第3章 岩角羊(ワルペ)の放牧と許嫁候補
春の訪れとともに、クレルヴァ村の風景は少しずつ変わり始めた。雪が溶け、山間を流れる小川の水音が、春の息吹を告げている。冷たい風は依然として山々を吹き抜け、村に冷気をもたらしているが、それもまた春の始まりを感じさせるものだった。エリオ・ヴァルカスは早朝から岩角羊の放牧の準備に取りかかっていた。春を迎えると、岩角羊たちは新たな草を求めて放牧され、村の人々にとってその毛皮、肉、乳は生命線となる大切な資源となる。
岩角羊は村の生活にとって欠かせない存在だ。特に寒冷地で育つ岩角羊は、村の人々にとって食料や防寒具を提供する貴重な存在であり、その役目を担うエリオには大きな責任が伴う。肉や乳はもちろん、毛皮もまた村人たちが冬を乗り越えるために必要不可欠なものだ。エリオが放牧を担当するのは、単に岩角羊たちを移動させるだけでなく、その健康や安全を守るための重要な任務だからだ。
「さあ、行こうか。」
エリオは呟きながら、山道を歩き始めた。彼の視線は目の前に広がる険しい岩場をじっと見据えている。岩角羊たちが待つ場所は、山の奥の草地だ。エリオはその場所をすでに見定めていたが、彼の能力である「風見の導」を使い、風向きや天候を感じ取ることで、最適なタイミングと場所を見極める。周囲の風の流れ、空の状態、さらには山の微細な変化までも読み取りながら、エリオは群れを安全な場所へと導いていく。
「風向きは安定しているし、今日は天気も崩れる心配はないな。」
エリオは空を見上げ、深呼吸をした。春の陽気が顔に当たり、微かに山の息吹を感じることができる。やがて、風に揺れる草花とともに、エリオは岩場の隙間に新緑が顔を出すのを見つけた。その草地こそが、岩角羊たちを放牧するのにふさわしい場所だと確信し、群れをそこへ導くことに決めた。
エリオが前を歩くと、岩角羊たちも静かにその後を追っていく。彼の指示に従い、筋肉質な体躯を持つ岩角羊たちは岩場を一歩一歩踏みしめながら進んでいく。その特徴的な二本の岩のような角を揺らしながら、岩角羊たちはまるで山々と一体になったかのように歩を進めていく。エリオはその背中を見守りながら、彼らが村の命を繋いでいることを再認識する。自然との調和を保ちながら、生きていくための最適な方法を選ぶことが、エリオの仕事だ。
群れが順調に草地に到達し、岩角羊たちは草を食み始めた。エリオは少し後ろに下がり、静かにその様子を見守っていた。春の空気が冷たくも温かくも感じられる中、エリオは村の未来と、自分が担うべき役目を改めて考えながら、しばしの間その場に立ち尽くしていた。
その時、エリオは背後から聞き覚えのある声が響いてきた。振り返ると、数人の若い女性たちが集まっているのが見えた。彼女たちはエリオの許嫁候補であり、彼がこれから選ばなければならないパートナーとして、村を支える重要な存在だった。
ここで、村における許嫁制度について説明しよう。村における結婚は家族や村の名誉がかかる重要な儀式であり、そのため幼少期(5~7歳)に各家に適した許嫁が決められるのが一般的である。しかし、エリオの場合は特殊だった。彼は村の中でも特別な存在であり、「実り手」として神聖視されている。実り手は山神の祝福を受けた者で、癒し手、読み手、語り手という3つの重要な能力を有し、その役割は村の繁栄に深く関わる。実り手の結婚は村全体に関わる重大な出来事であり、簡単に決められないため、エリオには通常の許嫁制度が適用されない特別な状況が設けられている。
それが許嫁候補制度である。村では結婚相手は通常1人に決まるが、エリオのような神聖な存在には、複数の女性が許嫁候補として認められている。これは実り手の結婚が村全体の運命に影響を及ぼすため、慎重に最適なパートナーを選ぶ必要があるからだ。
一方で、エリオ自身はこの制度に疑問を感じていた。彼は5歳の時に前世の日本人大学生としての記憶を思い出しており、自由恋愛の方が理にかなっているのではないかと考えていた。また、幼少期に家柄によって許嫁を決める村の風習に対し、情操教育の観点から疑問を抱いていた。しかし、村長をはじめとする長老たちは保守的で、この風習を崩すことを許さなかったため、エリオはしぶしぶ許嫁候補制度を受け入れていた。それでも、村長の世代交代に応じて状況が変われば、柔軟に対応するつもりでいた。
最初にエリオに声をかけたのは、アリシアだった。彼女はエリオの2つ年上(12歳)で、村における豪農ガンチャカ家の娘である。活発な性格で、村の行事や祭りを先導する気概にあふれた女性だ。村の雰囲気を明るくし、行動力のあるアリシアは、エリオにとってどこか似たような強い意志を感じさせる存在だった。
「エリオ、遅かったじゃない!岩角羊たちは無事だったの?」
アリシアは慌てた様子で駆け寄り、心配そうにエリオを見上げた。その明るい声には、エリオへの関心と心配の気持ちが込められていた。
「大丈夫だよ、アリシア。風向きも安定していたし、今日は特に天気が崩れる心配はない。」
エリオは微笑みながら答えた。アリシアはその言葉にホッとした様子で、少し照れくさそうに言った。
「それなら良かったわ!放牧が終わったら、少し山に登ってみない?新しい薬草の群生地を探しているの。」
