第1章 初夏書家
高山地帯に短い夏がやってきた。
と言っても、この地方の夏は湿気もなく爽やかだが、あっという間に過ぎ去る。朝晩の涼しさが、日中の陽光と交互に訪れるこの季節は、村人たちにとって「忙しいけれど幸福な季節」だ。畑仕事や家の修繕に追われながらも、村人たちは活気に満ちていた。
「おい、誰だ! 畑の隅に鍬を置きっぱなしにしたのは!」
村の中央にある広場で、日焼けした顔に刻まれた皺をさらに深くする怒声が響いた。声の主はゴルギ・ガンチャカ。農作業の達人である彼の叱責に、エリオは慌てて手を挙げた。
「あ、それ、僕です!」
「お前なぁ、鍬を大事にしろと言っただろ! さっさと戻してこい!」
「すみません!」
エリオは鍬を抱えて畑に駆け出した。村では、こうした怒りと笑いが絶妙なバランスで交差しながら日々が進んでいく。
畑の片隅では、年配の村人たちが畝を作りながら賑やかに話している。そこへまた新たな声が飛び込んだ。
「誰か川の水を汲んできてくれ! このままだと畑が乾く!」
「おお、任せろ!」
そう言って勢いよく立ち上がったのは、村長のタリオだった。肩に大きな水桶を担いで川へ向かおうとするが、数歩進んだところで「ギクッ!」という嫌な音が響く。
「ああ、まただ!」
タリオはその場で腰を押さえたまま固まる。見かねた村人たちは「だから無理するなって言ったのに」と笑いをこらえながらからかった。
「エリオ! 恵みの息吹をくれぇ!」
「……またですか。」
エリオは小さくため息をつきながら手をかざし、タリオの腰に力を送る。村長の顔がすぐに明るくなり、彼は軽快に水桶を担ぎ直した。
「よし、これでいける! さすがエリオだ!」
周囲の村人たちは笑いながらその様子を見守る。エリオは疲れた様子でまた鍬を手にした。
作業を終えたエリオは、畑から少し離れた場所に腰を下ろした。カバンからスケッチ用の紙を取り出し、村の風景を描き始める。彼が修行から戻って以来続けている趣味だ。だが、この活動は村長には内緒だった。
「これが山から見た村の全景で……川の流れはこうなってて……」
エリオは自分の描いた線を眺めながら満足げに頷く。だが、その紙は貴重品だ。これはケベルを通じてベノから贈られたもので、大事に扱わなければならない。
「お、また描いてるのか?」
ケベルが小さな籠を持って近づいてきた。
「何を描いてるんだ?」
「村の全景だよ。山の形とか、畑の場所とか。」
「ほう。まるで書家みたいだな。でも、その線、どっちかっていうと畝みたいだぞ!」
ケベルの冗談に、エリオは「ちょっと雑かもね」と苦笑いした。
その時、村の広場のほうから優雅な声が響いた。
「エリオ! またここにいたのね。」
振り向くと、エレナ・ホルギンガンドが立っていた。彼女はエリオの許嫁候補であり、伝承を重んじるホルギンガンド家の娘だ。
「エレナ、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわ。村の記録を描くなら、ちゃんと技術を学びなさい。」
エレナはエリオのスケッチを手に取り、厳しい目でじっと見つめた。
「まぁまぁ、悪くないわ。でもここ、もっと柔らかく線を引かないと、山が硬い感じに見えるわよ。」
「そうなの?」
「ええ。ほら、ここをこうして……」
彼女はエリオの手を取ると、筆を滑らせた。その瞬間、紙の上に山の滑らかな曲線が描き出される。
「わぁ……すごい!」
「ふふ、これであなたも私の弟子ね。」
日が傾き始める頃、エリオはエレナの指導の下でスケッチを続けていた。村の風景に溶け込む音や色を意識して描くコツを教えられ、彼の描く山や川の姿は徐々に生き生きとしたものになっていく。
「エリオ、絵だけじゃなく、この村の歴史や自然の調和についても記録に残すのよ。それが私たちの役目なんだから。」
「うん、わかった。」
エリオはエレナに頷きながら、次第に自分の描く世界がただの趣味ではないことに気づき始めていた。




