかけるものではなく、自分自身を納得させるための呪文のようなものだった。
きっかけは分からないが、ここ数ヶ月、この言葉が頭を埋め尽くしていた。
生きる意味はあるのか?
働く意味はあるのか?
友達と語り合う意味はあるのか?
彼女と過ごした日々の意味があるのか?
結城は全ての問いを、無駄と断じていた。
何もない日、彼の住むアパートの隣室で、老人が孤独死した。死後数日が経過されてから発見されたその遺体は、腐敗が始まっていた。警察の現場検証が終わり、特殊清掃業者が部屋を片付けている様子を片目に、黒瀬 結城はベランダに出て煙草を燻らせていた。
「隣のじいさん、結局なんだったんだろう。あの人は何を求めて生きていたんだろうな。」
「さむ。」
誰にも聞こえない声で呟いたその息は白くなっていた。数分後、付近から音が聞こえる。
カサ…カサ…カタンッ。
音の鳴る場所を探すと、隣室のベランダからだった。白い仕切りがされており、何かが作業中に落ちた事は分かったが、確認はできなかった。
「もう少し静かにやってくれよ。」
特に興味を示さず、は静かに煙草の火を消した。そしてそのまま、その雑音をかき消すために布団に潜り込んだ。
結城はその日、派遣バイトを休んだ。休む気はなかったが、起きる気が無かった。派遣元から何度も電話がかかってきたが、全て無視した。
自然と目が覚め、時刻を確認するためにスマートフォンの画面をタップする。結城はあまりの眩しさに目を細めた。2時41分。
「そんなに寝たのか。」
ベランダに出て徐に煙草を取り出し、ポケットを弄りライターを探す。しかし人差し指と中指の保持力だけではその動作に耐えきれなく、音もなく煙草が落ちた。
「あぁクソ。」
結城は腰を落として拾い上げる。ふと視線を隣室に向けると、何かがあった。手を伸ばしてそれを拾い上げる。
「手紙?」
宛名は書き記されていない。封がされていた。結城は綺麗に封を開けた。中を見ると無機質デザインの便箋にこう綴ってあった。
《どうせ人は死ぬ、》
結城は寒さを忘れた。自分と同じ考えを持ち、生活を送る人間が、つい此間まで横に住んでいたのだ。たまに訪れるカフェで十数年以来の親友にたまたま会ったことを思い出した。男は続きの文字を読む。
《どうせ人は死ぬ、それでも... 》
「それでも?」
以降は文字が滲んで読めない。ふと視線を下に落とす。地面は濡れてはいない。封筒を隈なく見てみるが、シワなどの乾いた形跡は見当たらない。一度濡れてしまった紙は乾いてもその痕跡が残る。つまり、この手紙は濡れた後に封筒に入れられたということになる。何故。
結城はベランダに身を乗り出し、隣室を覗いてみた。そこには家具1つ、壁紙1枚すらなかった。どうやら寝ている間に全て片付いたらしい。
「やるな、プロ…」
左手にある手紙に目を向け、室内に戻った。結城はその手紙を無造作に自分の机に放り投げ、床に就いた。