アリシアの提案に、エリオは一瞬考えた後、頷いた。
「それもいいね。放牧が終わったら、アリシアと一緒に行ってみようか。」
エリオが答えると、アリシアは嬉しそうに顔を輝かせた。
その横に静かに立っている女性が一人、ルシア、10歳だった。彼女は商家ファルファウ家の娘で、村では物々交換が基本だが、ロナード・グリセヴァなどの行商人との大口での取引や、村での商品や作物の在庫管理などを行っている。穏やかな性格で算術に優れ、自然や動物との調和を大切にする女性だ。エリオが迷った時や心が疲れた時、ルシアの存在は常に心の支えとなってきた。
「エリオ、今日はどこかに薬草を見に行くつもり?私も行って手伝うわ。」
ルシアの柔らかな声がエリオの心を落ち着かせる。彼女の知識と冷静な判断力は村でも高く評価されており、エリオにとって大切な存在だった。
「うん、放牧が終わったら、ルシアも一緒に行こう。」
エリオが優しく答えると、ルシアは微笑みながら頷いた。その穏やかな態度が、エリオの心に安心感をもたらした。
少し離れた場所に立っていたのは、エレナ、16歳だった。彼女は狩猟している父と農家である母との娘で、村では一般的な家柄だが、彼女の父方の家名であるホルギンガンド家は今までに一番多くの三役を輩出してきた家柄とされ、「実り手」であるエリオとの婚姻を多くのものが期待している。家柄独自の伝承があるらしく、薬草学や村の伝承に精通し、知識に優れた女性だ。冷静で計画的な性格の彼女は、エリオが「語り手」としての知識を深めるために頼りにしている。
「エリオ、今日は忙しそうね。」
エレナの静かな声が、周囲の静寂を破った。彼女は感情をあまり表に出さず、どこか無愛想に見えるが、エリオにとっては心強い存在だった。
「エレナも一緒に来る?」
エリオが尋ねると、エレナは少し考え込んだ後、ゆっくりと答えた。
「そうね、薬草学の新しい発見をしに行くのも悪くないわ。特にイヌマ(エゾトリカブト)の群生地が気になっているの。」
エリオはその言葉に頷き、エレナの知識に対する敬意を再認識した。
「じゃあ、薬草畑で集合しよう。」
エリオの提案にエレナは満足そうに頷いた。
エリオは許嫁候補たちと共に歩きながら、心の中で彼らとの関係が、ただの結婚問題にとどまらないことを感じていた。彼にとって、許嫁候補たちはただの結婚相手候補ではなく、村を支える重要なパートナーとしての役割を持っていた。それぞれが持つ特性や能力は、エリオの役目を支えるだけでなく、村の未来をも形作る要素となる。
アリシア、ルシア、エレナ。三人の女性は、それぞれ異なる強さを持っており、エリオにとってどれも欠かせない存在であることを改めて感じていた。アリシアは村の行事や祭りを牽引する活力を、ルシアは自然との調和を大切にする穏やかな支えを、そしてエレナは知識と知恵で村を導く重要な役割を果たしている。どの女性も素晴らしい人物であり、それぞれがエリオと共に歩むべき相手であると感じていたが、最終的に誰を選ぶかがエリオにとっての大きな選択となることを心の中で理解していた。
村の未来を支えるためには、最適なパートナーを選ばなければならない。その選択が村の繁栄を左右し、またエリオ自身の役割をどう全うするかに大きな影響を与えるのだと、彼は痛感していた。
「エリオ、今日は頼りにしてるわよ。」
アリシアが元気に言った。その言葉に、エリオは少し心を強くした。アリシアはいつもエリオの力強さを引き出してくれる存在だった。
「うん、もちろん。アリシアがいると、どんなに大変でも乗り越えられる気がする。」
エリオは笑顔で答えた。
「ルシア、今日も一緒に山に行こう。」
エリオは穏やかな目を向け、ルシアに言った。ルシアはエリオの心の支えであり、自然の力を感じ取る力を持っている。
「うん、エリオが必要な時はいつでも力になるわ。」
ルシアは優しく微笑みながら答えた。
最後に、エレナにも言った。
「エレナ、君がいるから、僕は何でも乗り越えられる。君の知識があれば、どんな困難でもきっと解決できる。」
「ありがとう、エリオ。私たちが協力すれば、きっと村をもっと良くできるわ。」
エレナの冷静な声に、エリオは深く頷いた。
村の未来を共に支えるべきパートナーを選ぶという重責を担いながら、エリオは日々の役割を果たしていた。許嫁候補たちとの関係は単なる結婚に留まらず、村の繁栄を共に支えるために築かれた絆であり、その選択がどれだけ村にとって重要なものかを、エリオは日々感じていた。
春の空気の中で、岩角羊たちの放牧が順調に終わった後、エリオは許嫁候補たちと共に歩みながら、それぞれの特徴や役割を心の中で思い巡らせた。村を支えるために必要な役割を果たすために、最適なパートナーを選ぶことが、彼にとって最も重要な課題であり、その選択がエリオの未来を、そして村の未来を決定づけるのだ。
エリオはその日、許嫁候補たちとの歩みの中で、心の中で決意を新たにした。どの女性を選んでも、彼の未来と村の未来に深い影響を与えることを理解しながら、エリオはその重い選択を少しずつ受け入れつつあった。
「どんなに悩んでも、最終的には俺が選ぶべきだ。」
エリオはそう心の中で呟きながら、村の未来に思いを馳せて歩き続けた。