第8章 もえる山① 兆候
この日をエリオは忘れない。
月が赤く染まった夜、村の静けさが一変した。
エリオが赤い月に照らされた境界線から戻ろうとしたそのとき、山の方角から聞き慣れない低い音が響いてきた。それは、動物がうなり声を上げるような音とも、人間が苦しむ声ともつかない、不気味な響きだった。
エリオの足が止まる。冷たい風が体を包み込み、背筋がぞくりとした。
『調和が乱れる時、自然は叫ぶ……。』
祠で山神から啓示された言葉が脳裏をよぎる。目の前の風景が、祠で見た幻――揺れる草原、燃え盛る火、そして黒い影――と重なって見える気がした。
「これはまずい……」
呟いた瞬間、村の方角からタリオの声が聞こえた。
「エリオ!」
振り返ると、タリオが境界線に向かって駆けてきた。その顔には焦りの色が濃く浮かび、ただならぬ事態が起きていることを物語っている。
「ジジイ、どうしたんだ!?」
エリオは慌てて駆け寄る。
「山の動物たちが、村の方に下りてきてるんだ……! これはただ事じゃない。」
「動物たちが……?」
エリオは目を細め、山の方角を睨んだ。冷たい風の中に混じる不吉な気配が、皮膚を刺すように感じられる。
「ジジイ、広場に村人を集めろ。何かが始まろうとしている……!」
タリオは一瞬目を見開いたが、すぐに頷き、急いで村に戻っていった。エリオはその場に立ち尽くし、再び目を閉じた。「風見の導」と「山智」を同時に発動させ、山の状況を探る。
風の流れが乱れ、地中を伝う力が震えるように不規則だった。山全体がざわついている。その異常さは、言葉にしがたい不安感をエリオに抱かせた。
「これは……どういうことだ……?」
同じ頃、村の外れでゴルギ・ガンチャカとラルカ・ホルギンガンドが川沿いの様子を確認していた。
「これ……見てくれ、ラルカ。川が濁ってやがる……」
ゴルギが険しい顔で水面を指差した。川の流れがいつもの透き通った色ではなく、暗く濁っている。その上、小さな魚が数匹、川面に浮かび上がっていた。
「山の水が死んでるってわけ? ただの異変じゃないわね……」
ラルカは眉をひそめ、足元の草木に目をやる。葉は赤く染まり、枯れ落ちているものもあった。
「これは何かの兆しだ……嫌な予感がする。」
ゴルギが呟いた。
「村長に伝えるわ。これを放置しておくわけにはいかない。」
夜の広場にはタリオの呼びかけで村人たちが集まっていた。大人たちは険しい表情で話し合い、子どもたちは不安げに親の後ろに隠れている。
「山の上から降りてきた動物たちが村の外れに集まっている。夜にこんなことが起きるのは、儂が村長になってから初めてだ!」
タリオの声が響くと、村人たちの間にざわめきが広がった。
「どうするんですか、タリオさん! このままじゃ危険だ!」
と声を上げたのはケベルだ。隣にいたラルカが、腕を組んで冷静にケベルを一蹴する。
「ケベル、アンタはまず家畜小屋を見回りなさいよ。村長に指示ばかり頼んでないで、動ける男は黙って体を使う!」
「分かったよ、ラルカ……でも、無理はするなよ!」
「まさか、動物たちが家にまで入ってくるなんてこと……ないですよね?」
リナの母であるレミナが、震える声でタリオに問いかけた。
「それは分からん。だが、家畜小屋を守ることが最優先だ!」
とゴルギが声を張り上げる。
エリオは村人たちを見渡し、一歩前に進み、静かに口を開いた。
「俺が山を調べる。原因が分からなきゃ、これ以上の対応は無理だ。」
「お前、何か感じるのか?」
タリオの問いにエリオは短く頷く。
「山が……変わってきてる。『風見の導』で風の異常を感じた。それに、『山智』が地中の流れの乱れを教えてくれている。」
エリオは祠での記憶を思い出す。揺れる草原、燃え盛る火、そして黒い影――祠で見た幻が脳裏に浮かび上がる。
「ジジイ、これはただ事じゃない。祠での幻と関係してるはずだ。」
「ならばお前が調べるしかないだろう。山神の力を宿すのはお前だけだ。」
エリオは頷くと、村人たちを振り返った。
「まずは山の異常を探る。俺がやるべきことだ。」
その言葉に村人たちは静かに頷き、タリオは険しい顔でエリオを見つめた。
「お前、無茶はするなよ。」
「ジジイの命令なら、ほどほどにな。」
エリオは少し笑みを浮かべると、山の奥へと歩みを進めた。その背中には、これから訪れる試練の重さが刻まれていた。




