序章 夏の終わり
山は静かに呼吸をしていた。かつて炎に包まれ、黒く焦げ付いた大地には、小さな芽が所々から顔を覗かせている。夜明けの冷たい風が山を優しく撫で、空には澄んだ星々が瞬いていた。
ゴルギは鍬を手に、焦げた土を掘り起こして新しい畑を作ろうとしている。アリシアは彼の隣で、村の若者たちに指示を出しながら黙々と作業を進める。家畜小屋ではラルカが修理を指揮し、レミナが怯える動物たちを優しく撫でていた。村長のタリオは広場で指揮を執り、全体の状況を把握しながら次の手を考えている。
村の空気には、どこか安堵と希望が漂っていた。しかし、その希望を胸に抱きながらも、たった一人だけ、深い迷いを抱え続ける少年がいた。
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彼の目の前には、影との戦いの跡が生々しく残る石造りの祠がある。静かな光が祠の奥から微かに漏れ出し、夜の闇に淡く広がっている。
(あの影は、悪ではなかった……)
エリオはその事実を痛いほど理解していた。最後に見せた影の姿、残された言葉、そしてその消滅の瞬間。あの存在はただ穢れに囚われ、苦しみ、助けを求めていただけだった。影は敵ではなく、むしろ守る者であり、同じ使命を背負った存在だった。
「……ごめん」
エリオの小さな声が静かな夜に溶け込む。その声は祠に届いたのか、届かなかったのか。答えは返ってこない。
「俺は……あの時、どうすればよかったんだ?」
エリオは両手を握りしめ、膝をつく。脳裏にはあの瞬間が何度も何度も繰り返される。三つの力を解放し、影を完全に浄化してしまったあの瞬間――。
(もう僕の故郷は戻らない……でも、この山には祝福を……)
あの言葉は耳から離れない。そして、その言葉に込められた哀しみと優しさが、エリオの心に深い影を落としている。
「俺は、あの存在を……救えなかった……」
エリオの目から、一筋の涙がこぼれた。彼は拳を地面に打ちつける。
「俺は……間違えたんじゃないか……」
その時、風が静かに吹き抜けた。山全体が、まるでエリオを慰めるかのように穏やかな風を送り込んでくる。それはまるで山神の優しさのようでもあった。
「山は……俺を責めていないのか……?」
エリオは顔を上げ、祠を見つめる。その光は微かに輝きを増し、まるでエリオを肯定するかのようだった。
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人々は互いに笑い合い、安堵の表情を浮かべながら、ささやかな食事を分け合う。エレナは広場の中心で子どもたちに優しい笑顔を向け、ルシアは風向きを見ながら、安心したように肩を下ろしている。
しかし、その輪の中にエリオの姿はなかった。
アリシアが広場の隅に立ち尽くすエリオを見つけ、ゆっくりと近づく。
「エリオ、どうしたの? みんなで食事しようよ。」
エリオはかすかに微笑むが、首を横に振る。
「ありがとう。でも、今は……」
アリシアはそれ以上何も言わず、静かにエリオの隣に座った。
しばらくの沈黙の後、彼女は小さな声で言う。
「エリオは……きっと大丈夫だよ。だって、あの時、あなたは本当に一生懸命だったから。」
エリオは驚いたようにアリシアを見つめる。彼女は優しく微笑んでいた。
「……ありがとう」
短く言葉を返し、エリオは再び山を見上げる。夜空には秋の星々が美しく輝いていた。
その夜、エリオは再び祠を訪れた。
静かな月明かりの下、山全体が冷たい夜風に包まれている。
「“奴ら”……」
エリオは小さく呟く。影が残した最後の言葉――「奴らに気を付けて」。
それはただの警告ではなく、何か重大な意味を含んでいると直感していた。
「次に何かが起きるとしたら……俺は逃げない」
エリオの目には、迷いはなかった。彼は静かに祠の石碑に触れ、その冷たさを感じながら、目を閉じた。
(俺は、この山を守る――それが、あの存在にできなかったせめてもの償いだから)
秋の冷たい風が吹き抜け、木々が揺れる音だけが静寂の中に響いていた。
夜空に瞬く星々が、エリオの決意を見守るかのように静かに輝いていた。




