第12章 もえる山⑤ 浄化
祠の前、エリオは渦巻く黒い影を睨みつけていた。影は祠を覆い隠すように動き、周囲の炎を吸い込むかのように蠢いている。その姿は、ただの自然現象ではなく、山の調和を乱す存在そのものだった。
『逃げろ……』
低く冷たい囁き声が耳元に響く。その声には敵意は感じられず、むしろ深い悲しみが滲んでいるようだった。だが、そんな言葉に耳を貸す余裕はなかった。
「逃げろ、だと? ふざけるな!」
エリオは拳を握りしめ、怒りを込めて叫ぶ。
「俺は、こんなところで逃げるわけにはいかない!」
すぐさま「風見の導」を発動させた。風が祠の周囲で渦を巻き、影の動きを封じるように制圧し始める。次にエリオは「山智」を発動し、大地に流れる乱れた力を整えようと力を注ぎ込んだ。そして最後に、「恵みの息吹」を解放する。祠から溢れ出す眩い光が影を包み込み、その輪郭を薄れさせていった。
『やめろ……』
影の声が弱々しく響く。エリオは一瞬だけその声に耳を傾けたが、すぐに力を込め直す。
「やめる? 冗談じゃない。ここで消え去ってもらう!」
光の輝きが一層強まり、影は苦しむように揺らめき始めた。しかし、その時だった。
『……僕は……別の山を守っていた……でも、穢れが僕を……』
か細い声がエリオの耳に届く。その言葉はエリオの思考を一瞬止めた。影がただの脅威ではなく、かつてはこの山のように別の地を守る存在だったことに気づいた瞬間、彼の動きが鈍った。
「……別の山? お前は……いったい何なんだ?」
力を注ぎ込んでいた拳が、思わず緩む。影はその隙を逃さず、さらに囁くように言葉を紡いだ。
『君と同じ……山を守るために……でも、奴らが……』
「奴ら? 誰なんだ? お前に何をしたんだ!? 答えろ!!」
エリオの中に湧き上がるのは混乱と戸惑いだった。影は敵だと思っていた。だが、今聞いている話が真実ならば、消し去るべき存在ではなかったのかもしれない。その矛盾がエリオを迷わせた。
『君も気を付けて……奴らは……穢れを……』
影の輪郭が崩れ、透き通る光となりながら消えゆく。エリオはその様子を見て、息を飲む。その光は、傷つき、疲弊し、命尽きる寸前の何かを訴えているようだった。
「俺は……お前をこんな形で……!」
エリオは手を伸ばし、止めようとした。だが、光は徐々に消え、もう声も届かない。
『……もう僕の故郷は戻らない……でも……この山には祝福を……』
最期の言葉が風に乗り、祠に吸い込まれていく。それと共に影は完全に消滅し、山全体に穏やかな風が吹き抜けた。
エリオは拳を握りしめたまま、立ち尽くす。影の正体が、かつて山を守る存在だったと知った今、自分の行動への後悔と、それを阻むために何もできなかった無力感が胸を締めつける。
「俺は……正しかったのか……?」
その呟きは風にかき消され、山の静けさの中に溶け込んでいった。
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「火が止まったぞ!」
ケベルが山岳馬を駆って村に戻り、その声を広場に響かせた。その瞬間、村人たちは一瞬の静寂の後、歓声を上げた。疲れきった顔には笑みが広がり、安堵の涙を浮かべる者もいた。
「やった……やったんだ!」
エレナが声を震わせながら呟く。その言葉はまるで村全体の感情を代弁するかのようだった。彼女はすぐに村人たちを励まし、水を汲む手を止めるよう指示する。
「もう大丈夫よ。みんな、休んで!」
風向きを監視していたルシアも、深いため息をつきながら高台から降りてきた。彼女は少しだけ肩を落とし、疲労感を隠さずにタリオの隣に立つ。
「これで火は収まりましたね。村長、指示通りに動いたおかげです。」
静かに語るルシアの言葉に、タリオは短く頷いた。その目には深い感慨が浮かんでいた。
「いや……エリオの活躍だ。あいつが山を守った。」
その言葉が広場にいる村人たちの間に広がり、静かなざわめきが起こる。誰もがそれぞれの胸の中でエリオの姿を思い浮かべ、感謝の念を抱いた。
「エリオが……」
誰かが呟き、それに応じるように村人たちは祈るように手を組んだり、空を見上げたりする。
赤い月は山の向こうへ沈み始め、空が僅かに明るさを取り戻し始めていた。夜明けが訪れようとしている。だが、この静寂はただの静けさではなかった。それは、エリオと村人たちが共に勝ち取った、未来への希望と新たな決意を秘めた静けさだった。
エレナは空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「エリオ、無事でいて……」
その声は誰にも聞かれることなく、消えゆく月の光と共に山へと届いていくようだった。




